都橋探偵事情『暗渠』

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「君の行動はすべて林君に任せる、細かい約束事があるからしっかりと守って欲しい。たまに命懸けの仕事が舞い込む、その時にその細かい約束事が身を守る、いいね中井君、林君がここにこうして残っているのもその約束事を守っているからだ」  徳田は「出掛ける」と言ってデスクにも座らず出て行った。半月ほど前から自元やくざからの依頼で男を捜している。林がその内容を聞くと「君は知らない方がいい、醜い仕事だ」とだけ言われた。 「それじゃこの事務所の約束事を伝えよう」  林は自分がこの事務所のドアを叩いた時のことを想い出していた。中区役所を八年勤めて、特に理由があるわけではないが辞めてしまった。役所での仕事が楽しかったわけではないが辛かったわけでもない。時間を日々を年月をじっと待っていれば定年を迎えて安定した老後にも就けた。ただ、待っていればいいと言う些細な我慢が段々と心の中で大きくなり待ち切れなくなった、それだけである。そして半年間閉じ籠った。何もする気がせず貯金がなくなるまでこうしていようと決め込んでいた。井土ヶ谷のワンルームから伊勢佐木町の有隣堂まで週一間隔で徒歩で往復する。本をまとめ買いし出前をつまみに酒を飲んで寝る生活を半年間続けていた。そして好きなハードボイルドに嵌り探偵もいいなあと長者町五丁目の電柱看板にあった『探偵募集、都橋興信所』を見てこのドアをノックした。 「僕はあなたを何と呼べばいいでしょうか?」  ポカンとしている林に中井が笑った。 「君の笑顔は本当に爽やかだね。羨ましい。本名は違うがここでは林義男です。それも約束事の一つだからそこから始めましょう。この事務所への依頼はやくざが八割で残りは浮気調査です。ひとつの仕事は大体五日単位で契約しています。客が継続を希望した場合は再契約となる。やくざからは月に四件ほど、浮気調査は月三ぐらいです。こう聞くと暇なようだけどそうじゃない。三件を同時進行するのは結構大変なんだ。君が来てくれて本当に良かった。仕事の件は後にして、徳田所長は所長と読んでください。徳田さんとか徳田所長とかじゃなく所長と、そして僕のことは林さんでいいでしょう」 「先輩じゃ駄目ですか?」
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