夏の日

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夏の日

 電車のドアが閉まる寸前、まだ顔に幼さを残す女性はホームへと降りた。別の車両からさきに降りた「彼」をすでに見失っていたが、行き先もルートもわかっている女性はとくに慌てることなく、真っ白な携帯端末をかざして改札を通る。  目指すは駅を出てすぐのところにある、カフェ『もりの鹿さん』。  今日はやっぱり、暑い。  空を見上げ、そう声に出さず呟いた女性こと椿(つばき)冬子(ふゆこ)は、中を確かめることなくカフェ『もりの鹿さん』の扉を潜った。こぢんまりとした、客もまばらな店内を不自然にならない程度に一瞥したあと、予想通り居た「彼」の斜め後ろの席へと座る。  間を置かずに店員が注文を取りに来た。 「この、うさぎとラズベリーの井戸端会議、のセットで」  まえもって調べていたため、こういった店特有の、ピンとこないメニュー名でも迷うことなく注文を済ませられた冬子だったが、問題はこのあとだった。 「このセットは飲み物を選べるんですよね?」  はい、そうですと答え、何になさいますかと尋ねてくる店員へ、 「紅茶なんですが、ホットで大丈夫ですか」  と言った。案の定、「え? ホットですか?」と店員が訊き返した。当然だ。セットで選べるものには温かいものもあったが、今日は今年一番の暑さになると朝のニュースで言っていたからだ。 「駄目、ですか」 「いえ駄目ではないですけど……本当にホットでよろしいんですね?」  怪訝そうな顔で念を押してくる店員に大丈夫ですと伝えると、さっと仕事用の顔に切り替えた店員は店の奥へと下がっていった。  ちらりと「彼」を見た。いまの店員とのやり取りに気付いた様子もなく、変わらず読書に耽っている。  良かった。この段階ではまだ認識されたくない。なら目立つようなことはできるだけ避けるべきだ、というのは頭では理解していたのだけれど。  視線のさき。「彼」が頼んだであろう飲み物のグラスは、大量の汗をかいていた。店内を一瞥したときにこれも確認していた。急に高くなった気温に対する店側の配慮なのか、飲み物はかなり冷えた状態で出しているらしい。これではただでさえあれなのに、ホット以外で注文できるはずがない。  結露。モノの面に水滴ができて付着すること。  それに掌で触れることが冬子にはどうしても、耐えられないのだ。 「お待たせしました。ご注文の、うさぎとラズベリーの井戸端会議です。それと……こちらのお飲み物は熱いので注意してください」  うさぎの形に焼き上げられ、ラズベリーのソースが掛かったパンケーキ。それと、白い湯気を上げたカップが置かれた。「ではごゆっくりどうぞ」と言うと、よくできた店員はまた店の奥へと下がっていった。  良かった。冷房の効いた店内に不釣り合いな、紅茶の湯気を見て安心した冬子は、出された料理を携帯端末のカメラで撮る――フリをする。  パシャリ。撮ったモノには、見切れたうさぎとラズベリーの井戸端会議と、「彼」の横顔がしっかりと映っていた。 「彼」こと新見(にいみ)虎太郎(こたろう)の追跡調査を開始して、四日目の昼下がり。冬子は、うさぎの耳にナイフとフォークを入れた。  紅茶は……当分飲めそうにない。
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