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火野くんは物の形を捉えるのがとても上手だということが、六月に入って周知の事実となった。
「今日は石膏を描いてみる? 火野くん」
春人先輩がゴゴゴと音を立てて、白い石膏像を取り出してくる。
「描くっす」
火野くんはスケッチブックと鉛筆を手に、石膏がある教室の奥へと足を進めた。
蘭は油絵の練習として、静物のデッサンを行なっている。
静物は、果物やボトルなどいくつかのオブジェクトを机の上に乗せて、それをデッサンするものだ。
とくに蘭は風景画が得意なので、物体のスケッチを強化したいらしい。
そして私は人物画をもっと上達させるために、蘭の姿を後ろからデッサンしている。
こんな風に、それぞれ好きなものを自由にできる環境はとても居心地がいい。
中学の美術部時代は、決められたデッサンの練習を行うしかなかったから。
「いい感じだね、二人とも。じゃあ僕は蘭を描いてる真彩ちゃんのスケッチしようかな?」
石膏像を出し終えた春人先輩が背後から現れる。
「えっ! 緊張しちゃうので、やめてください〜」
「でも僕人物描くの下手くそだからさ、練習したいんだ」
手を擦り合わせて頭を下げる春人先輩。
でも、人に描かれたことないもんなあ。モデルってやっぱり緊張しちゃうよ。
「じゃあ火野くんと一緒に石膏描いてください」
私の意思を汲み取ってか、蘭が振り向きもせずぴしゃりと言った。
さすがの春人先輩も、観念したように肩を落とす。
蘭、すごい。
「わかったわかった、僕は火野くんとおしゃべりするよ……」
ため息をつきつつスケッチブックを手にとって、春人先輩は火野くんの方へと帰っていった。
しばらくデッサンを続けていた蘭の手が、ふと止まる。
蘭は、聞こえないくらいの小さな音でため息をついた。
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