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【Scene:0.5「騎士と少年」】
眠っていた。
深く。
静かに。
何も感じる事なく。
流星の如き生涯を終え、穏やかな静寂に満ちた世界に揺蕩い、死の腕に抱かれた私は、最早この世の者ではない。
私は死んだ。
あの日、あの時ーーあの場所で。
深い悲しみと後悔だけを友として。
栄光の日々も、誇りも、祖国も何もかもを失った。
穏やかな暗闇に抱かれながら、私は過去を思い出す。
かつて私はーーある王国に仕える騎士だった。
周辺諸国は絶えず争い続け、私が生まれる前から死ぬ間の間、戦火の無い日は1日たりとて無かった。
後に西域百年戦争と呼ばれる戦の時代。
私はその時代を人として生き、そして死んだ……死んだはずだった。
今でも自分が何故死んだか覚えている。だがーー
『悠久の門、叡智の扉、其は高き御坐より汝を喚ぶ者なり』
何だ……?
首を傾げた。
何処からか声がする。
人の声、だろうか。
甲高く少し緊張感に満ちた、それでいてハキハキとした良く通る声。
『この声は、僻絶の金紗を越え、遠き地へと谺響する。聞かば応えよ、御坐より降り、我が手を取れ!』
少女の様な愛くるしい声が告げると、その声の主の意識が私へと向けられている事が分かった。
暗闇に真っ白な飾り気のない扉が浮かびあがる。
ノックの音は聞こえないが……確かに今、ノックされたのだと、私は如何なる理由を以てしてか理解した。
生前の私にはこうした未知に対する知識などなかったはずだが……どういう訳か、今、目の前の白い扉が“叡智の扉”と呼ばれるものであり、私は“従霊”という存在になる為に、彼ーーもしくは彼女に呼ばれたのだと理解した。
私が扉越しにいると知覚しているのであろうその人物は聞いた事もない異国語で話し掛けて来たが、その言葉も何と言っているのか私には理解出来た。
『ねえ、ねえ、そこにいる?』
先程の呪文の様なものとは違い、その声はひどく無邪気で少し不安気だった。まるで子供の様な。
『あのね、僕とお話し……お話ししようよ!』
「話し……?」
呟きを漏らすと、そんな小さなものですら扉は通してしまうのか、声の主が嬉しそうにはしゃぎだした。
『答えた!……ねえ、そこから出て来て!』
僕、と言う事は少年か。
名も顔も知らぬ少年は、こちらの都合などお構い無しに言葉を重ねる。
『あのね、僕すごく困ってて……助けて欲しいんだ』
困る?助け?
声の感じからして余り切羽詰まった様な響きは感じないが、この少年は助けを求めているのか。この私に。
「少年よ、君が知るかはどうかは分かりませんが、私は既に幽世の住人です。死者は決して蘇らない。従って私には君を助ける事は出来ない。私の役目は、もう…既に終わったのです」
申し訳ないが
そう説明したのだが、彼は聞いていない様子でしつこく言い募る。
『そんな事言わないでさ。お願い!僕の従霊になってよ』
「ジュウレー……?」
その単語を呟いた途端、脳裏に“従霊”という文字が浮かび、その意味が脳に刻まれる。こちらも見た事のない文字だ。だが確かに従霊、と私はその単語を頭に描いていた。
従霊。
召喚士が召喚魔術により呼び出し、操る召喚獣のこと。従霊は契約により対価を得、肉体を得て召喚者の下僕となる。
「召喚、魔術……」
その単語に愕然とした。ではこの幼げな少年は、魔術師だとでも言うのか。
「魔術師……っ」
ぐっと拳を握った。声の感じや話し方からして幼稚な印象を受けるが、こんな子供が果たして魔術師と成り得るのか?
魔術師とは特別な血を有し、未知の力を行使する得体の知れない連中の事で、私の記憶の限りでは子供の魔術師というのは見た事も聞いた事もない。
彼は魔術師として戦っていると言うのか?
助けて、と彼は言った。
ではよもや、こんな幼げな子供が戦に駆り出されているとでも言うのか。
少年の話す言葉は異国のそれだ。見聞きした事もない響きのもの。
ではここは、私のいた国ではないのか?
