01.双子座の満月

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01.双子座の満月

 このイージス図書館に来てからというもの、空を眺めるくらいの余裕が出来た。今日は満月だ。とはいうものの、別に何かを眺めるほど、風情を重んじる人間でもない。ただ今日は満月か。と思うだけだ。  それよりも今日はこれからが本番だ。俺は自分に与えられている、業務用の机の引き出しを開ける。そこには黒の革のアタッシュケースが入っていた。俺はそれを慎重に引き出しから出して閉めると、その場を後にした。  作業場代わりの閲覧室に赴くと、もうそこには同僚の姿があった。俺は軽く挨拶をすると、今日使う道具をアタッシュケースから取り出し、手入れをし始める。まさかこんなものをここで使うことになるとは思っていなかったが、メンテナンス代わりと思えば安いものだった。 「今日は満月だから、館長がいい獲物が引っかかるかもなと言っていたぞ」「は?」脈絡もなく話しはじめた同僚に俺は面食らった。 「だーかーらー、館長はそういう言い伝えのことをよく話すんだよ。お前もいい加減慣れろよ、これだから都会育ちのおぼっちゃんはな」 「それは関係ないだろ」  自分の出自なんて関係ないはずだ。特にここでは。 このド田舎にあるイージス図書館に来てからまだ半年だ。もう半年と言ってもいいかもしれない。   なぜなら俺はここに来る予定ではなかったからだ。以前の職場の上司を怒らせてしまい、ここに飛ばされた。つまりここに来るのは予定に全くなかったということだ。  と言っても、ここには俺を苛立たせる人間がほとんどいないということにおいてはとても良い環境だ。どうしても俺を軍人にしたがる父親も兄もいない。俺はもう軍人になる気なんてないというのに。全くしつこい。  家の跡継ぎには立派な兄が二人もいるのだからそちらに任せておけばいいだけの話だ。別に俺が何をしたって関係がないはずだ。こんな家督を継ぐこともない三男坊に何を期待して軍人になれと言っているのか、俺にはよくわからなかった。 「お前今日は稀覯本の近くのエリアだから、お前のその銃が必要になることはないと思うがな」 「そうか」  俺は布で手入れをする。しっかりと磨いて光が反射するように仕上げる。これから汚れるかもしれないが、 やはりこういう手入れは大切だ。俺の中での一種の儀式ともいえるかもしれない。そう思いふと、この迷信深い田舎に俺も毒されているなと、内心独りごちる。 「お前の自慢の腕のお披露目会とはならないぜ」  先ほどからうるさいこいつは、この田舎――スクブ出身の貴族だ。名をベネデット=ゴルディジャーニという。同い年で同じく家督を継ぐ立場じゃないという共通点からか、何かと話しかけてくる。  俺はあまり話すことが趣味ではないが、話は悪くはないと思う。多弁だが、余計なことも言わなければ聞いてくることもない。その点ではいい同僚だった。 「で? 何がいいたい?」 「俺さ、今日館外担当なんだよー怖いからさ、代わってくれない?」   前言撤回だ。こういったところが玉に瑕だ。この様子から見るに、半分本気、半分冗談といったところだろうが。怖いと言っておきながら、自分用の戦闘用の籠手やひじ当て、ひざ当ての手入れに余念がなく、慣れた手つきで最後の確認をしている。本当、話し振りだけでは人を判断できないといういい例になるのが、このベネデット=ゴルディジャーニという男だった。 「は? ダメだろ。規則だし。連帯するのにいろいろと困るだろ、人が変わると」 「いやーやっぱり真面目だなー」 「いや、それで被害が出たらどうする、お前も俺も困るだろ」 「まぁな、じゃ! 持ち場に着きますか!」   この様子だときっとこの本番を前にして、気持ちを落ち着かせたかった。というのがこの無駄な話の意味だったらしい。気持ちは分からなくはない。これから戦う――いや守らなければならないのだから、気持ちが逸るのも分かる。  俺たちは互いに防弾ジョッキ等に不備がないかを確認し、持ち場に着くことなった。   