夜更けの雨に金魚は泳ぐ

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夜更けの雨に金魚は泳ぐ

初めてこの地を踏んだ時、柴田は空を見上げた。高さが違うのは、遮るものがあるからだと。それでも空の青さは変わらなくて、泳げそうなほどだだっ広いのも変わらなかった。手を伸ばしても届かないそれは、まるで自分の中に生まれ持っている本質のようだと思った。  柴田が自分の偏りに気付いたのは、物心ついた頃だった。自分が同性しか愛せない事実を知った時には愕然とした。小学生の頃、同性が着替えているのを見て居た堪れなく思ったこと。目を逸らすようにして、それでも尚見ていたこと。幾つになっても変わらなかったそれを認めてしまった時、何かの間違いであることを心底願った。違うそうじゃない、何度否定しても根本が変わることはないと認めてしまった時、もう諦めてしまった。世の中には自分と同じものを抱えて生きている人間が大勢居るという話は至る所に溢れていたし、インターネットを覗けば拓けた場所がたくさんあった。もういいや、と思った。  高校生になった時、柴田は自分が親友だと思える人物と出会った。彼は、山崎圴といった。ただ信頼出来る、ただ笑って話せるのは彼が初めてで、山崎に柴田は、自分が同性愛者であることを伝えた。勿論あっさりと言葉が出て来た訳ではなく、随分と長い間考えて悩んだ。せっかく出来た親友を失いたくないこともあったし、ゲイであることイコール目の前にいる同性全てが、恋愛の対象という偏見を否応無く受ける恐れもある。異性に対して好みがあるように、同性愛者だって同じだ。山崎を信頼していた。親友だと思っている。だからこそ、それを真近で感じるのはきっと耐えられない。彼がそんなことを思うはずがないと考えながらも、万が一を想像すると怖かった。もし山崎もそうなら、きっと柴田は愕然としてしまう。失望することはないにせよ、山崎が自分という人間から離れて行ってしまうのが怖かった。そう、ただ怖かっただけだ。柴田が彼に伝えられたのは、高校三年になったばかりの頃だった。放課後、誰も居なくなった教室で、校庭からは野球部の声が聞こえていた。キャッチボールをする掛け声が、窓硝子を通して柔く感じるのは、自分が緊張しているからか。それほどあの日は、耳の外に膜が張っているようだった。山崎は柴田の告白に最初目を見開いたものの、あはは、と笑った。そうだと思ってた、言ってくれてありがとう。山崎はそう言った。どうして?  柴田が問うと彼は、だって翔ちゃんはいつも女の子の話になると愛想笑いするだけだったでしょ? それだけじゃないけど僕に何かいつも言いたそうに見えたから。続けて言う山崎に柴田は目を伏せた。涙が出そうになるのを、どうにか堪えた。そしてその後、僕も翔ちゃんと同じ大学に行こうかな、と言ったのだった。どうして? また柴田は同じように、同じ口調で聞いた。心配くらいさせてよ、山崎はそう続けたのだった。  北関東の田舎町から二人で出た時、向こう側にはどんな世界が待っているのだろうと思った。何があるのだろう、と。手を伸ばしたあの日が晴れていたことで、何かが開けたような気がした。同時に失うものも見付かるのかもしれないと、相反する心緒が交錯する。  学内で伊藤と擦れ違うことはほぼない。当然だった。まず学年が違うし、彼は四年生だ。今まで真面目に講義を受けていれば、ほとんど大学に来ることはないだろう。飲み会は別として。もっとも彼が今まで、真面目に学生生活を送っていたかどうかも、柴田には分からない。連絡先とアルバイト先を辛うじて知っている程度だった。その上彼が、柴田をどう思っているかも、柴田には分からないままだった。彼のアルバイト先であるコンビニエンスストアで伊藤の連絡先を聞き、いつ連絡したらいいかと問うたものの、好きな時にすれば? と彼は言った。好きな時とは?! と口をぱくぱくと開けたのだがそれは空気を吸い込んで吐き出すだけにしかならなくて、間合いの取り方が掴めない。何しろ柴田には初めてのことだったからだ。学内の学食で柴田は、スマートフォンを見詰めた。連絡帳を開いて、未だに一度も連絡もしたことのない名前を出した。うーん、と唸ってから、目の前の唐揚げ定食にようやく手を付けた。一口食べるも、あまり美味しくない。それはこの土地に来て知った。だって美味くない、飲み会の時に食ったよく分かんねー料理も全部。柴田にはどうしても、この土地の食べ物の味が舌に合わなかった。それでも残すことは憚られ、唐揚げを口の中に放り込んだ。白飯も一緒に入れると、まじー米だな、と思った。 「なんつー顔してメシ食ってんだ、てめーは」  伏せていた顔を上げると、アルバイト先と連絡先を辛うじて知っている人が立っていた。驚いて目を瞬きさせると、彼は柴田の前に座った。どうも、と言うと伊藤は、おー、と間延びした声を出した。 「来てたんだ」 「たまにはな」  放り込んだ唐揚げを咀嚼するも、やはりそれは、美味しくなかった。 