だとしたら我が国はどうなったのか。
国は、民は、どうなったと言うのか。
まさか戦火はまだ大地を焼いているのか。あの時ーーあの最後の大戦で、そうならない為、そうさせない為に、私は最大の禁忌を犯したと言うのに……全てが無駄に終わったとでも言うのか。
思考に沈みそうになる私に、少年は言った。
『君、すごく強いんでしょ?話し方も丁寧だし、きっと有名な人のはず。ね、お願い!僕を助けて、僕を守って、支えて欲しいんだ。僕には従霊が……どうしても必要なんだ!』
彼はそう言ったが、肝心の事を何一つ言っていない。
何故、私なのか。
何故、従霊が欲しいのか。
助けを求めたが、一体何から守り、助けて欲しいのか。どうして支えが必要なのか。
そして
私にそれが可能であると本気で信じているのか。
「私には無理です」
私の様な騎士には救えない。人を救う事など出来はしない。……いや、最早騎士を名乗る事すら許されまいが。
もしかしたらこれも魔術師どもの手なのかも知れない。幼気な少年の声を真似て、わざと幼く稚拙な言い回しで私を利用しようとしているのかも知れない。
連中はどこまでも狡猾で、利己的で、常に我々を馬鹿にし、嘲笑い、利用する。
我が誇りを踏み躙り、祖国を傾けただけでは飽き足らず、お前たちはまた……また剣の誇りを踏み躙ろうというのか。
だとしたら、許さない。
確かめるべきだろう。
この声が何なのか。
例え死した私の魂に刻まれた、魔術師への憎悪が形となったものなのだとしても、私はその悪夢がのさばるのを許しはしない。
我が身から出た悪夢ならば尚の事。
怒りに燃え、再度その魔術師らしきモノの正体を確認しようと声を掛けようとしたが、それよりも早く、その子供は矢継ぎ早にまくし立てた。
『無理じゃない!それにさ、従霊になったら、もう1度現世に出られるんだよ?きっと楽しいよ!?』
「楽しさなど……騎士には不要です」
突き放す様に告げると、私の言葉を聞いていないのか、その声は興奮した様子で更に言う。
『騎士!?君、騎士なの!?ねえ階級は?戦場騎士?それとも王宮騎士?もしかして竜騎士とか!ね、馬は持ってる?鹿毛?白馬?黒いの?剣は?片手と両手、どっちが得意?ランスとか使える!?あれもカッコイイよねっ!ねえねえ、鎧ってどんなの?僕はね、フルフェイスの甲冑が好きなんだ!重たくって顔の所がガチャンてなるやつ!カッコイイよね!!』
「は、はあ」
……何だろう。
どうにもこの少年らしき声の主と、私の間には深くて大きな理解の溝がある様に思えた。
聞けば聞くほど、この少年は騎士に憧れるだけの街の少年の様に思えてくる。
本当に、魔術師なのか?
疑問に思った私はこちらから問うてみる事にした。
「階級はただの騎士です。王宮勤めをしておりました。確かに一時期“白銀”などとは呼ばれてはおりましたが……貴方の期待する様な人間ではありません。私はただの騎士です。古い、時代遅れの騎士。その様な骨董品を、貴方はご所望ですか?……私でなくとも、もっとお役に立つ者がいるはずです」
試すように慇懃無礼に言葉を放つと、彼は不思議そうに首を傾げるのが目に浮かぶのが明らかなほど素直に疑問を滲ませ
『骨董品ってのはもう使われてない美術品の事でしょ?僕が欲しいのは実用品!それに、君、今、白銀って言ったよね!?』
人を物扱いしている様な言葉選びだが、不思議な事に、そこに悪意は感じられない。恐らく本当に、素直に私の言葉を額面通りに受け取り、その言葉を受けて答えただけなのだろう。
もしかしたら私が自分を指して述べた骨董品という単語を、本当にアンティークの事を指して言っていると思っての発言なのかもしれない。
魔術師ならば有り得ない事だが……
疑問と共に何故か、この不可思議な少年を疑う気持ちが薄れつつある事にも気付き、騙されるなと自らに言い聞かせるが、そんなこちらの様子を露とも気に掛けず彼は無邪気に言葉を投げて来る。
『白銀の騎士って言ったら救国の英雄じゃん!すごい!!』
救国の英雄?
