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脳裏に浮かぶ断片的な過去の記憶が、さながら水泡のように次々浮かんで沈んでいく。
つい先ほどの、敗北を喫した腹立たしい記憶に、小学校での部活の記憶、そして苦手な算数を教えてくれる夏希の記憶。記憶に浮かぶ彼女の顔はどれも笑顔で楽し気で、秋斗がどんな失敗しても、おどけて笑って見せていた。
記憶の泡が押し寄せて、秋斗の記憶を包み込む。眼帯の少年がシュートを決めた瞬間や、机に突っ伏し眠る秋斗を揺り起こす、暖かな夏希の記憶だった。
夏希の記憶から、やがて秋斗の姿が消えて名前も顔も知らない人たちの笑顔に変わる。年齢、性別、国籍さえも皆様々で、秋斗よりも幼い少女から、腰の曲がったおじいさんまで千差万別であった。
自分の知らない夏希の記憶に魅入られて、秋斗はもっと深くへ潜る。押し上げる強風をものともせずに浮かぶ記憶を眺めつつ、より深く、更に奥へと身を落として行った。
記憶の中に黒い泡が混ざりだす。幼い少女が泣きながら、助けてと飛びつく姿とか、レストランで怒鳴るように文句をぶつける老人だとか、それぞれに哀しみ、怒りに駆られた人たちの姿が浮かんでいるのだ。
やがてシャボンは遥か上空へと飛び去って、幾重にも重ねられたシャボンによって肥大化した記憶がその姿を眼下より現す。黒、よりもむしろ赤黒い光を発しており、不気味で近寄りがたくも美しい。夏希をもっと知りたいと言う気持ちに一層の好奇心も相まって、恐いもの見たさでは言い表せぬ愚かな欲求に身を焦がし、任せてしまったのだった。
秋斗が記憶に近づくにつれ、赤黒い光は一際強く、激しく輝きを増し、眩く視界を覆い尽くし、中の光景をかき消し輝く泡となっている。吹き上げる風もさらに強く、暴風となり、彼の侵入を阻む。彼は苦労しつつも、記憶のシャボンにたどり着くと、その膜にそっと手を伸ばしたのだった。
最外周の泡が割れ、飛沫を散らして消え去った。わずかな時間の差を置いて、残ったシャボンも全て割れた。赤黒い輝きが溢れ出し、その場全てを包み込む。視界は黒く覆われて、上も下も、自分の手足もまるで見えない。完全なる闇に包まれながら、激しい孤独と、哀しみと、怒りによって彼自身、染めあげられていくのを感じた。どこでもいいから逃げなければ、このままでは取り込まれると、名状しがたい恐怖に駆られ、彼は必死になって手と足を動かす。光景はいつまでたっても変化せず、進んでいるのか、後退しているのか、上昇しているのか、降下しているのかさえ全く分からないでいた。
不意に視界を白い光が取って代わる。強い光に目を傷めながら、徐々に光に目が慣れて行く。気づけば柔らかな椅子に座っており、低く、唸るようなエンジン音が椅子から直接の振動と共に伝わってきた。ぼやける目を擦りつつ、周囲の様子を見極める。車の後部座席に座っており、前には見知らぬ男女が座り運転をしていた。高速道路にいるらしい。分離帯の無い道路には、防音の為の高い壁が外の光景を阻んでいる。
「あ、起きた」
隣から、幼い少女の声がする。白い肌に丸みを帯びた頬を持ち、目元にはハッキリとした涙袋が浮いていた。
「夏希だよね? なんでちっちゃくなってんの?」
「えー、何言ってるの? 私、夏希じゃないよ。冬乃だよ」
「ん?」
クスクスと、抑えながらも楽し気に冬乃は明るく笑って見せる。大きな瞳には光が宿り、キラキラと明るく輝いて見えた。
「夏希も寝ぼけちゃってるのかな。熟睡してたし」
助手席に座る大人の女が、秋斗に振り向き笑いかける。回らぬ頭で自分の姿を見下ろして、自分が幼い少女となっている事に始めて気が付いた。これは夏希の昔の記憶だ。本当の家族はいないと言っていたのだが、これはまだ幸福だった頃の、秋斗では無く、本当の家族がいた頃の記憶なのだろう。
緑色の看板が、分岐があると告げている。右か、左かを問う父親に、夏希は右と、冬乃は左と同時に答えた。
「正解はー? 左でぇす!」
夏希たちの母親が、笑って言った。イェーイと嬉しそうに言う冬乃を見ながら、夏希は頬を膨らませ、片手で雪乃を叩いた。痛い痛いと言いつつも、笑いながら応戦をする。怒った夏希は片手で冬乃の手を掴み、空いた手でパンチを叩き込んだ。
「ちょっとちょっと、喧嘩しちゃ駄目だって!」
車は車線を変更し、左へ行く道をひた走る。緩やかなカーブを進むのは一台だけで、周囲に他の車は無かった。
「夏希、ごめんなさいは?」
冬乃の目から涙が溢れ、目元を赤らめ泣き声を上げる。ムキになって夏希へ拳を振り下ろすも、ほとんどすべてを抑えられ、冬乃は夏希にされるがままだった。
「夏希、やめなさい!」
彼女らの父が声を荒げる。車はカーブをようやく抜けて、合流車線に侵入をした。ウィンカーを出し、車は一気に加速する。その時、夏希は冬乃の髪を掴み、冬乃は一際大きく鳴き声を上げた。泣き叫ぶ彼女の声を耳にして、父は思わず後部座席を振り返った。
「いい加減にしなさい!」
充分に加速した車は前を走っていたトラックにぶつかって、衝撃で反対車線へと飛び出す。車内に悲鳴が木霊して、制御不能となった車は正面から対向車に激突をした。
視界が一瞬暗転し、気づいたころには見知らぬ大人たちに抱えられていた。パトカーやら救急車達が詰めかけて、忙しそうに動き回っていた。
「無事でよかった。軽い怪我だけだから直ぐに治るからね。名前や年は分かる?」
「夏希、9歳。ねぇ、お母さんとお父さんは? 冬乃は?」
救急隊員は夏希の腕に包帯を巻く、その手に無言で注視する。暫く何も答えなかったが、彼は片膝を着くと両手を夏希の肩に置き、ゆっくりと、一つ一つ言葉を選びながら話し始めた。
「よく、聞いてね。その、この事故はとても不幸な物だった。あれだけの事故でありながら、君が無事でいた事自体が奇跡なんだよ。だから、その……」
救急隊員は口を噤む。そして足元に視線を落とし、大きく深呼吸をすると、夏希の目を正面から見据えた。
「生き残ったのは君と、そしてあの子の二人だけだ。本当に残念だが――」
彼の言葉はただの雑音となり下がり、夏希の、秋斗の耳には入って来なかった。涙の一つも零す事無く、少女は徐に立ち上がる。制止する救急隊員を振りほどき、救急車に向かうストレッチャーに、冬乃の名を呼びながら駆け寄った。
夏希の期待とは裏腹に、冬乃の姿はそこに無く。代わりにまだ幼稚園にも入っていないような、幼い男の子が横たわっていた。彼の顔を覗き込んだとき、秋斗は驚きに目を見開いた。男の子の目にはガラス片が突き刺さり、大量の血を流しガーゼを赤く染めあげている。秋斗は自分の眼帯に目を当てると、思わず一人呟いた。
「これは……俺か?」
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