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 ライブを終えたら、時間はもう6時を過ぎていた。初ライブの成功に忘れられていた空腹感が顔をあげた。 「お腹すかない?」 菫はそういいながら自分の腹をつかんだ。 「そういえばそうね。適当なところ探してみるか。」 少し見回ると、パスタのお店が目に入った。 「パスタとか、どうだ?」 「いいよ。行こう。」 手を繋いだまま店に入ろうとする瞬間、彼女は俺から手を離して一歩下がった。 「どうした?」 「あ、ごめん、私なんか買ってくるから。先に入って頼んでおいて。」 「うん?買い物なら、付き合ってもいいけど。」 「女の子には一人の時間も必要なの。」 仕方なく、一人で店に入り、席に座った。店員さんが差し出してくれたメニューを見ながら、なにがいいかなーと少し迷った。といっても、彼女の好みとかまだ知らないので頼んではないけれど。 先に飲み物だけでも頼んでおこうかな、そう思ってレモネードを二つ頼んだ。飲み物が運ばれてしばらく、店の中に入ってくる菫の姿が見えた。 「ごめん、待たせちゃって。」 彼女は申し訳なさそうに言った。 「いいよ。飲み物頼んでおいたから飲んで。」 よかった、と彼女はにっこりと笑った。 「ねえ、今日のライブ、楽しかった?」 言うまでもなかった。今までの努力が報われた感じだった。漠然とした不安も、菫の甘ったるい歌声に雪が解けるかのように消えた。 何よりも、音楽を奏でる楽しさを、他人と音で共感できるということを、はじめて感じた。それだけで、言い切れない嬉しさを感じた。 菫に向かって頷くと、彼女は微笑ましく笑った。 「よかった。私、役に立ったのかな?」 彼女はそういって、ストローを口に近づけた。 センターに向かう帰り道はいつも心残りがする。もっと彼女と一緒に入れたらとか、こんなのできなかったなとか、青黒い夜空を見上げながらそんなことを考えてると、菫が俺の頬を軽く突いた。 「翔、何考えてるの?」 一見悪戯っぽく表情だが、彼女の瞳は俺ともっと色んなものを分け合いたい、という俺に対する純粋で真剣な疑問で満ちていた。 「うん。今日心残りがするところとか、できなかったこととか、そんなの考えてた。」 「ふうん…」 彼女は後ろ手を組んで腰を下げ俺を上目遣いで見てきた。 「私は、あなたができなかったこととか残念だったところとかじゃなくて、よかったこととか、楽しかったことを覚えて欲しいな。」 そっか。彼女はこんな子なんだ。もしかしたら、俺は彼女とは真逆の人間なのかも知れない。 彼女が泥の中の宝石であれば、俺は花畑の中のごみだ。こんな彼女をみると、俺は自分について言い訳なんてできなくなる。俺のこのひねくれた性格は、他でもない、自分の問題だ。全部、全部俺のせいだ。 手首の傷が再びずきずきと痛みはじめた。今まで、なんともなかったのに。やっぱり、俺は彼女の前ではどうしようもないくらい脆くて、弱くて、痛んでくる。 育てられながら消えてしまった温もりを、俺は同い年の女の子から探しているんだろうか。そうだとすれば、俺は救いようがないガキだ。 「翔。もし私の勘違いだったらごめん。」 センターの前で足を止めた彼女が、俺に向かって気を配りながら言った。 「やっぱり、今日一日中、何かがおかしいな、と思ったんだ。何がおかしいのかな、とずっと思ってら、私、分かっちゃたの。」 何を言っているのだ。背中に汗が流れた。でも、どうやって?今日の演奏だって、完璧だったはず。 彼女が俺のところへ歩み寄る。俯いたまま、俺の両手を握る。 「辛いことがあったら、いつでも言って欲しいんだ。それとも、やっぱり私のせいなのかな?」 彼女の涙が手の甲に落ちる音がした。震える彼女の手は、相変わらず冷たい。白い彼女の手が、俺の手の温もりで暖かくなる。 やがて二人の手の温度は同じくなり、まるで一体になった気分だった。俯いた彼女の長い睫毛には、露みたいな涙が宿っていた。 「どうして分かったんだ?」 「ずっとあなたを見ていたんだもの。」 彼女は繋いだ俺の指をなぞりながら言った。 「いつもあなたは私に左手を差し出してくれる。。私が左利きだから、あなたはいつも私の右手を握ってくれるんだ。でも今日のあなたは、私に左手を出したの。」 彼女はコートの上で俺の傷を撫でてくれた。 「やっぱ昨日、私が怒っちゃって?」 「ごめん。菫。どうしようもないくらい不安だった。もう二度と会えないかな、と。」 「馬鹿。そんな訳ないでしょ。ただ、私が勝手なことをしただけだよ。私があなたに初めじゃないことが、いやだったの。馬鹿でしょう?私。私、あなたの彼女でも何でもないくせに、わがままなこと言っちゃって。」 そうだったのか。それがいやだったんだ。自分の無頓着にうんざりがした。何を言えばいいんだろう。どうしたら、彼女を慰められるんだろう。 きっと、俺は彼女にとってはじめてなんだが、申し訳なく彼女は俺の初めてではない。これじゃ、一生同じにはなれない。 でも、それでも、ひとつだけは確実にいえる。 「…最初ではないかも知れない。それでも、君は俺にとって、きっと最後の人だ。」 「うん、うん。それで十分。もうわがままなこといわないから。ごめんなさい。」 謝らなければならないのは俺の方だというのに。俺はそれ以上何も言えなかった。 罪悪感が襲ってきた。俺は、一日中彼女を心配させたんだな、と。彼女に合わせる顔がない。 「傷、見てもらってもいいかな?」 「うん。」 俺はコートを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げ左の手首を見せた。ぼろぼろになった手首が、朝まで続いた悪夢を蘇らせた。 「痛くはない?」 「大丈夫。別に痛くないよ。」 「うそ。」 彼女はそういいながら鞄から包帯と傷薬を出して、丁寧に治療してくれた。 「できた。こっち来て腰下してみて。」 治療を終えると、彼女は言った。素直に腰を下げると、彼女は俺の頭を懐の中に抱えた。 「ごめんなさい。私にできるのがこれぐらいしかなくて。」 これで十分過ぎるさ。と心の中で言った。彼女にはどうやら心の中の声を聞ける能力でもあるんだろうか、俺の頭を撫ででくれた。 まるでこの瞬く街灯の下だけが、世界に残された唯一の場所みたいだった。
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