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ぼくの名前はランスロット。生まれも育ちもブラックマウンテンの麓にあるヴァン湖っていう湖だ。ぼくは知識もなければ教養もない、どこからどう見ても世間知らずの田舎者だ。 仕事は湖の管理。誰に頼まれたわけどもないけど、生まれた時からそういう運命だって母親がわりの姉さんたちが教えてくれた。でもヴァン湖は管理の必要のないくらいとても静かな湖で、ぼくが働くときといえば、竜巻が通ったあとの後片付けや聞き分けのない動物への対処だったりする。つまり、あまり出番がない。 近くにある街の人たちもあまり寄り付かない。昔、悲しい出来事があって、それ以来、領主から近づくことを規制されているらしい。だから彼らが湖を訪れる理由は漁と街へとつながる大きな水路と水門の点検と古びた祠にお供え物をしに来る時だけだった。 そんなヴァン湖でも人の姿をよく目にする時期がある。それは夏だ。エレインを初めて見たのも夏。それは東の海から暖かい空気が風に乗って流れ込み、夏の到来を感じさせはじめた時のことだった。 エレインは大領主の娘で避暑のためにこの地方に来ていた。たしかにこの湖は避暑地としてはかなりの人気だった。夏になると人を見る回数は随分と増える。 ぼくは湖でエレインを見た。湖はぼくにとっては家みたいなもので、いつもと違うことがあればすぐに気がつく。エレインはまさにいつもと違う特別な存在だった。 ぼくの周りにはあまり人がいない。その代わり動物や草花や川の魚、湖の亀なんかがいて、そういう環境のせいでエレインのことが目に入ったのかもしれない。 いいや、違う。ごまかした。恥ずかしいからごまかした。エレインは美しかった。だからこそ惹かれた。美しかったから惹かれたんだ。エレインは急に現れて、いきなりぼくの中の美しいものの序列の頂点に躍り出た。 エレインが現れる前、ぼくが思う美しいもののほとんどがすぐ近くにあるものだった。触れれば硬いとか柔らかいとか感触があったり、温かいとか冷たいとか温度を持っていた。例えば、ぼくのお気に入りの場所は湖の北にある水没林だった。湖と森が融合したみたいな景色が広がっていて、春には花、夏には深緑、秋には紅葉、冬には枯れ枝を見ることができた。木々の間を縫うように泳いでいると森の中を散歩している気分になった。 その次、ニレの大木が群生してできた緑のドーム。夏になると腕を伸ばすように生えた枝に濃い緑色をした葉っぱがたくさんついて、森の中に暗闇と静けさをもたらしてくれる。その真ん中で両手両足を広げて寝そべると腐葉土が母のように体を受け止めてくれて、木漏れ日がまだらに地面を照らす。その光景はいつもぼくの心を落ち着かせてくれた。 その次、シカの角。生え変わりのために落ちた角を拾ったことがある。何かをつかむように開いた人の手のひらみたいな角はずっしりとしていて黄白色で大きかった。皮を剥かれたケヤキのようにすべすべした手触りが好きだった。 他にもぼくが美しいと思うものはいくつもある。 虫、鳥、花、空気、水、風。 それら全てが束になってもエレインには勝てなかった。その理由はエレイン手が届かない場所にいたからだと思う。 エレインの笑顔は素敵だったし、性格の美醜はよくわからないけれど、ぼくとエレインの相性はそれほど悪くなかった。でも、エレインを美しいと思ったのはそういったところも含めて『エレイン』だったからだ。ほかの人を見たときには手に入れたいなんて思わなかった。 エレインはぼくにとってパズルのピースだった。エレインじゃないと埋まることのないぼくの世界の欠片を見つけたんだと思う。 ぼくは一瞬で彼女の虜になった。 でも、その時はまだ遠くから見ているだけで良かった。だってぼくはエレインにかける言葉も見つからなければ、どうやって話していいかもわからなかったんだから。 好きな女性が水辺で戯れる姿は美しい。見ているだけで幸せだった。
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