漆猫という人間

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「なぁ漆猫」  また呼ばれる。考えるのをやめ、見上げると、憂いのある趣でどこかを見つめている矢丞さんが視界に入る。 「どうしました?」  一度振り返ると、矢丞さんのくせに、朗らかな笑みを返した。不覚にも一瞬心臓が飛び跳ね、心が泣くことを忘れる。  乱れた心の状態は小さなことでも反応してしまうのに。矢丞さんは自由で、少し歩くと、腕組みをやめて手招きする。 「お腹空いた。はよおいで」  気の抜けることを、彼はよく言う。私がそんな気分じゃないことを知ってるのに。だけど、それが彼なりの心遣いなのかもしれない。重い足取りで矢丞さんの横に並ぶと、私の歩調に合わせて歩き始めた。  再び腕組みをした彼は、沈みゆく陽射しを受け、眩しそうに目を細めている。 「矢丞さんはなんで私の事気にかけてくれるの?」 「そうかー?楽しいからだけど」 「え」 「それに、危なっかしいんだよ」 「なんですか?もう一回…」 「精々俺のために働いてくれよー」 「ええ!?何でですかぁ」  結局、矢丞さんの真意は聞けず、だけど、足取りは軽くなっていた。たまには、いいかもしれない。この人になら、振り回されても。
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