1.Harmonix

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 小さな爆発にも似た衝撃が走り、現実世界へ引き戻される。秋斗は元の姿のまま川辺を転がり、夏希もまた同様に、本来の姿に戻っていた。 「いったぁ。秋斗、記憶の中に入り込みすぎだよ」 「ねぇ夏希。あの記憶、なに?」  赤い目をしたネガティブがひと回り大きくなる。秋斗の声は低く、それでいて冷静で、有無を言わせぬ口調であった。 「あれは、思い出したくないけど忘れられない、昔の私の古い記憶」 「そんなことは分かってる! 聞きたいのはそんなことじゃない」  差し出された夏希の手を鋭く払う。唯一見える片側の目で、彼女を鋭く睨みつける。幼いころの事故で光を失ったのだが、まさか夏希が関わっていたなんて、今まで欠片も思っちゃいなかった。彼女と初めて会ったのは、事故の後、病院で気づいた時だった。夏希は一言さえも話す事無く、少年の手を取り傍に居たのだ。  退院の直前になり、初めて親の死を知った。夏希は目と鼻を真っ赤にしつつも微笑みながら、静かに、医者の代わりに言ったのだ。当時の彼は誰かの死を理解するには幼すぎて、何故見ず知らずのこの人が泣きそうになりながら、笑っているのだろうと、大層訝しんだものだった。  祖父も祖母もおばさんもおじさんも、秋斗には身内が一人もいないと知って、孤児院に行かせるならば引き取ると、一緒に暮らすと夏希は言ってくれたのだった。当時から、いまのいままでその時は、夏希の責任感と、やさしさが、異様に膨張しただけだろうと、漠然として思っていた。だから夏希を信じていたし、掘り起こす事無く生きて来た。底なしの、彼女の無限大の明るさに、何度励まされてきたことか。それも全て、彼女自身が引き起こした不幸を癒す、ただのエゴだったのでは無かろうか。 「夏希が今まで優しくしてくれてたのって、自分のため? 俺を助けて罪を償ったつもり? 俺の目を、光を奪っておきながら、よくのうのうと一緒に暮らしてこれたね」 「そんなつもりは――」 「いいよ、もう。夏希の力なんて必要ない。俺は一人でやっていける」  秋斗は一人で立ち上がる。 「バイバイ。もう来ないで」 「待って、秋斗!」  夏希が伸ばす手の先に、ネガティブが現れ行く手を遮る。赤い瞳の肥大化しきったネガティブは、橋桁にまで届くほどに大きくなっていた。  秋斗はこれと言った宛てもなく、ただ夏希から離れたい一心で、走るようにして彷徨い歩いた。家になんて戻れやしないし、コートに居たら夏希に見つかる。そもそも他に誰かがいるだろうし、一人になるには向いてない。  意識してか無意識か、彼は学校の前にいた。土曜日と、言うだけあって校門は閉まり、誰かいる気配も感じない。ここなら静かに過ごせると、助走をつけて門に手を付き飛び越えた。  大きく屈んで着地の衝撃を和らげる。昼休みとか、大勢が遊ぶ遊具には、人の子一人見当たらない。茶色くなった桜の葉っぱを秋風が、枝から切り裂きブランコを押す。秋斗は揺れるブランコを、手で掴み止め腰下ろす。  秋晴れの空を飛行機が切り裂いて、白い跡を残していく。頭に浮かぶは夏希のことばかり。両膝に両肘を置き手を組んで、額を乗せて目を閉じた。  もしも夏希があんな事をしなければ、片目を失う事もなかったし、記憶に薄い両親と今も一緒に過ごせただろう。もっと違う生活を、人と同じ幸福を感じることができたかもしれなかったのだ。  秋斗は古びたサッカーボールを藪の中に見出して、足で転がし救い出す。太陽が西の空へと沈みかけ、深紅の空は燃え立つように、赤く深く不気味な色で染まっていた。革の剥がれたサッカーボールは空気も抜けて、異様に重い。しかし彼は意にも介さず、ただぼんやりと、校庭の乾いたグラウンドにたった一人で立っていた。  背後から刺す陽光が正面に、黒く長い影を創りだす。本来の身長から数倍も伸びた影はユラユラ揺れて、おぼろげな輪郭で人の形を作っていた。ボールから足を離して後ろに下がる。合わせて影も一緒に動き、全く同じポーズでゴールを見つめている。  風が吹き、落ち葉と砂塵を舞い上げてゴールの前で渦を巻く。