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 結局、菫が帰ってしまったその夜は、久々に夢を見た。俺と菫が、大きな舞台で一緒にコンサートをする夢だった。 彼女と俺が曲を終えると、盛大な拍手の音が会場を満たした。熱いほどの照明の下で、俺と菫は顔を合わせては観客に向けて頭を下げた。 アンコールも要請に俺は再びギターを持った。そしたら、瞬間、舞台は中学時代の文化祭へと変わった。 振り返っても、菫の姿は見当たらなかった。無関心な客席を前にして、俺は頭を抱え絶望に陥った。また、誰も俺なんかには興味を持たないだろう。そのことだけが、俺の頭を支配した。 ギターを手から落とすと、皆俺のことを嘲笑った。その声で、頭が弾けそうになった。お前なんかどうでもいいんだ、と彼らが怒鳴った。 一滴、もう一滴、赤い雫が手首に滴り、地に落ちては花びらになった。 それから悲鳴をあげながら夢から覚めた。ベットは汗でびしょ濡れになり、夢の内容が生々しく蘇った。今でも声が聞こえてるようで、眩暈がした。 今日が初ライブの日だというのに、こんなんじゃギターなんて弾けない。俺を嘲笑う声が空いた家の中に響いた。 声を避けて、トイレに入り頭を抱えた。しかし、声は、すぐ俺のことを探して荒くトイレのドアを叩いた。とんとん、脳が鳴り響いた。消えろ、消えてしまえ。一人便器に腰掛けて呪文を唱えるかのように呟いた。 彼女のことを思い出そう、俺を信じてくれた、春風のような彼女を。必死に彼女の顔を浮かべようと目を閉じ悪あがきしたが、ノイズだらけで雑音が混じった俺の頭の中は彼女の太陽のように明るい笑顔も、解けるように甘ったるい彼女の声も許さなかった。 お願い。彼女だけは飲み込まないで。懇願してみても、ノイズは酷くなるだけだった。 半分狂ったまま呼吸を吐き捨て立ち上がった俺の選択は、決して賢明とはいえないだろうけれど、今できる唯一の方法だった。 洗面台に置かれた父の剃刀が目に入った。震える手が、その冷たい刃に触れる瞬間、時間が止まり、嘲笑いは熱き歓声へと変わった。 やれ!やっちゃえ!ああ、彼らは赤に熱狂している。皆俺を求めている。狂った牛を飛び越える赤き闘牛士。危険極まりの芸当。それを乗り越えた先に、彼女の姿が見える。 一本、もう一本、線が刻まれるたびにノイズは消され、雑音が消える。彼女の笑顔が、声が聞こえてくる。 「うん。痛かったね。」 一本。 「これは、身体の傷ではありません。心の傷なんです。だから、他の人から治療してもらわないといけません。」 もう一本。 「あなたは、私を必要としてくれた、唯一の人だから。」 世界を包むようなその優しい笑顔をフィナーレで、ショーは幕を下げた。観客が歓声とともに投げた花がトイレの床に落ちる。花びらは踏みにじられ、水に溶け落ち排水口へと流れ込んでいく。 もう、大丈夫だ。また現実世界の住民に戻るのさ。まるで何もなかったかのように。 そう、何もなかったようにね。
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