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場面二 半身(二)
ちらりと肩越しに見やると、大久保は諦めたらしく木戸の後に続き、すぐに追いついて不自由な身体を守ろうとするように傍らについた。縁に座ろうとする木戸から杖を受け取り、履物を脱ぐのを手伝ってくれる。そして先に縁に上がり、立ち上がるのを支えてくれた。
気の利きすぎる男。まるで訪欧中に見た、上流階級の男たちのようだ。か弱い女性をエスコートするかのように、木戸を支え、導く。その型通りの完璧すぎる気遣いの内に―――己の心を隠す。
「大久保さん」
己を支えてくれる手を軽く掴み、少し伸び上がって口付けた。なおも無表情を保つ眸を、じっと見つめる。
だから、余計に突き崩したくなる。大人しくエスコートなどされてやらない。貴方の差し出す型になど、嵌ってやるつもりはない。
「可愛いですよね。大久保さんの眸」
笑い混じりに囁いた―――その時。
ちかっと、火花が走ったようだった。
腰をぐいと引き寄せられ、腕を強く掴まれた。強引に唇を重ねられる。
「………んっ………」
苦しい。
蹂躙されるような激しすぎる口付けと、強すぎる抱擁。そして、痺れてくる不自由な左足。
香をたきしめた袖を握り締めても、膝から崩れそうになる。
「ちょ………!」
顔を逸らして抗議しようとしても、大久保は許してくれない。いっそ壁か柱にでも押し付けてくれれば拠り所になるだろうに。そもそも大久保の方が上背があるのだから、抱きすくめられて口付けられては、体勢が不安定になり力が入らない。
湿った息遣いと、濡れた音が耳を打つ。ぬるりとした舌は歯列を割って遠慮会釈なく口腔を侵し、呼吸さえもままならない。
息苦しくて、頭の芯がぼうと霞んでくる。
「木戸さん」
己を呼ぶ厳しい声に、抱き締められたまま、ようやく口付けから解放された木戸は呆然と相手の顔を見た。両手は、長着の袖を必死に掴んでいる。
「抱かれに来ましたか」
息一つ乱さず、大久保は真っ直ぐに問いを突きつけた。木戸はぞくりとする。
これは、怒りだ。凍りついた炎のような、冷たい怒り。
胸の底で、苛立ちと快感がない交ぜになった歪な感情が、再びざわざわとうごめく。
木戸は荒い呼吸を繰り返しながら、それでも頬に笑みを浮かべようとした。
「励ましに………来たつもりですが」
「………」
大久保の目線は揺るがない。
「国のために………親友と郷里を捨てた、貴方を」
闇色の深遠が、木戸を見据えている。傷口から溢れる、苦痛、悲鳴、憤怒、慟哭。普段なら心の底深くに沈められ、決して余人に窺わせない、ありとあらゆる負の感情。
「励ます」?
その言葉の空々しさに、言いながら笑ってしまう。この誰よりも強靭な意志を持つ男を「励ます」ことなど、一体誰に可能だというのだろう。
むしろ木戸は、この男の傷口を抉り出したいのだ。傷口ごと抉り出して、捨て去ってしまいたい。身の内の腫瘍を抉り出すように。そこに、木戸が刻んだ傷だけが残るように。
だが、現実には、傷を癒す事もできず、目前にぽっかりと開いた深遠以上に深く巨大な傷を、この男の身に刻む事もできず。
いっそ哀れな貴方を見物に来た、と言い放ってやろうか。
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