チカちゃんの思い出

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  たくさんの仲間に囲まれた私は、永遠とも思われた長い長い時間に眠る魂の記憶を、少しずつほどいていった。とある家族の三世代分の人生を見てきたけれど、一番心に残っているのは共に過ごした最後の人たち。 「……坊や」 私は彼のお祖母さんの代からこの東堂家にいた。もとはミッシェル、という名前だったのにいつの間にかチカちゃんとなっていた。私は彼のために押し入れから十数年ぶりに引っ張り出されたのだった。彼の家族はてっきり彼がおなかにいる時に女の子と思い込んでいたらしく、私を含めた、おもちゃやらお洋服やらは全て女の子用だった。 「見えなかったのよ……、足で」  そう言ってお母さんはよく苦笑いをしていたけれど、赤ちゃんは何を着ても本当に可愛らしく、私の靴をおしゃぶりみたいにしゃぶったって怒るような気持ちにもなれなかった。  私はこの赤ちゃんが好きで好きでたまらなかった。ぷくぷくした頬、まだ歯のない柔らかい口、ミルクの匂いのする小さな体。よだれでべたべたにされたって、勢いよくベッドから突き落とされたって、ちっとも悲しくならなかった。  少し大きくなって、彼は話せるくらいになると、彼は私とおままごとをして遊ぶようになった。彼は本当に賢くて、八百屋さんだったり、お魚屋さんだったり、何でもすることができた。散髪屋さんごっこで、私の髪の毛をベリーショートにしようとした時には流石に焦ったけれど。  彼は私のことを娘か妹だと思っていたらしく、お母さんとコンビニに行くだけの時も私を必ず連れて行って、挙句トイレに置いていかれたこともあった。小さな彼とお出かけするのはとっても冷や冷やしたけれど、その何十倍も楽しいと思った。  小学校に行くようになると、しだいに彼は私と遊ばなくなった。どんどん大きくなって、どんどん格好良くなって、嬉しい反面、少し寂しかった。私は彼の部屋の机の上にちょこんと座らされて、一緒にお出かけすることも無くなったし、話しかけてくれることも無くなった。彼のお祖母ちゃんだって、お母さんだって、そうだったから、いつか忘れられてしまうとは思っていたけれど、まさか七年程でもうその時が来てしまうなんて思ってもなかった。押し入れに入れられるのも、もう遅くはないだろうと思った。けれど彼は私を押し入れに入れはせず、時々思い出したように私の栗色の髪を撫ででくれた。それだけで十分だった。彼は心から優しい子だった。  それから少し経って、なんと彼は女の子を部屋に入れるようになった。東堂家は普通の家よりもどうやらお金持ちだった、というのもあるが、整った容姿から彼は女の子から相当人気があったようだった。そのせいで、あの頃の純粋さはもう無いに等しかったし、自分で自分を美形と称す、たちの悪いナルシストに育ってしまったけれど、どんなに女の子に気味悪がられても、私を押し入れにしまわなかったり、やっぱり優しい子には変わりなかった。  けれど、ある時から彼は女の子を部屋に呼ばなくなった。毎日見ていた手鏡も、枕元に置いてあった卑猥な雑誌も見なくなった。溜め息ばかり吐いて、元気な姿を見せることが無くなっていった。  ……何かあったのかしら。具合が悪いのかしら。お話して、元気にしてあげたいのに。  この時、私は初めて、自分が人形であることを恨めしく思った。お話したい、坊やとお話したい。一言でもいい。この唇が、この喉が、声を産み出せたら。  その時、ふとつかえが取れたように体中が軽くなって、どうしても言いたかった一言がぱっと体の外に飛び出した。 「どうかしたの」 「うおっ」  のろのろと制服から部屋着に着替えていた彼は、ネクタイ片手にびくりと体を縮ませた。それからきょろきょろと部屋を見まわして、何もないことを確認するとほっと胸を撫で下ろした。 