カランコエ

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本に空間が支配された教室を夕日が照らした。開けられた窓から銀杏の香りを纏った風が僕の鼻をくすぐる。 高校に入り念願の図書委員になった。というのも僕の中学では、1年生皆が何かしらの委員会活動に属する校則があった。皆が皆、図書委員活動の楽さを求めて争った。月1回の放課後1時間、図書室の受付に座り、貸出や返却の手続きをすればいいだけの業務で楽かもしれない。しかし僕は本が大好きで、楽さを求める他の奴らの不純に腹を立てたが、僕が図書委員に思う気持ちも他人が図書委員に思う気持ちも、どう思っていようが、図書委員になりたいら気持ちは一緒だ。勝負はじゃんけんで決められた。あの時チョキを出していれば……と未だに悔やまれる。 高校での春先、クラスで委員会を決める時は入学式当日なんかよりも緊張した。じゃんけんのデータもネットで調べ、そして僕の思いもあって、1手目はチョキを考えていた。取られてたまるものかと勢いよく立候補したが、幸い誰もこの委員会の魅力に気づいなく、用意していたチョキは陽の目を見ることなく終わった。考えてみれば、高校では委員会の数も少なく、所属義務はないから委員会に所属することを避けたいと思う奴が大半だ。もう一人の図書委員と、残りの文化祭委員、体育祭委員はクラスで2名ずつ、じゃんけんで負けた奴がしぶしぶ配属された。僕と一緒になった女子はすごく嫌そうだった。本を好きじゃない人間にあの最高な空間へ入ってほしくはない。さすがの僕もこの思いをストレートにぶつけられなかったから、本で学んだ巧みな話術で彼女の仕事も僕に全て任せてもらうことにした。彼女はとても喜んでいた。図書委員の魅力に気づかない愚かなやつめ。そう思っている。 そして毎日、図書室に通い、懸命に働いている。受付に入り、本の貸出状況の確認や手入れ、返却手続き、図書委員会だよりの執筆などやることは多いが、どれも楽しい。  他クラスの委員も、自分の担当の曜日には一応顔を出す。図書業務をサボってしまったら内申にも響くからだ。しかし受付に僕がいるのを確認すると皆帰っていく。こんなに楽しいことを僕にくれるなんて、願ったり叶ったりだ。司書の先生もたまにやってくるが、基本職員室で仕事をしているので、もはやこの空間は僕のものだ。 そうして毎日本に触れながら前期が過ぎ、後期最初の秋が来た。読書の秋と言われているように僕にとって毎年待ちわびている季節。 司書の先生から「読書の秋に因んで、コーナーを拡大して作って欲しい」と頼まれた。毎月、受付の隅で図書委員お薦めの本を1冊紹介している。と言っても毎月僕がお薦めしているから、僕のお薦めだ。そんなお薦めコーナーが今月は拡大される。僕は腕をふるって制作に入った。お薦めの本がありすぎて困る。受付スペースから考えて3冊が限度か、いや、2段にしたら…… 「あの……」 顔を上げると、ハーフ顔で金髪の少女がいた。本を借りにくる人なんてめったにいない上に美少女が来たからなおさら驚いた。そして初めて見る顔だった。 「本ってどう借りたらいい……?」 「あ、こ、これは……」 辿々しく貸出方法を伝えた。僕は所謂コミュ障というやつだ。残念ながら自覚している。ただ、本が好きな僕にとってコミュニケーション能力はさほど重要ではない。 「この本、面白いね」 そういう彼女が持ってきた本は、先月図書委員が、いや、僕がお薦めした『カランコエ』だった。 「あ、ありがとうございます……」 「君が推薦したの?」 「はい」 「素敵だね」 「……はい」 今日ほどコミュニケーション能力が欲しいと思った日はない。お薦めした本を読んでくれて、感想まで言ってくれる人間に初めて出会った。 「じゃあ、また」 そう言って彼女は図書室を後にした。僕に「また」だなんて言う人間も初めてだ。見たことのない本に出会ったときようなそんな感覚だった。 