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悶々とした気分が続いていたある日の夜。ぼくはいつものように月明かりに照らされた湖の中を泳いでいた。その日は昼間にエレインの姿を見ることができなかったから、がっかりした気持ちで泳いでいた。でも、エレインの姿を見なかったからこそ諦めにも似た穏やかな気持ちになり、ぼくは空を見上げながら背泳ぎの体勢でゆったりと泳ぐことができた。 『そういう日もあるさ』 心の中でぼくはそう呟いた。ぼくはこのとき、エレインのことを知りたいという気持ちとこのまま眺めているだけでいいという二つの気持ちがせめぎ合っていた。海と空を二分する水平線のような境界線がぼくの心にはあった。 この日は静かな夜だった。風もなく、動物の息遣いも聞こえてこなかった。まるで蜘蛛の巣に湖畔の音という音が絡め取られてしまったような夜だった。 だから、湖畔の住人にはその静けさを破ることはできなかった。夜空にうかぶ針穴のような月が落ちて、太陽が昇るまでこの静けさが続くと思った。そのとき、桟橋の方から足音がした。 ぼくは息を吐いて体を水の中に沈めると湖の中心から桟橋の方まで泳いでいった。桟橋に近づいて、青白く淡い光の中で目を凝らす。 足元を確かめながら桟橋の上を恐る恐る歩くその足音の主はエレインだった。いつもいる貴族の男姿はなく一人きりだった。ぼくは驚きと喜びで気が動転して、少しだけ湖の水を飲んでしまった。 エレインは手に双眼鏡を持っていて、桟橋の一番端までくると双眼鏡を目に当てて湖をぐるりと見渡していた。何かを探している様子だった。白いドレスは月明かりに滲んで、輪郭がぼんやりとしていた。右に左にエレインの体が動くとドレスの裾が後を追った。 ぼくはエレインに見惚れていた。こんなにも強く惹かれる理由を知りたかった。 ぼくの中の境界線は均衡を保てなくなっていた。ぼくはエレインをもっと近くで見たいと思った。一度崩れた境界線に意味はなく、ぼくは衝動に突き動かされた。 エレインは双眼鏡で湖を見ることに夢中でこちらに気づいていなかった。ぼくはエレインとの距離を縮めるために少しずつ音を立てないように桟橋まで泳いで行った。 ぼくは桟橋の支柱のそばにくっついてエレインを見た。ぼくは今までで一番エレインに近づくことができた。この時点で体は自分でもわかるほど熱を持っていた。息を飲む音さえ殺してひっそりとエレインを見ていた。 見上げた先にはエレインの小さな横顔があった。左右の腕は手折れそうなくらい華奢だった。 瞳を見てみたかたったが目が合ったらどうしようと思うと不安になった。目が合う前に水の中に潜ろうと何度も思った。でも、もう少し、あと少しとどうしようもないぼくの心が体を桟橋の支柱から引き離さなかった。 相変わらずその夜は静かだった。風の音もなければ岸に寄せる波の音もなかった。湖は大きな鏡になってそっくりそのまま夜の空を映していた。 ぼくはこのままでいいと思った。時が止まったような夜はもう二度と来ない。朝なんて来なくていい。君の世界にぼくは生きていけないから。だからこのまま止まったままで美しい人を見ていたいと思った。 でも、その願いはあっけなく打ち砕かれた。風が思い出したかのように湖面を駆け抜けていった。山から吹き下ろされた冷たい風はエレインを驚かせた。そのせいで。エレインは持っていた双眼鏡を湖に落としてしまった。 「あ」 エレインは手を伸ばしたけど、双眼鏡はそのまま湖の中に落ちていった。ぼくはその時のエレインの困った横顔をよく覚えている。その顔を見た途端にぼくは彼女の世界に入り込んでしまった。 ぼくは水の中に潜って湖底に向けて落ちていく双眼鏡を見つけると難なくそれを手に取った。水の中ならぼくの方が早く動ける。 