5.そして私は琥珀の秘密を知る

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5.そして私は琥珀の秘密を知る

 じっくり探すと言っていたのに、不動産屋のおじさんはなかなか優秀だったようで、二日後には良さそうな物件をピックアップしたと連絡が入った。  もっとゆっくりでも良かったのにと思いつつ、少し早めに喫茶店を上がって不動産屋で物件情報を受け取った。そのついでと言っては何だけど、学校まで琥珀を迎えに行くことにした。  私が物件を探していると知った日から琥珀の様子が少しおかしい。  急にふさぎ込んだり、そうかと思えばこれまで以上に私の世話を焼こうとしたり、夜中に私の部屋に来て布団に潜り込んだりした。  そんな琥珀の様子を見ていると、私が来る前の琥珀の様子を心配していた翡翠さんの気持ちがよくわかった。  だけど別に遠くに越そうというわけではない。ちゃんと話せば琥珀もきっとわかってくれるだろう。  学校までのお迎えはそのためのご機嫌取りのようなものだ。自分で言うのもなんだけど、忠犬ハチ公のような健気さではないだろうか。多分、琥珀も大喜びしてくれると思う。  丁度いい時間に琥珀の通う学校のそばまで来られた。だけど女子高生が溢れる学校の正面まで行く勇気がなくて、校門から少し離れた場所で身を隠して待つことにした。  琥珀を待つ間にも、次々と女子高生たちが私の前を通り過ぎていく。琥珀の姿を探すために自然と女子高生たちをじっくりと観察することになったのだけれど、琥珀は私が見たどの女の子よりもかわいいような気がした。これは親バカのようなものなのだろうか。  でも実際に化粧をしてめかし込んでいる女の子よりも、化粧っけのない琥珀の方がずっとかわいいのだ。  琥珀が最もかわいいのは、散歩のときにニコニコと笑いながら繋いでいる手をブンブンと大きく振るときだ。その顔を見ているだけでなんだか私まで幸せな気持ちになれる。  夜眠るとき、恥ずかしそうに私に抱き着く顔も甲乙つけがたいくらいかわいい。そのまま小さくしてポケットに入れて歩きたいくらいに愛らしい。  苦手なピーマンをそっと避けているのを指摘したとき、拗ねたように頬を膨らませる顔も食べてしまいたいくらいキュートだ。  多分、琥珀は世界でもっともかわいらしい生き物なのだと思う。  そんなことを考えていると、校門からちょっと信じられないくらいかわいい女の子が現れた。  もちろん琥珀だ。  だけどその琥珀は、私が知るいつもの琥珀とは違っていた。  俯き加減で表情は硬く、暗い。もしかしたら私が広瀬家に来る前まで、琥珀は家でもこんな表情をしていたのだろうか。だったら翡翠さんが心配するのも無理はない。  無邪気でかわいい琥珀をこんな表情にさせる原因は学校にあるようだ。だけど琥珀は毎日明るい顔で学校に行っていた。  暗い表情でトボトボと歩く琥珀を観察していると、その後ろから四人の女の子たちが近づいてきた。  クスクスと笑いながらチラリと琥珀の後ろ姿に視線を送っている。そして示し合わせたように四人が駆け出して琥珀を追い抜いた。  追い抜くとき軽く琥珀にぶつかって琥珀はよろめく。それでも琥珀は何も言わず、下唇を噛みしめて下を向いていた。  ぶつかったのは偶然ではない。偶然、四人が四人とも琥珀にぶつかるはずもない。  久々にイラっとした。  少女たちの声がかすかに届く。 「あれ? 今何かにぶつかった?」 「えー、ぶつかってないでしょう?」  そう言ってチラリと琥珀を振り返り、さらにクスクスと笑う。  私は物陰から歩み出て少女たちの前に仁王立ちした。そのまま一人ずつ張り倒してやりたい気持ちになったけれど、そこはグッと堪える。  突然現れた私に、少女たちは驚いて足を止めた。  私は少女たちの姿が見えないように振る舞い、真っすぐに琥珀を見つめる。  そして最上級の大人の笑顔を作って琥珀に声を掛けた。 「琥珀、迎えにきたよ」  私の声に顔を上げた琥珀は目を見開いたあと、気まずそうに目を逸らす。  私は琥珀を見つめたまま側に歩み寄った。 「碧依、どうして?」  視線を彷徨させながら言う琥珀の手をいつものように握る。 