場面五 卯の花

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場面五 卯の花

 冷たい雨が降り出した。  室内は暗い。木戸は褥の中で、軒に当たる雨音をぼんやりと聴いた。  二度目の情交は、優しかった。大久保は、乱暴に扱った埋め合わせをするように、丁寧に木戸の身体を愛撫した。相変わらずの木戸の毒舌に苦笑しながらも、病み上がりの弱った身体を労わりつつ抱いた。終わった後、抱き上げられ、褥に移されるのを、木戸は夢うつつに意識していた。  疲れていたので、そのまま少しうとうとした。ふと目を覚ますと、室内にはほのかな行灯の明かりが揺れていた。大久保は文机に向かい、手紙を書いているらしかった。情交の後、目覚めて傍らに己れの姿が見えないことを嫌う木戸を、大久保は熟知している。  この国のために、親友も、郷里も切り捨てた。  その孤独な背をぼんやりと見つめていると、ふと古歌が口からこぼれた。 「卯の花の、咲くとはなしに………」  声が聞こえたらしく、大久保は手を止めた。    卯の花の 咲くとはなしに ある人に 恋ひやわたらむ 片思いにして                (万葉集十巻 読み人知らず)  ほのかに咲く白い卯の花のように、咲いているのか咲いていないのか、恋をしているのかいないのか判らないあの人に、私は、恋をし続けるのでしょうか。  愛を囁きながら、心の半分は別の男のもので。心の傷も痛みも己の内に深く包んで、見せようともしないこの男に、木戸は恋をし続ける。優しくされるほどにもどかしくて、その内側に触れたくて、挑発しては振り払う。  求められては、安心する。  通俗小説の女のように、嫉妬深く女々しい己の姿を、木戸は情けないと思う。 「木戸さん」  筆を置き、大久保が近づいてきた。 「何か仰いましたか」  木戸は大久保を見ずに言った。 「………雨ですね」 「先ほど降り出したようです。明日お送りしますから、泊まっておいでなさい」 「卯の花が腐ってしまいます」  少し間があった。 「卯の花腐しの五月雨も―――とか。卯の花は夏の花ですよ」 「知っています。卯の花なんて大嫌いです。すっかり腐ってくれればせいせいします」  捨て鉢に言うと、大久保は苦笑したようだった。 「花好きの木戸さんにしてはお珍しい」  さっぱり通じていない会話。木戸はかけられた薄い衾を引き上げた。 「嘘です。卯の花は好きです」  恐らく全く理解できないであろう大久保は、それ以上この話題にこだわる気をなくしたらしい。衾の上から軽く木戸を叩いた。 「お茶を用意させますよ」 「酒を下さい」 「―――では、そのように」  大久保は部屋を出て行った。規則正しく重々しい、普段と変わらぬ足どりで、ゆっくりと遠ざかってゆく。空気が動いたせいか、行灯の火が静かに揺らめいた。 『愛していますよ』  大久保は囁く。  だが、半身を失う痛みに比べれば、そんな「愛」が、どれほどの重みを持ちうるというのだろう。 「愛シテイマス」  木戸は小さく呟く。  ………嘘ばっかり。  しんとした室内に、淋しい冬の雨の音だけが、途切れることなくただ響き続けていた。  - 了 -
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