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秋斗は自転車をこぎながら、どこか一人に一人になれるところを探す。
チーム最後の大会で、それも初戦に負けたのだ。点は全て自分が決めたし、そもそもこっちがリードをしていた。負ける要素は無かったはずなのに、弱いキーパーと、味方のせいで最後に逆転されたのだ。あの場に自分がいたのなら、確実に防げていただろう。にもかかわらず、ディフェンスは容易く抜かれるし、自分よりも専門的に練習していたキーパーなんか、何もできずに入れられたのだ。無能にもほどがある。
橋桁の下に自転車を止め、コンクリートに腰を下ろした。胸の内の感情が黒い渦となり、心の中を満たしていく。怒り、呆れ、そして哀しみが互いに合わさり滲み出る。
悪いのは俺じゃない、アイツらだ。アイツ等が雑魚だから負けたのだ。怪我をしたのも、全部アイツ等が弱いからだ。
黒い靄が視界を覆う。悪いのは全部アイツ等だ。憑かれたように同じ言葉が何度も響き、黒い靄が渦を巻く。やがて靄は彼から離れ、影の中に紛れて消えた。
「やぁっと、見づげだ」
幽霊さえも脚を生やして逃げ出すような、見るもおぞましい形相で夏希が土手を降りてくる。左右に大きく揺れながら、夏希は秋斗の傍らに倒れ込んだ。
「あのねぇ。いつも、言ってるでしょぉ? スマホは、いつも、持ってなさいって」
ほら、と言って差し出した夏希の白いその手には、秋斗のスマホが握られている。彼はそれを受け取ることなく、タオルを顔に押し当てた。
「それだけ?」
「うん、これだけ。何か、期待してた?」
「もっと、その。怒られるかと……」
「お説教をご所望とな? いいよ、秋斗が言うなら。でも、待って。少し、休ませて」
夏希は仰向けに転がったまま、大きく胸を上下させている。彼女の体力のなさは折り紙付きで、駅の階段でさえバテてしまうほどだった。
タオルを顔に当てたまま、彼女から顔を背ける。汗で汚れたタオルだが、柔軟剤の花の香りが鼻孔に及んだ。
「夏希さ、本当にライダーなの? 力もないし、体力もないし、運動なんて全然ダメじゃん」
「仰る通りで。私は力もないし、体力もないし、運動なんてからっきし。それにバイクにだって乗れないし、私一人じゃ戦えないけど、それでも私はライダーなんだ。力があるからライダーだって訳じゃないんだぞ」
「じゃぁ、どうやって戦うの? その体力じゃ逃げる事もできないじゃん」
「そうだなぁ……」
秋斗は夏希の顔に目を向ける。色白の肌は汗ばんで、丸い頬から垂れ落ちていく。ハッキリとした目元には指の腹程の涙袋が浮かんでいる。片手を真直ぐ空へと伸ばし、橋桁の裏しか見えぬ何かに向かってその手を閉じた。
「秋斗は私の事を信頼してる?」
「え、うん。長い事一緒に暮らしてきたし」
「信用、じゃなくて信頼ね。例え何があったとしても、私が君を裏切ったとしても、それでも私を信じて頼ってくれる?」
秋風が吹き、川の水面に波を作る。草がざわつき、橋が唸り、鳥が飛び立ち空へと消えた。
「うん。夏希なら。大丈夫」
「そっか。もう大人になったんだなぁ」
夏希が勢いをつけ立ち上がる。そしてニッコリ笑うと、秋斗に向かって手を差しだした。
「じゃぁ、帰ろっか」
「なんだよ、さっきのは」
口元を緩めつつ、夏希の顔を見上げる。いつもの彼女の微笑みだったが、橋桁の影が彼女の身体を包み込んでいた。
彼女のその手を取りかけた時、彼女の背後で何かが動いた。初めこそ何かの見間違いかと思っていたが、それは朧げながらも確かにそこにあり、三つの人の形を成す黒い影のような物であった。
「夏希、幽霊って信じる?」
「ん?」
「なんか、黒い影みたいなのが見えるのは俺だけかな?」
いよいよはっきり人の形で定まって、顔に相当する部分には何もなく。代わりにそれぞれ赤と、黄色と、青の小さな光が二つずつ、不気味に輝き放っていた。
「あぁー。秋斗もついに見えるようになっちゃったかぁ」
黒いそれは実態が無いようで、足元の草花は変わらず風に揺れている。三つの影はジッと、秋斗を見つめたまま、ゆっくりと、だが着実に彼に向かって近づいてくる。
「そろそろだとは思っていたけど、まさか今日だとはね。あれはネガティブ。人の負の感情が視覚的に捉えられるようになったもの。直接的な破壊行為はできないけれど、放っておいたら周囲の人に取りついて、負の感情で人の行動を支配するようになる。取りつかれた人はまたネガティブを生み出す道具になるから、早く何とかしないとね」
「ならネガティブを生み出した人を捕まえてやれば――」
「ネガティブはね。産み出した人の心そのもの。だから産み出した人と、ライダーである私にしか見えないし、干渉もできない。つまり、ね? 秋斗。もうわかる、よね?」
「うん……。でも、ライダーじゃないし……」
秋斗はタオルを顔に当てたまま、そっと俯き目を逸らす。
「大丈夫だよ。秋斗には私がいるから。私を信頼して。私が傍に付いている。さぁ、勇気をもって。変身するのは君自身だ」
自分の両手に視線を落とし、堅く目を閉じ深呼吸をする。よし、と心の中で呟いて、夏希を見上げてその手を取った。
立ち上がると同時に夏希の姿は失せて、代わりにその手に変身ベルトが収まっていた。秋斗はベルトを握りしめ、にじり寄るネガティブ達に向き直った。
「夏希が傍にいてくれるなら。俺、やってみるよ! 行くぞ、変身!」
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