それから1週間が経ち、毎日コツコツと仕上げていたコーナーも出来上がった。土台もしっかりつくり、画用紙で紅葉や銀杏の葉を作り装飾した。司書の先生も大変褒めてくれた。一仕事終えたあとの読書は最高だ。僕は新作の文庫本を手にした。 「あの……」 聞き覚えのある声がした。顔を上げると1週間前に話した金髪の彼女だ。 「これ、また借りたくって」 前回借りていった月下の君を出してきた。図書の借出期限は1週間。まだ借り続けた場合は、一度返却をし再度借りると言う形をとる。 「あ……長いですもんね……」 カランコエは割と分厚い。読書好きな僕がそう思うのだから、一般的に考えたらかなりの長編だろう。因みにこの本は、旅人が世界中を周りたくさんの人と出会った思い出を綴った人情小説。上中下の三部に分かれているから、完読するのには時間がかかる。僕でさえ2ヶ月かかった。そんな本を高校の図書室でお薦めした僕もどうかと思うのだが、ただ読んでほしかった。この本は最新作でもないし、有名でもない。本棚を整頓していたら、たまたま1番下の段で発見した。少し埃っぽかったから、きっと何年も読まれずにいたのだろう。どこか運命を感じて読み始めたのだがこれが面白い。こんな本がベストセラーにもならず世に知られていないと思うと悔しかった。だから推薦したのだ。この狭い世界で薦めたところで世には伝わらないのだろうけれど。 「うん。でもすごく面白い。続きが気になっていつも寝不足なんだ」 でも一人の女の子には伝わったから、僕もこの本も少し報われた気がした。 そうしてまた1週間後、彼女はやってきた。彼女の名前は長月アリス。貸出カードに書いてあった。やはりハーフだった。いや、名前だけで判断するのもよくないが、顔立ちと外国風な名前から恐らくそうだろう。借りていく人間に興味はなかったから、今まで借りた人の顔も名前も覚えていないが、彼女は特別だ。カランコエの読者だから。 「やっと200ページ読めたわ!」 ということは、残り100ページぐらいだろうか。まぁ、あと二部あるし下巻は他の巻より少し分厚いからまだまだかかりそうだ。 「……これから楽しくなりますよ」 「そうよね! やっと序章が終わった気がする」 「……頑張ってください」 僕のコミュ障は一向に治らなかったが、人間とのコミュニケーションも悪くないと彼女が教えてくれた。そうして僕は彼女と話すひと時がとても楽しくなっていた。 そんな日々を繰り返し、冬休み前日。夏休みと違って課題も出されないから思いっきり読書にふけることができる。僕は休みに読む本を選んでいた。受付をふと見ると、彼女がいた。僕は急いで受付に戻った。 「あ、良かった。誰もいないかと思った」 「すみません……」 「冬休みの貸出はどうなるの?1週間超えちゃうよね」 「冬休み明けまで借りれます」 「そうなんだ!じゃあ、下巻も」 彼女は11月頃に上巻を読み終え、今は中巻の後半にさしかかっていた。僕は2冊の貸出手続きを終え彼女に渡す。 「休み中に読み終わるかな?」 「毎日……コツコツ読めば大丈夫だと思います……」 「うん、じゃあ読み終わったら感想言うね」 これほど嬉しいことはない。小さい頃、友人だと思っていた人たちに本を薦めても、序盤で飽きるか最初から読む気すら出してくれなかった。こんなにも素敵な物語があるのにそれを共有できないどこかろか、次第に友人たちは僕から遠ざかっていった。僕には本があったから寂しくもなんとも思わなかった。むしろやりたくもないサッカーや野球に参加させられずに読書に没頭ができたから都合が良かった。ただ本が馬鹿にされているようで、そこに悔しさや虚しさはあった。だから、こうやって共有できることがすごく嬉しい。 「はい……良いお年を……」 「うん、良いお年を!」 そうして僕は最高の冬休みを迎えた。朝起きて読書、昼食をとって読書、おやつを食べながら読書、夕食をとって読書、お風呂の中でもベッドの中でも読書。本を美味しく蝕んでいく。毎年恒例だ。でもそんな僕に1つだけ加わったことがある。