私が……?
その言葉に胸が傷んだ。
違う。
私は英雄などではない。
本当の英雄ならば、あんな事はしなかった。私は……ただの、人間なのだ。
不必要な存在だった。必要とされるのは一時のみで、事が済めば煙たがられ、遠ざけられた。時代遅れの骨董品。
どれだけあの方の為を思って言葉に、態度に示したか。だがーー結局何一つ伝わる事なく、私は疎まれ、最後の手段を取らざるを得なくなった。
私は、罪人だ……
過去の記憶が蘇り苦悶する。対して少年は気付きもせずに喋り続けた。
『ねえ、僕の従霊になってよ!』
無邪気な少年ーーもう、そう思う事のにしようーーは、私にもう1度、「従霊になれ」と言ってきた。
何度言われても同じ事。私はもう2度と、魔術師の言いなりにはならない。この少年が魔術師だとして、従霊が欲しいのは都合の良い戦力を確保したいが為に違いない。
私はもう、戦をしたくはない。
利用されたくはない。
静かに眠らせて欲しい。
そう思い、拒否しようとしたーーその時だ。
『一緒にいてよ!ずっと、ずっとさ!!』
「……っ!」
余りに幼稚。余りに稚拙なその言葉に、私は目を見開いた。
「一緒に、ですか?」
問い掛けた。すると少年はまるで兄にものを強請る弟の様に無邪気に、そしてワガママに己の要求を述べる。
『そう、ずっと一緒!僕が死ぬまでずっと、ずーっと一緒にいて欲しいんだ!』
死が二人を分つまで、とは。これではまるで求婚の言葉ではないか。それだけでも呆れそうになる。だが相変わらずその言葉には、悪意も他意も感じられない。
「………」
少しだけ。ほんの少しだけ、その少年に興味が湧いた。
見た事も会った事もない古びた騎士に、ずっと一緒にいてくれ。などと願う子供の様な魔術師の姿が見てみたいと思った。
かつて、私が王に願われた事と、その言葉は似ている。結局その言葉は果たされなかったが……この子供は、それを再び私に与えようというのか。
騎士の名誉とは、喜びとは、己の主に必要とされる事。主が求めるのであれば、騎士はどのような過酷な状況にも飛び込んで行く。
たった一言。
お前に任せて良かったと、そうした言葉が頂けるだけで報奨などは何もいらない。ただ形のない信頼だけが騎士の最高の誉れなのだ。
もう一度……
もう一度、なれるとでも言うのか?
騎士に
捨て駒ではなく、有益な駒として仕える事が出来るのか?
その希望は国を失い、王を失った元騎士にとって麻薬の様な魅力がある。
もう1度仕えるべき主君を見付けられるのか。今度こそ、騎士として最期まで主の傍らに在る事が出来るのか。だがその為にはまず、この少年が正しい王足り得るか見極めねばならない。
「……少年よ、話しを、しましょう」
気付くと私は扉に手を掛けていた。
顔が見たいと思った。
目が見たい。
きちんと相対して直接言葉を交わしたいと。
こんな扉越しではなく、人として向き合いたいと。すると彼は扉越しでも顔を輝かせているのが分かるほど声を弾ませた。
『うん!ありがとう!!じゃあお話ししよう!こっち、こっちだよ!!』
導かれる様に扉に手をかけ、押し開けた。すると目を開いているのも苦痛なほど眩い光がこの目を射る。
『こっち!こっち!!』
少年の声に導かれるまま、私は足を踏み出した。光の道を辿る。迷いなく伸びる真っ直ぐな白き光の道。その道のりを歩くのは永遠にも、一瞬にも思えた。
そしてほどなくして
「……っ」
光が消え、目の前に小さな少年が立っていた。驚きと期待に輝く瞳に私の姿を写し、首を思い切り反らせてこちらを見上げている。
少し近いか。少年と私ではかなりの身長差がある。少年は気にせずに見上げてくるが、完全に首が反ってしまっているので、見ているこちらが心苦しい。