「ちょっと時間があったから。さ、帰ろう」  そう言うと、琥珀の手を引いて、呆然とした様子で私たちを眺めていた少女たちの間を颯爽と歩き抜けた。  学校から離れてしばらく経つと、黙って付いてきていた琥珀がようやく口を開く。 「どうして学校まで来たの?」 「私は琥珀の犬なんでしょう? 頑張ってご主人様を迎えに行ったのに褒めてくれないの?」  私が覗き込むようにして軽い口調で言うと、琥珀は手を伸ばして私の頭を撫でた。だけどその手にはいつものような力強さはない。 「碧依は……なにも聞かないの?」 「んー、私、犬だから聞いてもよくわからないし」  そう言って笑みを浮かべると、琥珀はようやく少し笑った。だから私は続ける。 「だけどご主人様が話したいことなら喜んで聞くよ」  すると琥珀はコクリと頷いた。そして私の手を引いて近くの公園に入る。公園では幼い子どもたちが遊んでいた。私と琥珀は端にあるベンチに並んで腰かける。 「あのね、あの子たちとは、前は仲良くしてたの」  琥珀の言う「あの子たち」とは、琥珀にぶつかってクスクスと笑っていた四人の女の子たちのことだろう。私は犬らしく黙って琥珀の言葉に耳を傾ける。 「だけど……私が変だから……」  繋いだままの琥珀の手に少し力がこもった。 「あの中の一人の子を……す、好きになって……。それを伝えたくて、好きだって言っちゃって……」  琥珀はたどたどしい言葉で一生懸命に話している。それに応えるように、私は少し指先に力を入れた。 「そうしたら、変だって。気持ち悪いって……」  琥珀の目に限界まで涙が貯まり、ポロリと頬を伝った。私は空いている手で琥珀の涙を拭う。 「琥珀はまだその子のことが好きなの?」  我慢できなくなってついつい琥珀に問いかけてしまう。  琥珀は首を横に振った。 「もう好きじゃない。それに今は……」  そうして琥珀は顔を上げて私を見つめてすぐに目を逸らした。  その視線の意味を私は重く受け止めるべきなのかもしれない。だけど私にはどうすることが正解なのかわからない。  一体いつからだろう。出会った瞬間からなんてことはないと思う。  友だちに向けた好意が否定され、心に刃を突き立てられて傷ついていた琥珀は、見知らぬ女でもいいから甘えてみたかったのだろう。いや、見知らぬ女だからよかったのかもしれない。  甘える口実が犬だったのだ。  テレビなどで見る飼い主と犬の間には強い愛情と絆がある。そんな疑似体験をしたいと思ったのかもしれない。  とはいえそれはなかなかエキセントリックな発想だ。  同性相手では許されなかった行為も犬が相手だったら大丈夫だと考えるなんて、ちょっと普通ではない。  犬だったら手を繋いで歩ける。ハグだってできる。頭を撫でられるし、一緒にお風呂に入って、眠ることもできる。本当にそんな風に考えたのだろうか。  拒否しなかった私が言うのもなんだけど、普通だったら拒否されると思う。  だから見知らぬ女だったのかもしれない。普通だったら拒否される状態だから、拒否されても琥珀は傷つかない。 「さて、もう遅いし帰ろうか」  私はいつも通りの調子で言うと、琥珀の手を引いて立ち上がらせた。 「ね、ねえ、碧依は私のこと、嫌いにならない?」  その瞳には不安の色が見える。 「ん? 犬ってご主人様に忠実なんだよ。簡単に嫌いになるはずないでしょう」  私が笑顔で言うと、琥珀はホッと息を付いて軽く笑みを浮かべた。  琥珀が『犬』に執着している理由がようやくわかって少しすっきりした。それならば、琥珀に『犬』の存在が必要なくなるまで、もう少しの間、広瀬家で犬を演じ続けよう。  琥珀はきっと傷ついた心を癒してくれる人ならば誰でもよかったのだ。そしてそれを拒否しなかった私に好意を持った。ただそれだけのことなのだ。  傷がすっかり癒えたら、琥珀は私の手を離すのだろう。  いつまで飼い主と犬なんて関係を続けられるはずがないのだから、早く琥珀が私の手を離すときが来た方がいい。  そんな風に自分の中で導き出した結論に、なぜだか私はとても傷ついていた。
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