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 この町に来るのは本当に久しぶりのことだった。隣町とは言え、なんの変哲も無い町だからこれまで寄ったことは一度もなかった。 弱10年ぶりの町だったけれど、見る限りでは何一つ変わらない町は自分を待っているかのようだった。久々に町を見て回りたい気もしたが、俺は幼い頃の思い出を探してこの町に来たんじゃない。 ここに住む頃はあったかも知らなかったけれど、俺が行かなければならない青少年センターがこの辺にあるらしい。 予約した時間まであと少しだったので急がなくちゃならなかったかせれど、寄ってみたいところがひとつだけあった。 今はやめたけど、子供の頃は一人で星を見るのが好きだった。俺だけの知っている秘密基地に唯一足を踏み入れたあの子を思い返しながら到着したところは、工事中の子供公園だった。 今あの子はどんな生き方をしているんだろう。名前も顔も思い出せないけれど、その歳に相応しくない悲しい目だけが朧かに浮かんだ。 その瞳に再び光が戻る頃、私は彼女と別れてしまった。さよならもまともに言えずに。 もし、俺が今偶然あの子とすれ違ったら、俺はその子だと気づくのだろうか?という疑問は日々が過ぎるにつれ薄れていった。 人間というのは、誰しも一つや二つ、そんな子供の頃の思い出を持ったまま生きていくものだから。俺の思い出もそんなに特別だとは思わない。 それは、多くの花が咲いている花畑の一本の花のように、目立つことも大きな意味を持つこともなく萎んでしまった。 それでも、時々「期待しない」という誓いが揺らぐ日には、自分も知らないうちに骨張ったあの思い出を日が沈んで街灯がその光を代わるまで眺めてしまう。 そんな思いに浸っていると、風が吹き、何かが触れたような気がした。下を向くとメモに見える紙くずが置かれていた。持ち上げたらなんらかの住所が書かれていて、俺と同い年に見える女の子が俺をじっと見ていた。 「これ、君の?」 彼女に紙を差し出したら、彼女はそれを遠慮がちな態度で俺の手から取った。そして消えそうな声でありがとうございます、といって俺から離れていった。 そういえば、あの住所どこかで見たような…確か、俺が今向かってるセンターの住所だったような気がする。 ということは、彼女も俺と同じく心の中のどこかが壊れているのだろうか。と相応しくもない憐憫を感じた。 しかしすぐ首を横に振っていつもの自分に戻った。まあ、彼女のどこが壊れていようが、どうせ俺とは関係のないことだ。 大体、誰が誰を心配すると言うんだ。大きなお世話だ。そう思った俺はセンターに向かう足を急かした。  終業式の日、雪のせいで少しじめじめとした雰囲気の教室には、先生の最後の訓話が続いていた。 少し寂しそうな顔でさようならを告げる先生を後にした俺は、こんな時間なら誰もいないだろう、と思える時間帯にもう一度教室に向かった。  特に理由があったわけではなかった。誰かに会おうとしたわけでもなくて、強いていうなら誰とも会いたくなかったから学校に行った。 生き生きとした生徒でいつも活気溢れる学校は、いつでも大きな悩みや不安を忘れて笑い飛ばせる場所としてほとんどの生徒の記憶の中に残るだろう。 しかし、一人ぼっちの俺には、もう学校は楽しい場所ではなかった。 いつも、騒がしい雑音の中で一人で寂しさを噛み砕いた場所だった。 だから、とでもいうべきだろうか。誰もいない、静寂に包まれた学校に、一度だけ来てみたかった。  誰もいない学校は確かに寒かった。生徒で満ちた教室はどんなに寒い天気だろうと、いつの間にかほかほかとした空気を帯びていた。そんな温もりは、きっと温度計では測れない暖かさであろう。 そんな温もりの消えた空間で、俺はその日の朝まで自分の席だったところに座り、両手を固く結んで机の上に置き、透明な空に流れる雲をただ見つめていた。 俺はこの教室で一体何を得たんだろう。何の存在だったんだろう。こんな感想を分かち合える友達一人すらいないことに気づいてしまった。 寂しくない。怖くない。慣れてるから。自分に繰り返し暗示をかけてみても、心はすでに涙を流していた。捨てられたカッターが目に入ったのは、その時だった。    その日の夜、皿洗いをしていた途中、俺の袖が濡れるのを見た母が袖を捲くるせいで手首の傷をばれてしまった。 赤い糸のような傷が重ねているのをみた両親は、偶然できた傷という俺の言葉を聞き流し、次の日にすぐセンターに電話をかけた。 