ちょっと下がって距離を取ろうとした時、不意に少年に手を掴まれた。
「こ、こんにちは!!」
その姿に少し驚いた。
小柄な少年だ。歳は10歳か……もしくはそれより下かも知れない。人形の様に華奢な身体に大きな青い目。キラキラとした太陽の光の如く輝く白金の髪。育ちの良さそうな顔立ちに白い肌。私の手を掴んだ両の手の皮は薄く、彼が剣など握った事もないであろう事が容易に想像出来た。
手を掴まれていては退れない。彼はまるで「放すもんか」と言わんばかりに両手でしっかりと私の右手を握っている。
私は諦めて少年の首への負担が少しでも軽くなる様にとその場に膝を折る事にした。臣下の礼ではなく、ただの気遣いである。
「初めまして、少年よ。私はーー」
名前を名乗ろうとした。すると彼は大きな目を驚きに見開き、すぐ様叫んだ。
「だ、だめだよ!」
「は?」
名乗ろうとしただけなのだが、名を告げる事を阻止された。基本的な挨拶だと思ったのだが、この国では違うのだろうかと首を傾げていると、少年は自分もしゃがみこみ、まるで内緒話をするかの如く私に囁いた。
「名前はまだ言っちゃだめ!盗られちゃう!」
「とられる?」
何の事かと目を瞬かせると少年は“本当の名前”は契約の証であり、もし他の人に聞かれたら私を盗まれるのだと言った。
「まだちゃんと契約してないんだもん。だから名前はだめだよ」
「はあ」
素直な子供だ。今の説明が本当ならばわざわざそれを説明せず、名を聞き出して契約すれば良いものを。
「あ、でもね。僕のは教えてあげる」
「名を告げるのは、契約になるのでは?」
「確かにそうだけど、君、騎士だもん。名前を取られたってどうこうは出来ないでしょ?」
きょとんと首を傾げた。成程、幼いが頭は悪くない。
「ホントは先に教えるの、ダメなんだけどね。でも僕は知って欲しいから」
私の名は契約に関わるから聞かないが、自らは名乗ると言う。素直というか、世間ずれしていないというか……少し今後が心配になる子だ。
少年は耳打ちする様に呟いた。
「ネイドルフだよ、僕は、ネイドルフ」
「ネイドルフ、様?」
「皆はネイトって呼ぶよ!」
「いえ、それは……」
初対面でいきなり愛称は、と戸惑っていると不意に別方向から声がした。
「呼んだぞ……!」
「まあ、あのネイドルフ様が」
「やんちゃに過ぎると思ってはいたが……流石はご本家のご次男か」
「この後のソルシアナ様の儀式が楽しみね」
ハッとして周囲を見渡す。するとそこには無数の人影があった。
ここからでは全ての人物の顔を確認する事は出来ないが、それでも多くの人間が私とネイドルフという少年を見詰めていた。
彼らが纏うのは独特な雰囲気。貴族の様に高貴で、それでいて何処か陰湿さを感じる澱んだもの。
私はこの気配を嫌というほど知っている。
これはーー魔術師どもの気配だ。
「ネイドルフ様」
「だからネイトだよ。なぁに?」
この場に似つかわしくない少年は首を傾げた。私はその彼に向かって問い掛ける。
「貴方は、魔術師なのですか?」
そう問うと彼はニコッと場違いな笑みを漏らし。
「うん、そうだよ!僕はね、ベネトロッサの魔術師なんだ!」
「……ベネトロッサ……」
その名は知っている。ベネトロッサ……彼らは魔術師として王朝期より君臨し後に自ら公王を名乗り独立した公爵家の家柄で、私の生きていた時代、隣国サルデニヤを挟んで我が国の東側に存在していたジューネ公国の原形を作り上げた魔術師の一族だ。
神代の時代から続く魔術師たちの名門。その名は魔術師たちにとっては王も同じ。
ああ、なんと言う事だ……
私は落胆した。心の何処かで、この少年が魔術師でなければ良いのにと思っていたからかも知れない。
だが彼は魔術師だった。
それも立場ある特別な魔術師。
どうする、還るべきか?
