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 額に柔らかな感触が触れた。ゆっくり目を開けると、エプロン姿の菫が俺の枕元で腰を下げ俺を見下ろしていた。 「翔。大丈夫?オムライス作ったんだけど、食べられる?」 そういえば、彼女からは少女特有の甘い香りに混ざってケチャップを炒めたおいしそうな匂いがした。 俺は体を起こして布団をしまった。 「悪い。色々手間をかけちゃったね。」 「そんなこといわないでよ。さあ、ご飯にしましょう。」 彼女の手に引かれキッチンに向かうと、いかにも美味そうなオムライスが食卓の上に置かれていた。 「いただきます。」 こんな風に食べ物を作ってくれた人に感謝の気持ちを表せる食事って、いつぶりだろう。両手を合わせて感謝の言葉を発してオムライスを一口食べた。 そんな俺を、彼女は微笑ましい表情で両手で頬杖をついて見つめていた。 「お前は食べなくても大丈夫?」 「あ、私も食べなくちゃ。」 自分の分は忘れたのか。くすっ、と笑いが出た。俺が笑うと彼女も恥じらいの笑みをうふふ、と俺の方へ流した。 「味は大丈夫?」 自分の分をテーブルの上に乗せながら聞いた。特別な、舌を躍らせるような味というより、食べれば食べるほど心の中の絡まっていた何かが解け、楽になるような、そんな味だった。 こんなに手間が入った食事を誰かと一緒に食べるのってこんなにも幸せなものだったのか。 両親が忙しくなってから忘れてしまっていた食事の楽しさなんて、かなりの間失っていたのだ。 「美味い。菫、料理、誰から学んだ?」 「いや、何となく。美味しく食べてくれたら、嬉しいです。」 菫は俺の感想を聞いて安心したのか、やっとスプーンを持った。 「ねえ、翔。」 皿洗いをする俺のすぐ後ろに菫が近づいてきた。若干気の迷いが窺える声だった。 「なに?」 「ちょっと失礼なこと聞いちゃってもいいかな?」 「なんなりと。できる範囲で答えてみるぞ。」 「じゃあさ、翔の両親ってどんな方なの?」 「俺の両親?」 なんと答えればいいか、少し迷った。他でもない俺の両親だけど、実のところどんな方なのか、って聞かれたらなんと答えればいいか分からない。 きっと、俺を大事にして愛してくれるには違いない。しかし、両親の愛の、いや、その半分の半分程でも俺は両親を好きなんだろうか。 昔は、もっと一緒に時間を過ごせた頃には、親より好きなものなんてなかったのに、いつの間にか両親と顔を合わせることすら気まずくなってしまった。 そうなってしまった以上は、俺は親の関心と愛を素直には受け止められず、零れ落ちるその愛を見過ごして一人になることを選択した。 何を今更、という恨みもあった。大人っぽくないことは承知のことだが、それでも、やっぱり俺には親のことがよく分からなかった。 「悪い方ではない。ただ…」 「ただ?」 「気まずいだけかな。」 多分その一言では言い切れない関係だろうけれど。 「そうなんだ。」 それを最後に少しの間沈黙が続いた。静寂を先に破ったのは、菫の方だった。  「翔。もう一つ、聞いてもいいかな?」 「いいよ。」 「これもとても失礼な質問だと思うけれど、大丈夫?」 「菫なら、いいよ。」 「ありがとう。じゃ、聞くね?」 菫は深く息を吸い込んでは決心した表情で俺をまっすぐ見た。 「翔は、何でセンターに通ってるの?」 その質問に、心臓が止まるかと思った。果たして、俺は、自分の事情を彼女に言えるだろうか。 もしかしたら、彼女がそれを知ったら俺を遠退けるかも知れない。もう一人は嫌、と心が叫ぶのを無理やり押しつぶしてみたけど、無駄だった。 俺は大丈夫なんだって、慣れてるんだって、そう強がってきた俺は、彼女がそばにいてくれただけでこんなにも脆くなってしまった。 もしかしたら、彼女が俺の人生にとって最後の友達かも知れない。そんなことまで考えるほど、俺は崖っぷちに立たされたかのような気分だった。 俺は自分が思うことよりはるかに彼女に救われていると、今になって気づいた。 手が震えて、呼吸も迫る。今すぐでも逃げ出したかった。 「翔…?」 明らかに変な俺の様子で、菫が心配そうに俺を呼んだが、俺は何の答えもできなかった。 「ご、ごめん。変なこと聞いちゃって。機嫌損ねた?」 「い、いや、ただ…」 手を振ってみても彼女の落ち込んだ表情は晴れなかった。 「もし、その理由を知ったら菫が俺のことを嫌いになるんじゃないかと、心配した。 「そんなわけない。私、何があっても翔のこと嫌いになんてならない。私、翔のこともっと知りたいもん。」 「何があっても?」 「うん。何があっても嫌いには絶対ならない。約束するよ。」 菫は俺に小指を突き出しながら言った。その細くてちっちゃい小指に自分の小指をかけると、彼女はにっこりと笑った。 「これで、私は何があってもあなたを嫌いにはなれません。代わりに、あなたも何があっても私のこと嫌いにならないで。」 その言葉が、どれだけ自分に勇気を与えてくれたのか。菫なら、彼女なら自分の全てを理解してくれる。そう思った。 互い嫌わない約束。それは今まで交わしたどんな約束よりも大きな意味を持った。どこか心が壊れている者同士のこの誓いは、互いのことを一つの世界へと結びついた。 「じゃ、いう。俺はどうやら、鬱病を患っているらしい。」 「鬱病?」 「うん。それがね、実は…」 俺は左の袖を捲り上げた。赤い線が、手首を彩っていた。 「自傷したのを、親にばれてしまってさ。」 菫はそれを見ても何もいわなかった。怒ったり、驚いたりもしなかった。ただ、彼女は俺の傷をやさしくなでさした。 「痛く、ない?」 「そんなに痛くはなかったよ」 「うん。痛かったね。」 彼女は俺の手首をなでながらも、迂闊な同情や慰めはしなかった。その反応が、何よりもありがたい。 「傷跡残るかも。軟膏とか、ない?」 「大丈夫。どうせ血は止まったし。」 「駄目。塗らないと。」 仕方なく軟膏を探して自分で塗ろうとしたが、彼女は俺の手から軟膏を取った。 「これは、身体の傷ではありません。心の傷なんです。だから、他の人から治療してもらわないといけません。」 菫はそういいながら軟膏を塗り始めた。誰からももらったことのない優しさだった。 「はい、できました。」 「なあ、菫。」 俺は軟膏の蓋を閉じた菫を呼んだ。 「お前は何でセンターで暮らしてるのか、聞いちゃっていいかな。」 「私?あ、確かに翔だけいうのは不公平か。」 菫は頭の中で考えをまとめてるようで、指をあごに乗せた。 「簡単にいうと、誰も私のことを必要としなかった。」 菫の顔から深海のような青黒い悲しさが感じられた。 「誰も?」 「うん。私の両親が、私を世話したくないってセンターに任したよ。ひどい話だよね?」 「それはひどいな…」 「だから、あなたが私を必要とするっていってくれた時、本当に嬉しかった。今まで、誰にもそんなこと言われたことがないから。」 彼女は世界を包めるような優しい笑顔で言った。今の俺にも、そんな素敵な笑顔が作れるんだろうか。多分、無理だろう。
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