それからぼくは手に取った双眼鏡をエレインに渡すために湖面に浮上した。でも、出るところをもっと考えればよかったと今でも思う。ぼくは考えなしにエレインが覗き込む真下に浮上した。 あの時のぼくはエレインとの接点ができると期待してのぼせ上がり、エレインがどういう反応をするかなんて全く考えていなかった。 ぼくが湖面から顔を出すとエレインと目が合った。ぼくの左右の目とエレインの左右の目。エレインの目に恐怖の色が浮かんでいた。 ぼくが双眼鏡を差し出す前にエレインは突然湖面から出てきたぼくに驚き、桟橋から足を滑らせて湖の中に落ちてしまった。 エレインの悲鳴とともに水の弾ける大きな音がした。森の中の鳥は何匹か驚いてどこかに飛んで行ったし、音に敏感なリスたちは木の上に登って湖面を見ていたに違いない。 エレインも焦っていたと思うけど、ぼくだって焦っていた。だってエレインが湖の中に落ちてきたんだから! 桟橋の先端より先は水深が深くて足はまず届かない。抉れるような断崖絶壁になっている。 エレインは水中でもがき苦しんでいた。突然の出来事に頭が追いつかない上に、水の中での苦しみは彼女をより混乱させた。もがけばもがくほど体の中の空気は減っていって、より苦しくなる。夜の暗い湖に落ちれば誰だって死の恐怖にさいなまれる。エレインはまさにその恐怖に絡め取られていた。 エレインの周りにだけ白い気泡が立ち込めていた。ぼくは双眼鏡を桟橋に置くとエレインを追った。エレインは手足を闇雲に動かして苦しみから逃れようとしていた。でも、自分が今、湖面に向かっているのかそれとも湖底に向かっているのか。それもきっとわかっていなかったはずだ。ぼくはエレインを岸に引き上げるために背後から回り込んで、脇の下から腕を通して彼女を引っ張って行こうとした。でも、エレインは体の自由が効かなくなったことに動転してさらにもがいた。エレインの足がぼくの足を何度も蹴った。空気を吸わせようにも、あまりにもがくためにそれすらできなかった。それでもぼくはエレインを引っ張って岸にあげようとした。岸が近づくにつれてエレインの抵抗が弱まっていった。それはエレインの意識がなくなりつつあることを物語っていた。ぼくはさらに急いだ。 でも、エレインは岸に着く前に動かなくなった。ぼくは気が動転した。自分のせいでエレインが湖に落ちたのだ。どうにかしようと必死になって考えた。岸までまだ少しある。 抵抗はなかったからぼくはエレインを湖面まで引き上げることができた。でもエレインは意識がもうなくて自力で息をすることもできなかった。 ぼくは考えた。 空気が必要だ。でも、エレインは息ができない。じゃあ、どうする? ぼくはエレインの顔を見た。 間近で見る顔は整っていた。ぼくは唇に目線をやる。顔は青白くなっているが唇だけは赤い。不謹慎だけど、とても美しいと思った。 ぼくは大きく息を吸って、エレインの口に自分の口をつけて彼女の中にゆっくりと息を吹き込んだ。赤くて小さな唇は奇跡のように柔らかかった。 ぼくはそれから必死になって、エレインに息を吹き込みつづけた。ぼくはこんなに必死になったのは生まれて初めてだった。 何度目かの息継ぎのあと、エレインは飲み込んでいた水を口から吐き出して、息を吹き返した。ぼくは胸をなでおろした。彼女は苦しそうだったけど、なんとか生きていた。 「エレイン様! エレイン様!」 別荘の方からエレインを呼ぶ声が聞こえてきた。これでもう安心だ。ぼくは謝りたかったけど、なんて言っていいかわからなかった。そうこうしているうちにいつも一緒にいる貴族の男の声が近づいてきた。ぼくはエレインにもう会わない方がいいと思った。最後に一目彼女の顔が見たかったけど、振り返ることなくぼくは湖に戻った。
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