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金魚の森
『金魚の森』と書かれた看板が、ゆっくりと下ろされていく。
八月三十一日の夜、都内デパートの催事場にて。
役目を終えた展覧会の看板が、今まさに撤去されているところだった。
この『金魚の森』を作り上げた芸術家である金森は、煙草を左の指に挟んだまま、下ろされていく看板を見つめていた。
「いよいよ終わりですね」
感慨深い声とともに金森を振り返ったのは、現場を仕切っていた派遣会社の男だった。
「金森さん。そんなにがっかりした顔をしないでくださいよ。あんなに人気だったんですから、きっとまた次もありますって」
頭にタオルを巻いた男は、金森を元気づけるようにその隣に立った。
しかし金森はそれに答える様子はなく、左手の煙草の煙をたなびかせながら、がらんとした姿に変わっていく会場を見つめている。
まだひとつだけ残っている紫の電球が、その横顔を静かに照らしていた。
「……金森さん」
気遣うような男の視線に、金森は平坦な視線で応える。
「別に、がっかりしていたわけではないんだ。ただ、終わってしまったんだな、と思っていただけだよ。本当に、いい展覧会だったから」
「そうですね。本当に、いい展覧会でした」
「ああ、いい展覧会だった」
金森はそう言うと、まだ煙をなびかせている煙草を口にくわえた。
もうこれ以上、何も言わないで欲しいという顔だった。
男もまだ作業が残っているので、何も言わずに現場に戻っていく。
金森のことを振り返る人間は、もう、誰もいなかった。
*
真夜中の東京。
緑や紫といった独特の電飾が光を放つ、繁華街。
その繁華街からわずかに離れた川沿いを、一組の親子が歩いていた。
「おかあさん」
おもむろに、幼い娘が声を出す。
「みて。川に、金魚が泳いでるよ」
小雨が降る中を足早に歩いていた母親は、娘を振り返ることなく答えた。
「金魚なんて、この辺りの川にはいないわよ」
まったく信じていない母親に、娘は言いつのる。
「でも、今、ほんとにいたよ。わたし、みたよ」
「そんなわけないじゃない」
母親は、やはりどうしても信じようとしない。
そんなやりとりをしているうちに、親子は狭い川にかかる短い橋を渡った。
都会の片隅にある川は小さく、水も澄んではいない。
しかし、その小さな川の流れの中、緑と紫の電飾に照らされた一匹の金魚が泳いでいたことを、この夜、一体何人の人間が知っていただろうか。
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