40人が本棚に入れています
本棚に追加
菫
翔の美しいギターの音が鳴り響いた。人々の視線が一斉にこっちに降り注がれる。負担感で身が震えてきた。ミスしたらどうしよう。
ミスしたら、彼は再び傷ついて音楽をやめるかも知れない。そんなことを思うと、私はじっとしていられなかった。頭の中が、真っ白になった。
もうすぐで私の出番なのに、どうしよう、という思いで翔を見つめた。彼も私みたいに不安に飲み込まれそうになってるんじゃ…
と思ったが、私の目に入ってきた彼の顔は、とても楽しそうだった。目が合うと、彼は私の歌が楽しみで仕方がない、といわんばかりの笑顔で演奏していた。
歌わないと、彼を痛いその傷から救えるのは、私だけ。迷いは決心となり、狂いだした心臓をぎゅっと握ってくれた。胸に手をついて、息を飲み込んで歌いだした。
その瞬間、私は彼の声となり、人々に彼の意思を伝えた。彼の思いは人々にちゃんと伝わり、みんな私と翔の歌に耳を傾けてくれた。彼と、私と、皆で通じ合えた。
一曲歌い終えると、熱き拍手の音が聞こえてきた。大勢の人が私と彼をめぐって声援を送っていた。
翔を見ると、彼は信じられないような顔で笑った。よかった。ちゃんと彼の声になれて。その心が、その叫びがちゃんと伝わって。嬉しさのあまりに、私の目はいつの間にか潤っていた。
「さあ、菫、これ受け取って。」
ギターケースの中に積ったお金を、彼は私に分けてくれた。
「えっ、いいの。」
「受け取ってくれよ。一緒に頑張ったんだろう?」
どうしようかな、と迷っていた私は、いいアイディアを思いついた。
「それじゃ、このお金は貯金しておくことにしましょう。」
「貯金?」
彼は頭を傾げながらいった。
「うん。貯金しておいて、後で一緒に使うの。」
「たとえば?」
「ううん…おしゃれなところで食事をしたり?」
翔は指を顎に乗せ、少し唸った。そしていいアイディアが浮かんだか、手を打った。
「なあ、旅行に行かないか?」
「旅行?」
自分とは全く縁のない単語が飛び出してきた。旅行なんて、生まれて一度もやったことがない。
「いいね。どこに行くつもり?」
「さあ、それは後で考えよう。」
いつか、彼と一緒に旅に出る想像をすると、何故か胸が高鳴った。いつか、彼と遠い、遠いところに行って、人生をやり直すんだ。そんな希望の一歩を、今日無事に築くことができた。
最初のコメントを投稿しよう!