いや、だが……まだ確かめていない
「ネイドルフ様、1つ、お伺いしても?」
「え?あ、うん!いいよ!何でも聞いて!!」
問うとネイドルフ少年はこくこくと頷いた。その姿は無邪気な子供のそれそのもの。これだけ見ていると彼が本当に魔術師なのか疑いたくなる。がーー私は問わねばならない。
魔術師如何はさて置いて、私を従霊ーー従者に欲しいと願うのならば、問わねばならない事がある。
その目的。
目指すべきものを。
「貴方は私に、何をお望みですか?」
その問いに少年は息を呑んだ。どうやら私の意図している事が伝わったらしい。
我が手を握る幼子の手が震えていた。
彼は理解しているのだろう。この返答如何では、私が契約する事なく元いた場所に還るだろうと言う事を。
「あ、あの、ね」
「はい」
少したどたどしくなる声。だが私は辛抱強く待った。
これは私が確かめねばならぬ事であり、彼の選ぶべき最初の選択でもある。
さあ、答えなさい
ベネトロッサの魔術師よ
貴方の返答次第では、私は決して従わない
貴方が私を求めるのであれば
私が納得するだけの“理由”を示しなさい
選択を誤れば全てがゼロになる。
自ら正しい道を選びとれるか示すがいい。
真っ直ぐに少年を見詰める。すると彼は何かを思い付いたらしい。パッと表情を輝かせると、自信に満ちた目をこちらに向けた。
どうやら願うものが見つかったらしい。
まあ、それが戦での武功や人の尊厳を踏み躙る様なものなら拒否するが。自らの栄光と繁栄の為に私を利用しようとするのならは、私は決して従うまい。
従霊とは従者。となればそれを願うのが普通の契約となるだろう。だが私はもうウンザリなのだ。戦も、騙し合いも、殺し合いも、もう沢山だ。
だからきっと彼がどの様な答えを返したとしても満足など出来ないだろう。そう思い、ただ無感情に答えを待っていると、彼はもう1度しっかりと私の手を握り、それから輝かんばかりの満面の笑みでこう願った。
「一緒にお菓子食べたい!」
「………は?」
ええと……
うん、きっと聞き間違いだな。
そうだ。そうに決まっている。
もう一度彼の言葉を脳内で繰り返してみた。文法と単語を整理しながら。するとそれは
『一緒に』
『お菓子』
『食べたい』
となる。
……駄目だ。
どうしてもそう聞こえてしまう。
異国の言葉の様だし、もしかしたら先程から自動翻訳されているそれが狂い出したのかとも思ったが、ネイドルフ少年はそんな私の都合などお構い無しに懸命に訴えた。
「あのねあのね、人気のパティスリーがあるんだけど……貴族でも、並ばなきゃいけなくて!でも1人で並ぶの恥ずかしいし!」
「はあ」
「だからね、お願い!一緒に並んでよ。1人で並ぶの……嫌なんだもん」
「………」
「そ、そのかわり君の好きなの、1個買うし!2個あったら2個でもいいよ!」
その目は真剣。必死である。
……本気ですか?
目を見開いて真偽のほどを問うた。彼は魔術師だ。そして今、周りにいるこの魔術師たちもきっと彼の一族に違いない。となれば、これは何か深い意味のある言葉で裏があり、私を騙して契約させようとしているのでは。
そう思いチラリと他の魔術師たちの様子も見たが……そこで私は、彼が私に対して、何一つ嘘を述べてはいなかったのだと言う事を悟った。
何故か?