俺がこうなったのは全部自分たちの責任だと、親はそういった。明白に自分一人で沈んでいたのにもかかわらずに。俺は両親に相談の日程を告げられ、その日まで大人でも子供でもない曖昧なこの瞬間を無気力に過ごしていた。  降り積もった雪があっちこっち踏まれアスファルト色に染まった道を歩き、ようやくセンターについた。 相談の先生が出した設問の数百の項目にチェックをし、相談を受けた。先生はいい人だったかも知れないけれど、誰に相談を受けようが、別に役には立たないだろうと勝手に思い込んでいた俺は適当な感じで相談に臨んだ。 今すぐにでも帰りたかった。親にとぼけてゲーセンでもいくか、という考えが頭の中をいっぱいに満たす頃、相談室のドアが開け、一人の女の子がひそかに頭を突き出して中を覗いた。 よく見ると、さっき紙を拾ってくれたあの子だった。彼女はそっと頭を突き出したまま、俺と先生を見つめていた。 10分後に来てくれる?という先生の言葉に、彼女は無言で頷いてはドアを閉めた。それを聞いた俺は、後10分でいいか、とほっとしていた。 相談が終わり開放感を満喫しながらドアを開けるとずっとドアの前で待っていた彼女が驚きながらドアから離れた。 挨拶すべきなのか、一瞬迷ったけど、彼女がすぐ相談室に入ってしまったせいで結局俺はふらふらとセンターを出た。 人より駄目な人間だ、と判明されたような気分になり、実はみんな俺みたいに生きているんじゃないかな、というボロボロになった期待を捨てて憂鬱な気分で家に向かった。 それ以降、彼女に会ったのは偶然であった。俺に自虐的な意味としてなっていた自分の才能が、他の人と出会える機会になるとは思いもしなかった。 いつも静かな家でギターを弾くのってかなり迷惑なことなので、一時ギターに熱中でした時に俺は出来る限り静かな場所を探し回っていた。 昔よく星を見た空き地がセンターの近くであったため、相談を終えた俺はギターを担いで空きそこへ向かった。久々に誰も来ないこの空き地は、相変わらず残っているベンチだけがぽつんと残って俺を迎えてくれた。 ベンチに座りギターの弦を弾きながら、歌った。誰も来ないだろうと思いながらも、ギターの腕に比べれば俺の歌は冗談でも自慢できるようなものではないので、ただ呟くように歌う程度で済んだ。 その日は特にギターが上手くできて、俺はノリノリになっちゃって目を閉じてギターソロに熱中した。 最後を華麗に決めると、後ろからいきなりぱちぱちぱち、と小さい拍手の音がした。 驚いて後ろを振り向くと、俺から少し離れたところで女の子が立っていた。 どこかで見覚えのある顔だな、と彼女の顔を良く見ると、前に髪を拾ってくれたあの子だった。 俺の歌を聞いたんだろうか。そう思って顔が熱くなった。聞いたらどうしよう、という気持ちで彼女に声をかけた。 「い、いつからそこに?」 自分に聞いたのかって感じで彼女は人差し指で自分の胸元を指し首を傾げた。俺が頷くと、彼女は指を顎に乗せながら言った。 「ううむ…ギターの音が聞こえてきたから来てみたら、あなたがギターを弾いていたんです。」 妙に丁寧な言い方をしたけど、親しみのある口調だった。歌は聞いてなかったのか、とホッとして胸を撫で下ろした。 「ギター、上手ですね。」 彼女が褒めてくれたので機嫌が良くなった俺は、ギターに手をついてもう一度軽く弦を弾いた。 「好きな曲とか、ある?」 俺の質問に彼女の顔には少し困ったかのような表情が現れ、彼女は俺に恥ずかしそうに口を開けた。 「今まで音楽はあんまり聞いたことがなかったので…」 なんだか聞いちゃいけないことを聞いてしまった気がして、少し遠く流れる雲を見つめた。 「あ、あの。もしよろしければ…」 彼女が俺に再び声をかけた頃には、遠くから伸びてきた夕焼け色が彼女の黒いロファーの先に届いていた。 「ギター、もう少しだけ聴かせていただいてもよろしいですか。」 彼女がそう聞いて来た時、確実に感じられた。高校入学以来、初めて誰かに興味を持ったということを。 「タメ口でいいよ。年の差もあんまりなさそうだから。何歳?」 「18歳です。」 「俺と同じか。」 もじもじどうしたらいいか分からない彼女の目は、少し遠慮がちな態度とは裏腹に好奇心で満ちた子供みたいな感じだった。 「じ、じゃあ、ギターもう少しだけ聴かせていただいてもよろしい、いい?」 それ、ほぼ敬語じゃないか、とクスクスと笑いながらわかった、という意味で頷いてギターに手をついた。 