汗をかいた身体には、一陣の風は極めて冷たく思わず身体を震わせる。誰もいない校庭を秋斗は無言で振り返る。三体ものネガティブが彼の背後に現れて、ジッと秋斗の様子を見守る。彼はネガティブ達に動じることなく、正面の巨大なゴールへ向き直った。  一歩二歩、走り出す度に加速する。一瞬で最高速度に達すると、身体を斜めに傾けて、ありったけの力を込めてシュートを放つ。重たく鈍い音がして、空気の抜けたサッカーボールは大きくへこみ、ゴールポストを大きく反れる。秋斗はボールの行方を追うこともせず、深いため息をつき背を向けた。  三体の、ネガティブ達が揺れている。馬鹿にするでも笑うでもなく、ただそこに突っ立っていた。  苛立ちが胸の内から沸き起こる。  何てことも無い。夏希は危険な存在だと言っていたが別に大したことも無い。危険とはまるで程遠く、むしろ素直な犬のような物じゃないか。秋斗は薄ら笑いを浮かべつつ、二本の指で目頭を押さえた。  何もかも深紅に染まった校庭に、落ちた影が起き上がる。秋斗の影から生まれたそれは音も無く、彼の背後に立ち上がり大きな腕で包み込む。憑かれた秋斗の影はさらに大きく膨らんで、巨大な人の形を成していた。  夏希の事は信用できない。アイツが何を言おうとも、それは全て戯言で、俺を惑わす囁きなのだ。信用できるのは自分だけ、誰にも頼る訳にはいかない。自分一人でこなすんだ。秋斗は目を抑えたまま小さく鼻で笑った。  ボールが弾む音がして、秋斗のシューズに優しく当たる。彼は抑えていた手を離すと、ゆっくりと振り返った。 「秋斗」  真っ赤な西日に照らされる、一人の少女が立っていた。汚れた服に、腕は擦りむき血が滲んでいる。髪には落ち葉が張り付いて、汗を激しく書きながら、小さく肩で呼吸をしていた。 「夏希。何しに来たんだよ」  夏希は寂し気に、それでいて秋斗に微笑みかける。おぼつかない足取りで一歩一歩、秋斗に向かって歩を進めていく。 「秋斗の言う通り。私が秋斗を引き取ったのは、秋斗の家族を、大切な光を奪ってしまった後悔や、償いのつもりでもあった。でもね、それだけじゃないって分かって欲しくてここに来た」  よろめきながら、だが着実に夏希は秋斗に歩み寄る。 「一人になる辛さは私も充分よく知っている。支えて欲しくても誰もいない、そんな辛さを秋斗には感じさせたくなかった。秋斗が助けて欲しい時、必ず支えになれるように、一人じゃないって安心して欲しかったから私は!」 「なに都合の良い事言ってんだよ。お前のせいだぞ! 全部、お前の!」 「分かってる。分かってるよ」  夏希は消え入りそうな声で俯きそう言った。彼女は両手を固く握りしめ、大きく息を吐き出すと、顔を上げて目と鼻を赤くしつつ無理矢理笑みを浮かべていた。 「だから無理に戻って来てとは言わない。どんな意見でも秋斗の意志を尊重する。君はどうしたい? このまま去って一人で生きる? それともまた、私と一緒に暮らすのか。さぁ、秋斗! 君自身が選んで!」 「俺は――」  開きかけた口を閉じ視線を逸らす。そして目を閉じ髪を掻き毟り、大きなため息をつく。やがて腕を力無く垂らすと、秋斗はゆっくり目を開け夏希の目を見つめ返した。 「夏希、また一緒に暮らしたい! これからもずっとずっと一緒だ!」 「よく言った!」  二人の顔には満面の笑みが広がる。三体に、秋斗に憑いた一体を加えた四体のネガティブは、大きく揺れ出し輪郭が見る見るうちにぼやけていく。突風が二人の中を吹き荒び、悲鳴にも呻きにも似た音を奏でている。  夏希は暴風を真っ向から受け止めて、秋斗に向かって走り出す。そして小さくなりつつ、宙に向かって腕を振る半透明のネガティブに、彼女は飛び込み秋斗を抱きしめ飛び出した。 「夏希、ごめん。俺、酷い事言った」 「いーのいーの。またお姉さん頼ってくれて嬉しいぞ」  夏希はおどけて笑って見せる。二人は砂にまみれながら立ち上がった。 「今の私達ならできる! 行くよ!」  秋斗は力強く頷くと、夏希の手を叩くようにして握った。 「変身!」
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