答えは簡単な事だ。何しろ彼の一族全てが凍り付いていたからだ。
ある者はあんぐりと口を開け、またある者は遠い目をして天を仰ぎ、またある者は溜息を零してガックリと肩を落としている。
この場において自信満々でそう豪語するのは、私の目の前にいるこの少年だけだった。
唖然としたまま少年を見ると、彼はニヘッと笑った。子供のよう、ではない。最早これは完全に子供のそれだ。
魔術師を名乗るその少年は、まるで街の子供の様に無邪気に、民と同じ……ありふれた事を願っていた。
召喚師としては余りに未熟。だが本来ならば我が主となるべき魔術師が私に……そんな些細な、どうでも良い事を願う。そしてその根底にあるものはーーただ、一緒にいたいという願い。
平和ボケしているにもほどがある。
こんな馬鹿馬鹿しい願いを述べる魔術師など、見た事も聞いた事もない。今は一体、どんな時代になったと言うのか。
だがーーそういうのも
嫌いじゃない……
そう思った。
魔術師という生き物には未だトラウマがあるが、少なくともこの少年だけは嫌いにはなれない。いや、なれそうもない。
彼は不安そうに私の手を握り直した。大きな目をウルウルとさせて、情けなく眉を下げて。その姿はまるで捨てられるのを恐れる子犬のようにも思えた。
甘え上手な少年だ。
つい手を差し伸べたくなる。
私の、負けか……
溜息と、苦笑い1つ。そして
「お受けします」
気付くと私はそう答えていた。自分でも意外に思ったが、それは彼も同じだった様で大きな目を零れんばかりに見開くと
「ホント、に?」
「はい」
「や………」
「は?」
「や、やぁったぁーーー!!ありがとう!ホントにありがとう!!やった、やったぞ!ひゃっほぅ!!僕の従霊だ!!僕に、この僕に、従霊が出来たんだっ!!」
「え?あの、ネイドルフ様、少し落ち着かれて下さい」
一応契約はまだの筈なのだが、大喜びの少年はそれ所ではないらしく、あろう事か私に飛び付いて来た。
「絶対、絶対だぞ!ずっと、ずーっと一緒だからな!!絶対放れちゃ駄目だぞ!絶対、絶対なんだからなっ!?いいな、フィン!……“フィンドール”!!」
「え?あ、はい」
フィンドール……?
疑問に思うとまた脳裏に言葉が文字と共に浮かんできた。
フィンドール。
彼の国の言葉で、従者という意味の言葉だ。だが彼は一度フィン、と切っていた。と言う事は正しくはフィン・ドールなのではと思い、こちらは聞き覚えがあったので記憶の中で言葉を辿ってみた。すると、それがジューネの言葉である事が思い出せた。
フィンは、“第1の”。
ドールは、“友”。
「ああ」
想起すると溜息にも似た感嘆が漏れた。
この少年はーーネイドルフ様は私を、第1の友と呼んで下さるのか。
従者でありながら友であると。
仕え、支える存在として必要として下さると、それを示す名まで与えて下さるのかと。
そして私が頷いた事にこんなにも素直に喜びを露わにし、全身でその大きさを訴えている。
なんと変わった少年か……いや、もう主か
「我が君ーー」
ならば私も応えよう。
無邪気な子供。無垢なる魂のこの少年が与えたこの名に恥ぬよう従霊として仕えよう。今はまだ真皓きこの少年が、かつて私を陥れた魔術師たちと同じ道を辿らぬように。邪悪な心に唆され、悪しき行いに手を染めぬ様に導こう。
今度こそ。
今度こそ、剣の誓いを果たしてみせる。
私はネイドルフ様を一旦離し、それからその場に膝を折る。
「契約の名に応えましょう。我は白銀。誠の忠と義を以て、我が主君にお仕えする」
宣言した。
「されば我が名を、忠誠の証として御身に差し上げる」
我が名は“白銀”、イーリアス
口には出すなと言われたので心で強く告げた。すると、どうだろう。私たちがいる魔法陣が再び眩い光を放ち、私と、我が主の身体を包み込む。
『イーリアス』
脳裏に少年の声が響いた。まだあどけない、軽やかな少女の如き声音。
思えば、この名を口にしたのは、いつ以来か。少なくともかつての王は私を“白銀”と呼び、人々も“王の騎士”と呼んだ。
親しかった友が死して後は、この名を呼ぶ者など誰一人いなかった。私ですら書状へのサインには王から賜った白銀を用いていた為、使う事がなかった実の名。
そして、今この名を告げたと言う事は、今後再び実名を使う事がないという事だ。だが、私の名を知る者はある。