「何だ、ファンクラブのストーカーかと思った……」  何よ、どうして気付いてくれないの。赤ちゃんの時からずっと一緒だったじゃない。精いっぱいの一言が彼の届かなかったことが、悔しくて、悲しくて、私は彼を見つめるというより、睨みつけてしまった。すると彼は私の視線に気づいたように私をじっと見て、私にゆっくりと近づき、私をそっと抱き上げてくれた。  何年ぶりかしら! 何年ぶりに私は坊やに抱っこされたのかしら! 「俺さ、好きな奴がいるんだ」  そう言いながら、坊やは私の頭にうっすらと積もった埃を払ってくれた。坊やの手はもう大人のそれと、ほとんど変わりないように思えた。がっしりしていて、とても頼りがいのある、大きな、それでいて綺麗な手。 「初めて見た時は、正直、可愛くない奴だと思った。女の癖にに俺より二センチも背が高いし、ほかの子みたいに媚も売ってこない。でも、時々照れたようにふにゃって笑うのがたまんなくて。ホクロも色っぽいし、手足も長くて。あと、髪の毛とかふわふわでいい匂いするし」  坊やの顔を見ると、とても幸せそうに笑っていた。……いや、あれはにこにこというよりにやにやね。鼻の下、伸びきってたし。 「俺のことを東堂ぉ、と呼ぶんだが微妙にのばす辺り、ズルくないか? しかも無意識でだぞ。くっそお、どうすればいいんだよ、チカちゃん!」  私をぎゅう、と思い切り握りしめた挙句、彼は叫びながら私を壁に投げつけた。そのまま床に落ちて、じーんと鈍い痛みが全身に走る。ねえ、坊や。あなたそんな乱暴な子じゃなかったわよね……?  彼ははっとしてすぐに私をもとの場所に戻してくれた。私の体はじんじんと痛んでいたけれど、坊やの少しだけすっきりした顔を見た途端、痛いことなんてすっかり忘れて万歳したい気分になった。坊やの力に少しでもなれた気がして、本当に嬉しかった。  私が坊やの恋人に初めて会ったのは、それから数か月後のことだった。 「チカちゃん、この子だよ。真紀ちゃんて言うんだ」  真紀ちゃんと呼ばれたその女の子は、ほんの少しだけ坊やよりも背が高かったけれど、坊やのお話通り、ホクロがチャームポイントの本当に可愛らしい子だった。なあんだ、坊やったら上手くやってるじゃないの。  二人は家で一緒に勉強したり、遊園地に行くようになった。キスはもう済んだのかとか、私だって女の子。色々知りたかったけれど、その時はただ、二人の成り行きを見守るだけにしようと決めていた。だって私が原因で喧嘩でもしてしまったら、そんなに悲しいことはないもの。  結婚式には流石に行けなかったけれど、二人で暮らし始めたマンションのリビングに、その時の写真は私の隣に置かれた。そこは陽がよく差す明るい場所だった。真紀ちゃんは私と写真が色あせてしまうことをいつも心配していたけれど、そんなことは私にとってはどうでもいい話だった。坊やとおなかが大きくなった真紀ちゃんの幸せそうな姿を、ここから眺めるのが大好きだった。本当よ。ほんとのほんとのほんとのほんとだったのよ。  その休日は些細なことで二人は喧嘩中だった。だから坊やは真紀ちゃんが買い物に行こうとしても、私の目の前のソファでふて寝して、しらんぷりをしていた。そのせいで真紀ちゃんはスーパーまで歩いて行ってしまったのだった。真紀ちゃんのおなかはもうずいぶん大きかったから、私はハラハラしながら玄関が開くのを待っていた。坊やも坊やで真紀ちゃんが出かけるなりソファから跳ね起きて、落ち着きなく貧乏ゆすりをしていた。しばらくして一本の電話が坊やの電話に入った。嬉しそうな顔はスマホの画面を見るなりすうっと消え、彼は強張った表情で電話に出た。 「はい。……はい。……真紀ちゃんが!? 分かりました、今すぐ向かいます!」  坊やは顔を真っ青にしてマンションを飛び出した。