場面二 半身(一)

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場面二 半身(一)

 書生の案内を断り、木戸はふらりと大久保邸の庭に入った。本格的に冬を迎えようとする十一月の初めの太陽は既に傾いて、木戸の足元に長い影を落としている。  庭石の上で、コツン、と杖が鳴った。木戸は、少し前に馬車で参内するところを事故に遭い、それ以来、左足がうまく動かない。友人が当面の便宜にと貸してくれたものだ。  相変わらず風情のない庭だ。  見渡せば、花ももみじもなかりけり―――と、定家の有名な一首が、ふと口をついて出た。  桜ももみじもない。季節の移ろいを感じさせぬその佇まいが、どこかあの男に似つかわしいと思った。西郷の庭は田舎の農家だが、大久保の庭はそれとも違う。洗練された美しさもなければ、田舎ののどかな風情とてない。「殺風景」としか形容しようがない。花の美しさも、実りの豊かさも感じさせることなく、まるで時の流れから隔絶したように、硬く、冷たく凍りついている。  目の前にある濡れ縁の廊下を奥に進めば、大久保の私室がある。突然現れて驚かすのも一興、というところだが、そうは行かない事は判りきっていた。大久保邸の優秀な家人たちが、客人の存在を主人に知らせずにいることなどありえない。  案の定、数分と経たずに、廊下に見慣れた長身が姿を現した。木戸は杖を突きながら、ゆっくりと建屋の方へ進んだ。不自由な身体を気遣ってか、和服姿の大久保は庭に下りてきた。いつものように重々しい足取りで近づき、無言で木戸の腕を取る。  顔立ちの割に小さな大久保の眸が、じっと木戸を見据えた。 「帰りなさい」  思いがけず厳しい声が耳を打った。  秋霜のごとき声だった。  この男に対すると、人は厳冬の冷気に打たれたように粛然とするという。  木戸はわずかに意外な気持ちで大久保を見返したが、ややあって頬を緩め、薄く笑った。 「………お珍しい」  この男から「帰れ」と言われるとは正直予想していなかった。訪ねてくる相手を締め出し、追い返すのは常に木戸の方で、そのたび重なる拒絶にも懲りずに訪ねてくるのが、「粘り口」とも囁かれる大久保利通だった。  そう、それは実にこの男らしくなかった。 「馬車で送らせますから、お帰りなさい」  大久保は感情を交えない声で言った。そのまま玄関へ追い返されそうな勢いに、木戸は支えられているのを幸い、杖で軽く大久保の足を打った。 「不自由な身体でこうしてわざわざ来たものを、休息もさせず、一杯の茶も出さずに追い返すおつもりですか」  大久保は一瞬だけ動きを止めたが、黙って木戸を伴い、入口へ向かおうとする。木戸は、今度は支えようとする大久保の腕を振り払った。 「話があります」  宣言するように言うと、大久保は木戸を見た。しばらく外出というものを全くしていなかったせいか、少し息が切れた。 「何のお話ですか」  間をおいて、静かに問いかけられる。  あくまでも部屋に上げるのを拒絶しようとする頑ななまでの態度に、木戸は内心、苛立ちと同時に歪な快感を覚えた。  それは、いわば嗜虐的な快感であった。  大久保は、自制心の強い男だった。いつも憎らしいほどに冷静で、沈着だった。  その強固な自制心の仮面をむしり取る、その快感。  その心を乱している主たる原因が自分ではない、という不快。  木戸は唇の端を上げ、無言で大久保の横をすり抜けた。
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