「リクエストとか、ある?」 ううん、と彼女は首を横に振った。 「なんでもいいよ。」 「よし、じゃあそこに座って聴いてくれ。」 ベンチにしとやかに座って耳を傾けるたった一人の観客のために、俺はギターを必死で弾いた。 他の人に演奏を聴かせるのって、俺の音楽の趣向を剥き出しにするようでなんだかくすぐったかった。 俺の趣向の音楽を果たして彼女は好きなんだろうか。という心配は曲を聴いて明るく笑い拍手を送る彼女の姿に溶けるように消えた。 「わあ、いい曲だね。なんていう歌なの?」 首をそよがせた彼女は気になって仕方がないような顔を突き出して聞いた。 「実はこれ、自分で作った奴。まだタイトルはつけてないけど。」 頭を掻きながらそういうと、彼女は驚いた顔をした。 「すごい!自分で作ったりもするんだ。」 久々に楽しい気分でギターを弾くと彼女はメロディーを鼻歌混じりながら歌い始めた。 まるでガラスのように透明な声だった。小さい声で呟いても仕方なく注目を集める、そんな不思議な力を持っている声だった。 「……いい声だな。」 思いがそのまま口の外に出てしまって口を塞いだが、一度吐いた言葉を取り消すわけにもいかなかった。 それを聞いた彼女は、えっ、と少し間抜けな声を出しながら俺の方を見た。しまった、と思ったが、せっかく口に出したので、ちゃんと褒めることにした。 「いい声をしてる。お前。」 「そう?そういわれたのってはじめて。」 褒められるのにあまり慣れていないのか、彼女は身をねじった。 「私、歌った事なんてほとんどないけど…」 謙遜というよりは、多分本当にそうだったんだろう。彼女は地面に目をやりながら言った。彼女の声をもう少しだけ聞きたいのは、少し欲張りだろうかな。 「知ってる曲とかある?ギター弾いてやるから、歌ってみる?」 「ど、童謡ぐらいなら…」 「いいよ。弾いてやる。」 彼女は俺が弾くメロディーに恥ずかしがりながら歌い出した。そんなに楽しそうな顔もできるではないか。と彼女の顔をそっと見つめていた。 「あっ、もうこんな時間。」 歌に集中していたのか、彼女はふと思い出したか携帯をみて驚きながら席から立ち上がった。 「私ね、その…あなたも通っているセンターで住んでるの。門限が結構厳しいから、そろそろ帰らないと。」 ああ、そっか。そういえば、あのセンターで助けが必要なときセンターで泊まれるという案内ポスターを見たような気がした。 この子も、そんな部類か。急いで鞄を持ち上げる彼女につれて俺もギターをケースにしまって、二人で急いでセンターに向かった。 センター前まで彼女を送ってやると、彼女はありがとう、といいながら手を振ってセンターの中に入ろうとした。 「あ、あの」 普段なら絶対言わないようなことだったが、その日によって正体のわからない勇気が出せて、彼女を大声で呼んだ。自分が思ったことよりも遥かに大きな声で、少し困った気がした。 「よかったら、携帯の番号もらえるかな。」 俺の質問に、彼女は申し訳なさそうな顔をした。 「ごめん、携帯の料金切れてて使えないんだ…」 なんだか振られてしまったような気分になってしまった。そんな俺の表情を読んだのか、彼女は両手を振りながらポケットから携帯を出した。 「ら、ラインでもよければ…」 彼女はそういいながら俺に携帯を両手でぎゅっと握ったまま突き出した。しかしタイミング悪くバッテリーが足りなかったのか、携帯はラインのIDを入力する途中切れてしまった。 俺が残念そうに携帯を返すと、彼女は鞄からペンを取り出した。 「名前と、ラインのID手に書いてもらえる?」 彼女の手を軽く握り俺の電話番号とID、そして名前を書いてくれた。掌にペンが触れる感触がくすぐったいのか、彼女は少しびくっとした。 「氷室 翔?」 「翔でいいよ。」 翔、と彼女はすぐにでも消えそうな小さな声でそう唱えた。下の名前を女のから呼ばれるのってこんなにどきどきするものだったのか。 「あ、私の名前も教えてあげる。」 彼女はあえて俺の手を自分の方へ引き、同じく自分の名前とIDを書いてくれた。彼女の細くて小さい手は、真っ白で冷たくて、まるでふわふわな雪で作られたみたいだった。 春菜 菫。それが彼女の名前だった。春風のような暖かい名前。 彼女は目で笑ってはセンターのドアを開けて急いで中へ入った。菫が見えない頃まで見届けた俺も、白い息が舞い上がる道を歩いて家に帰った。
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