――それから長い間、私は一人で彼らの帰りを今か今かと待っていた。怖かった。ただ、今まで感じたことのないような恐怖が私を襲った。坊やたちに、二人に早く帰ってきてほしかった。   けれどやっと玄関が開いたのは二日後の真夜中だった。  ドアが開くと同時に聞こえてくる、いつもの元気なただいまの声は、その時聞こえなかった。ぎい、と力なくドアが開いて、電気も点けず、靴も脱がずに坊やはよろよろとリビングに入ってきた。真紀ちゃんは、いなかった。無機質な外の光に照らされた彼の頭はぼさぼさで、目元には酷い隈ができていた。ぼろぼろになって帰ってきた坊やは私を見るなり床に崩れ落ちた。 「お、俺の、俺の宝物が、真紀ちゃんの、おなかの子が、し、死んじゃった、俺の、俺のせいで、真紀ちゃん、事故に、真紀ちゃん泣いて、た、俺の、お、俺のせいで、俺が、真紀ちゃんの、友達に、嫉妬な、んて、す、るか、らあ! うっ、ああ、真紀ちゃん、ごめん、ごめんね。ごめん……」  流す涙ももう残ってないのか、坊やは胸元を押さえて苦しそうに呻いた。私はただ、助けてあげたかった。私も死んじゃいたいくらい悲しかったけど、坊やはその何千倍も悲しんでいると思ったから。背中を擦ってあげたかった。心の傷に、そっと絆創膏を張ってあげたかった。少しでいい。この夜だけでいい。この腕が、この体が、動いたら。私が、人間の女の子になれたら!  すると錆びた機械に油が刺されたように、体中が軽くなった。いや、それだけじゃない。私は窓ガラスを眺めた。目の前に十歳くらいの女の子がうっすら映っている。やっぱり私、人間の女の子になってる!  私は坊やに目をやった。疲れきっていた坊やは、床に倒れ込むようにしてうとうととしていた。私はそっと近づいて、彼の背中を優しく擦った。 「坊や。私も悲しいわ。私も……」  そう言いかけて私は涙を流した。頬が濡れる感覚は、気持ちが悪いものだった。 「……チカちゃん?」 「ええ、そうよ。よく分かったわね」 「ピンクのドレス着てたのと、そのフリフリの帽子で」  私は涙を拭って、坊やに笑いかけた。 「あなたがあんまり心配だったから、人間の女の子になってしまったわ。おどろいたでしょう?」 「いいや、そこまで」  まどろんだ調子で坊やは言った。 「まあ、どうして?」 「ずっと昔……。あの時に聞こえた声の正体は、チカちゃんだろう。……だから」  私は思わず彼を抱きしめた。心が裂けてしまいそうなほど悲しいのに、嬉しくて、幸せで涙がまた溢れて止まらなくなった。 「ずっと味方だから。大好きな坊や。だから、ね。お願い。お願いよ。幸せになって頂戴な」  坊やが完全に眠りについた後も、私は坊やを抱きしめ続け、子守唄を歌い続けた。  私の体は朝になるまでに戻ってしまったが、寝起きの坊やが私を見て微笑んだのを見た途端、名残惜しさは消えていった。  真紀ちゃんと坊やは結局その後、もう子供は作らなかった。けれど二人は年老いた後もずっと仲睦まじく暮らし続けた。二人はずっと寄り添い合い、真紀ちゃんが亡くなった数週間後、後を追うようにして坊やも亡くなった。これが、今までのお話。そして私も今から二人の後を追う。供養されるのだ。  ねえ、坊や。私、あなたや、真紀ちゃんに出会えて本当に良かった。苦しいこともあったけど本当に幸せだったわ。でも、もし次生まれ変わったらね。  あなたの、本当の、お姉ちゃんになりたいなあ。 「チカお姉ちゃん、どうかしたあ?」  突然泣き出した私を見て、西洋人形を抱えた弟は、心配そうに私を見上げた。私は彼の頭をそっと撫で、微笑んだ。 「ううん、何でもないわよ。さ、絵本の続きを読んであげる。お人形は神様にお祈りしました。私を人間にしてください、と……」
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