長月アリスの存在だ。僕が本を読むにつれて、彼女はどこまで読み進めているのだろうと、ふと気になる瞬間ができた。僕の読書を妨げるやつは嫌いだったが、なぜか彼女は心地が良い。早く感想を聞きたい。今年は冬休みが早く終わって欲しい。いや、早く終わってしまったらきっと彼女は読破できないだろうから、それは撤回しよう。ただ早く知りたい。そうしたら、次は僕が彼女ために選んだ本を読んでもらいたい。きっと喜んでくれるはずだ。 こうして僕の冬休みは読書と彼女へ捧げて幕を閉じた。 始業式。体育館に全校生徒が集まる。僕は金髪を探した。彼女は2年生はだから体育館の真ん中あたりにいるはずだ。金髪なら絶対目立つはずなのに一向に見当たらない。もしかして遅刻か?しなさそうな印象だったが、人間見た目では分からないものだな。まぁいい、放課後の図書室で会える。  退屈な始業式と午前の授業を終えた。今日は午前中のみの登校だ。図書室もいつもより長く解放できるから嬉しい。彼女とも多く話せるだろうか。軽やかな足取りで図書室へ向かった。  受付に入り気合いをいれて働く。冬休み明けともあっていつもより返却された本が多いから非常にやりがいがある。僕は50冊ほどの返却手続きを済ませた。あとは棚に戻すだけだったが、彼女がいつ来るか分からないので受付を離れたくなかった。しかし図書委員としての任務を怠るわけにもいかないので、受付に近い本から返していった。彼女はなかなか来ない。だんだん受付から遠い場所の本になっていく。僕は1冊戻しては受付を覗き、また1冊返しては受付を覗く……この繰り返しで効率は悪かったが全部返し終えることができた。だが彼女は未だ来ない。僕は受付に入って、彼女に薦める本を読み直した。  それから20分ぐらい経っただろうか、ガラッと図書室の扉の音がした。彼女かと思い緊張しつつも平然を装い本を読み続けた。 「あけましておめでとう、今年も熱心ね」  そう声を掛けてきたのは司書の先生だった。僕はとてもショックだったが先生に悪いのでいつも通りに返した。 「あ……おめでとうございます……今年もよろしくお願いします」 「よろしくね〜。あ、早速悪いんだけどこれも返却しといてくれる?」  そう先生から渡された本は『カランコエ』の中巻と下巻だった。おかしい、この本は2冊置いていないはずだ。 「こ、これ、金髪の女の子が持っていませんでしたか?」 「そうそう、長月さんね。彼女、イギリスに引っ越したのよ。お母さんがイギリスの人みたいで。秋に来たばかりだったのにまた転校だなんて大変よね〜」 「そう……なんですね…」  先生が去ったあと、僕は本を1ページ1ページめくった。彼女から何かメッセージが入っているかもしれない、だって感想を言ってくれるって言ったじゃないか。そう期待したけれど、何も入っていなかった。よくよく考えてみれば、直接僕に届く保障なんてないからメッセージなんて入れられないだろう。彼女が僕に別れを告げる義務はないのだけれど、それでもカランコエを共有した仲じゃないか。急にいなくなるなんて、そんなの……寂しい。小さい頃、友人が離れていっても何も思わなかった。むしろ時間ができてよかったと思っていた。今回だって彼女と話していた時間も、彼女を思っていた時間も本に充てられるようになるからよかったはずなのに、何も嬉しくない。だがこれが現実なのだ。彼女のアドレスも何も知らない。知っているのは名前とカランコエを読んでいたということだけだ。ただそれだけの仲だったのだ。ただ、それだけなのに──。  でも1つ気づいたことがある。栞紐は背表紙の裏にきていた。きっと彼女は最後まで読んだのだろう。それが事実となるのか分からないが、そういうことにしておきたい。いつかまた出会ったら、あの日の続き話をしようじゃないか。  ──カランコエ、花言葉は「小さな思い出」
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