たった1人。この世でただ1人、私の真名を知る人がいる。
それは本来人としては至極当然の事ではあるのだが、物心ついた時から名を呼ばれる事のなかった私には特別な事の様に思えた。
『キレイな名前だね。なんか、フィンドールにしちゃうの勿体ない』
我が主はそう零した。
何を仰るのか。フィンドールの方が、私にとって更に綺麗な響きに聞こえるというのに。
本当に真っ白で、無垢なお方だ。
笑みを零すと脳裏に従霊として最初の仕事の内容がふわりと浮かんできた。
印章ーーシジルと呼ばれる刻印を、主君の身に刻む事。
それを以てして初めて主従の契約となる。
「ネイドルフ様、印章を」
「え?あ、そっか!うん、何処でもいいよ!……あ。でもどうせなら普通に見える場所がいいなぁ」
『背中とかでもいいけど……見えないとこだと本当に契約したのかな、って。ちょっと不安だし』
この言葉は脳裏でネイドルフ様が考えただけらしい。成程、従霊にはこうした能力もあるのか。
主の考えが分かるというのは便利なものだ。だが、今後は慎む事にしよう。主君の心を覗き見するなど、臣下にあるべき無礼なのだから。
「かしこまりました」
主の願いに答えると私は印章を刻む事にした。目に見えるとなれば、手の甲あたりが良いか。普段目にする事もあるし、主のご身分ならばグローブで隠す事も出来る。
利き手よりは逆の手の方が望ましいだろう。余り此れ見よがしに目に入ると、若き主へのいらぬ重責となるかも知れない。
意識を集中すると頭の中に映像が浮かんだ。
2本の異なる形の剣が交差した紋章のようなものーーこれが私の印章か。
極光を思わせる澄んだ色合いのそれは、私がその形を主の左手へ移すイメージをすると、すうっと溶けて消えた。
代わりに我が君の左手から白銀の光が立ち上り、その柔らかそうな手の甲にイメージしたものと同じ印が焼き付いた。
「わっ!」
急に印章が現れて驚いたのだろう。主が目を見開いた。
「痛くは御座いませんか?」
思わず問うた。何分、私にも初めての行為だ。印章の見た目はペイントというよりは刺青のようなものに見えたのでもしや痛みがあるのでは、と案じたのだがネイドルフ様は無邪気に印章を撫でながら笑う。
「大丈夫。びっくりしたけど、痛くないよ」
「そうですか」
良かった。
「えへへ」
ニコニコと印章を撫でながら満足そうな主。その姿に私もまた笑みを零す。今迄、主従の契約をこうも無邪気に喜ばれた事があっただろうか。
祖国の騎士となる前後、私は主を変えた事がある。その時も契約を交わす時、主たちは皆一様に喜びはしたが、同時に不安そうでもあった。
私は生涯剣に於いては無敗であった為、主君たちは皆、表立ってではないが恐れていたのだろう。
いつか我が刃が自らに向くのではないかと。
まあ、その不安は幾度か的中してはいるが。
ネイドルフ様はご存知ない様だが、私は決して忠実なだけの存在ではない。如何に主の命であっても、人の道に反する命だけには断じて従わない。もし主が道を誤れば、私はこの剣を賭して必ず止める。
それが不忠となろうとも。その結果、私は私の最期を招く羽目にはなったのだが……今はその悔恨に浸るのも憚られた。
「これから宜しくね、フィンドール!」
「こちらこそ」
太陽の様に満面の笑みを浮かべ手を差し出された。最初、その手を取るべきかどうか悩んだが、この方は私が握手に応えるのを待っていた。故に、心の中で非礼を詫び私はその手を取った。
小さく、余りにも頼りない手。
我が主の御手。
今度こそ護ろう。
主と道を違える事なく、同じ道を歩み続けよう。
このお方の騎士として。
その日からーー私は従霊となった。
無邪気で無垢な、そしてとてもワガママで少し甘えた所がある、高貴な血筋の少年王に仕える騎士になったのだ。
我が名はフィンドール。
召喚師ベネトロッサ一族本家の次子であるネイドルフ・アルシェン・ド・ベネトロッサ様に仕える第1の従者にして、かつて大罪を犯した“白銀”でありーー我が君の知る所ではないが、“纏黒”と呼ばれた騎士である。
そして時は過ぎ
ジューネべルク公暦398年。
私は初めて主君と共に並び立つ。
これは私が、ネイドルフ様にお仕えする召喚獣・従霊として初めて臨んだ事件の記憶でもある。
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