といっても、俺の今日の持ち場は、稀覯本が置いてあるエリアだ。閉架書庫の扉を守る手はずになっている。ここにはさすがに誰も来ないだろうと思われる。来るとしても、どこからか騒ぎが聞こえるはずで、準備する猶予はあるだろう。 俺は来るかもしれない侵入者に対して用意するため、深呼吸をして精神を落ち着かせる。   図書館には貴重な価値の本や文献が多い。このイージス図書館は、保存修復に特化した図書館のため、利用者を募っているわけではない。ただ修復、保存のためだけの図書館だ。   そういう目的のための図書館のために、利用者のマナーに困らない代わりと言ってはなんだが、困っていることがある。   そう、それは窃盗だ。   修復保存のために、様々なところから珍しい本が集まるこのイージス図書館には、国内外から修復や保存のために本が寄贈されたり、自分の家の蔵書の修復の依頼などがくる。そのため貴重な本も集まり易く、反社会的なやつらにもそのことが知れ渡っている。そのため図書館員が武装して、寝ずの番をすることもある。今日がその日というわけだ。   俺は拳銃のセーフティを確認し、ショルダーホルスターに仕舞って、シューティングゴーグルとイヤープラグをしっかりと装着すると、閉架書庫の前の指定の位置に着いた。  しんと静穏な音が響く。  この音を聞いていると、焦る必要がないというのに焦ってしまう。この一晩を無事に過ごせるだろうか? ふいに先ほど見た不気味なほど綺麗な満月が頭をよぎる。先ほど直に見たときは何とも思わなかったというのに、なぜ今になってそう思うのだろうか。   音が響いた。  俺の予感を裏付けるかのように。こつんという音がする。こつんこつんと何かを確かめるように、足音が響く。  この時間に見回りが来るだなんて聞いていない。俺は拳銃のセーフティを外して、銃を構える。 「誰だ!」   本当誰なんだ。ここは館内の真ん中だ。だというのに外から騒ぎが聞こえることはなかった。つまりこの足音の主に誰も気づいていないということだ。   誰にも気づかれることなく、ここに来ることなんて可能なのか?   いや、可能なのだろう、目の前にはその現実が迫っているのだから。 「いい匂いがするのね、よい知性の香りだわ」   俺の内心を裏切るような的外れのことをその声は言った。女の声だ。どこか楽しんでいるような、恍惚としたような、この場の雰囲気にそぐわない声に俺は動揺を更にあおられる。その動揺が、俺に構えていた銃の引き金を引かせた。   彼女の姿は見えないというのに放たれた弾丸は、なぜか音が鳴ることもなく、女の悲鳴が聞こえることもなかった。  にゅっと弾丸の方に女の手が伸びた。  曲がり角から出た青白く透き通る手は、弾丸を掴んだ。  女の手に包まれた弾頭は形を変えて、廊下の床に落ちた。  曲がり角から出た女の手は、更にその姿を現す。そしてこつんこつんと足音を響かせながら、俺の方へ着実に向かってくる。   白銀だ。俺は内心でそう叫んでいた。   女が身にまとう外套も、目に痛いほどの白さだが、その肌も負けてはいない。けれども俺の印象に残ったのは、月のような白銀の髪と、蜃気楼のように揺蕩う銀の目だった。  その目はひどく懐かしいと同時に、ひどくそそられる目だ。だが、それを悟られることがないよう、俺は拳銃を構えたままこう叫んだ。  「お前はなんだ、何しに来た」俺の声で女が止まった。もう、あと数歩で互いに触れられる距離まで女は迫っていた。武器を持っている様子はない。それどころか何も持っていなさそうだった。 「図書館にいるのにそんなことも知らないの? 貴方は。まぁそれはいいわ、名前は?」 「タレスだ」   なぜ正直に俺は答える? 俺は内心で自問自答した。女は君が悪いほどにこやかに微笑む。 「哲学者の名前だわ、これは期待できそうね。今日は貴方で我慢してあげてもいいわ」    彼女は俺が銃を構えていることを気にする様子もなく、更に迫ってくる。もう俺は閉架書庫の扉に背がつきそうなほどになっていた。  彼女の手が俺の手に触れる。やんわりと俺に銃を下げさせると、そのまま外套の上からは分からない、蠱惑的な体を押し付けてこう言ってきた。 「ねぇ、気持ちがいいでしょう? わたしにも頂戴?」 「な、何を言って」   彼女は銃を下ろしていない左手を添えると、にこやかだけれども妖艶に微笑んだ。唇に何かが当たっていた。彼女のなまめかしい舌は、予期せぬ衝撃に反応できない俺の唇に侵入して、歯の一つ一つを丹念に丹念になぞると、俺の口内もこれでもかと舐める。いや、飴でも舐めるかのように味わっているようにも思えた。   それも俺の頭をしびれさせるが、彼女の柔らかで女性らしい丸みを帯びた体は、俺の嗜好をくすぐるどころか、直接殴りかかってくる。今思えば彼女の姿は俺の理想の美女そのものだ。この色白の肌も、この弾力がある胸も自分のものにしたくなる。    だが、それよりも気になる点がある。彼女のあの銀の目だ。銀の目なんて今まで見たことも聞いたこともない。だというのにひどく惹かれるその目は、とても慕わしい。――慕わしい? 俺はそこでふと我に返った。彼女の舌や唇は俺の唾液や舌をこれでもかと味わっているようだったが、俺は襲いかかっている痴女から身を引いて、両肘を両手でつかみ、廊下に顔向けにし、動けなくした。つまり俺はこのいきなり襲いかかってきた痴女に馬乗りになった。  「おい、いきなり何をする」俺は意識して低い声で凄んだ。 「何って、あぁ、あなたまた半年だものね、ここに来たの。館長から教わらなかったことも意外だけれども、ある意味では収穫だわ、他に本の虫≪リベウォエッセ≫が来ていないって分かったのだもの」   彼女は先ほどの妖艶な笑みをどこかに置き去りにしたような、凍てついた目で俺を睨んだ。  つい先ほどまで俺の口内を味わっていた人物には思えない。俺はその打って変わった表情を、まじまじと見てしまう。そこで気付いた。彼女の目の銀色が常に銀色の湖面のように、比喩ではなく波打っていることに。   彼女は人間じゃない。そんなことにようやく俺は気づいてしまった。 「タレス=フラッツォーニ、200年は続くフラッツォーニ家の三男坊。代々軍人を輩出している家柄だが、本人はそちらの道に進む気はない。図書館に務めるのも動機はほとんどなく、軍人でないからといった要因が多い。半年前上司であるザンニーニ司書官に家柄を馬鹿にされたと誤解され、このイージス図書館に配属される」 「なぜ、それを知っている!」   淡々と情報の羅列を読み上げるかのように、俺の経歴をいいあげ、彼女は目をいたずらにきらめかせて、にやりと笑う。 「美味しかったわ、あなたの家の軍事機密は。機密の書庫は出来れば三重ロックの方がいいわ。あの古い鍵だけじゃあ、分かる人には分かるもの」 「だから、お前は何者だ! 人間ではないな!?」   実家の書庫の鍵の状態まで知られ、俺は心から動揺する。先ほどの動揺とは全く違う、心からの驚愕だった。その隙を彼女が見逃すわけもなかった。彼女は上体を起こし、俺の頬を撫であげる。その時、馬乗りになっていた俺の脚が彼女の足にあたる。彼女のその細さと冷たさが、やけに気になった。 「そう、気づいたのね、知識もないのに一目で分かる人間には久しぶりに会ったわ、そういう人、わたし好きよ。わたしたちの情報はこの閉架書庫の一番奥の左から四番目の書架にあるはずよ。場所が変わって無ければだけど」彼女は穏やかに微笑んだ。 「教えてどうする?」 「次会った時、合っているか教えてもらうわ」 「また来る気か、目的はなんだ」  俺は静かにそう睨んだ。彼女はそんな俺の様子が意外だったようで、不思議そうに目を丸くして破顔した。その表情に俺はまた懐かしさを感じる。この表情は一体どこで見たのだろうか。 「図書館員なのだから、そのくらい知っておきなさい。わたしに会うまでには知識を身に着けておくことね」   そう言い残し、彼女は湯気のように消えた。そこではたと気づく。あの目は死んだ俺の姉の目そのものだった。  
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