「つーかお前、何だその顔」 「メシが不味いんです」 「あ?」 「米も不味い」  柴田は水を飲んだ。 「お前グルメか何かか?」 「ちげーよ。舌が肥えてんの」  地元のメシは何でも美味かった。呟くように言うと、彼はただ、ふーん、と言うだけだった。 「そうかもなー」 「何がっすか」 「お前、舌は敏感だもんね」  言っている意味が最初は分からなかった。が、考えていると段々と理解出来て来た柴田は、目の前に居る伊藤の肩の辺りを殴った。いてっ、と言う彼に、うるせー、と声を出した。 「あんたおっさんかよ」 「よく言われる」 「誰に?」 「今まで付き合って来た女の子」  柴田は口をあんぐりと開けた。 「ぶっ殺してやろーか」 「はいはい嘘だって、ごめんごめん」  小さく舌打ちをすると、伊藤は笑った。笑った後で彼は、頰杖を付いた。そうして次は目を外に向けた。この大学の学食は、コの字型で窓硝子に覆われている。自然と太陽光が入る仕組みになっていて、そこは好感が持てた。例え食事に満足出来なくとも。今日もまた、あの日のようによく晴れている。この土地に初めて足を踏み入れた日のように。柴田も外を眺めた。植えられた木と芝と、人工的に造られたものの筈なのに、それがこの大学にはよく似合っている。 「明日は雨なんだってよ」 「え?」 「お天気おねーちゃんが言ってた」 「何すかそれ、タイプなんすか」 「いやー、俺もっと巨乳が好み」  貧乳はなー、伊藤はまだ外を眺めている。すみませんねおれは巨乳でも貧乳でもないし男だし、ついでに言うとこの人は紛れもないノーマルで、あの時のたった一度のあれは気の迷いかもしれなくて、と思考が往来するとどうしても、考えあぐねる。今のこれに名前も付けられないし答えも出せないから持て余してしまう。 「食ってやるよ」 「え?」 「不味いんだろ?で、お前は講義サボれ」  は? と聞いた頃には既に、唐揚げ定食の乗ったトレイは伊藤の手元に引っ張られていた。柴田はそれを、黙って見ている。箸で掴む一口分が大きくて、それはすぐに放り込まれた。美味いも不味いも言わないその口は、酷く潔いように見える。別にこの人は何も考えていないのかもしれない、と思わせるには十分過ぎた。潔くて機転が利いて、簡単に柴田を恋に落とした。初めて会った時もそうだった。新歓コンパで彼は、柴田の斜め前に座っていた。飲み会もアルコールも勿論初めてで、柴田の、おれ未成年、という常識はそこには存在しなかった。当然ノンアルコールもあったし、飲まなくても良かった。飲まなくてもいいよ、と言われた上で、参加を決めたのは柴田だった。同級生でも勿論飲まない人間も居たし、飲んで騒ぐ人間も居た。柴田は単純に楽しめると思ったのだ。田舎町では味わえなかった高揚感や、疾走感が欲しかった。それを真っ先に気付いたのが伊藤だった。おい未成年、小ジョッキにしとけ、と。斜め前に座っていたその人は、すっきりした目元が印象的だった。ただ、伏せていてはっきりしない。印象だけが残り、真意はよく伺えなかった。伏せていた目を上げて自分を見たとしたらこの目はどうなるんだろう、と柴田は思った。だから自分が彼の背に乗っていると気付いた時には、強く力を込めていた。伝わるように、いや伝わらないように。伊藤の首筋から、嗅いだことのない匂いがした。これが煙草の匂いだと気付いたのは、彼の背で揺られてからしばらく経った後だった。柴田の脳裏には、居酒屋の美味くも不味くもない料理に文句も言わず、黙々と口を動かしている伊藤の姿があった。一口が大きくて、よく食べて飲む人だと思った。この人とキスがしたい、とただ思った。  目の前のトレイに乗った皿は空になっていた。あっさりと食べ尽くされていた定食は、彼に掛かるとこうも簡単なのかと柴田は思った。行くぞー、とまた、伊藤の間延びした声が、耳の先を通る。  大学から出た伊藤に柴田は、どこに行くのかと聞いた。すると彼は、ラーメン、と一言だけ言った。塩味噌醤油どれがいい、と聞かれたので、醤油だと言った。彼はもう、何も言わなかった。着いた先は、一度だけ来た伊藤のアパートだった。何? と聞くと、ラーメン食うんだろ、と言った。割と大きく後退ると、お前は分かりやすい、と言う。伊藤は前を向いて、柴田など見ずに階段を上がった。どうしてこうこの人はいつも自分勝手、息を吐いて、柴田は階段から目を逸らした。何故か今、大口を開けて食事をする伊藤を思い出した。潔い、その言葉が脳裏を過る。  アパートの中は、以前来た時と大差なかった。適度に散らかっていて、適度に片付いている。畳には物は置いていないのに、テーブルの上は雑多な状態だった。座っとけ、彼は言った。言われたように座っていると、物が邪魔だった。リモコンとパソコンと教科書と、卒論の準備があるのか、様々な資料と思しき本が散らばっている。それを見ていると柴田は、今日会えたのは本当にたまたまで、そうそう会えることはないのだと知った。自分か伊藤が意味を持って連絡をしない限りは。その時、狭い台所から、嗅いだことのある匂いが漂った。これ、と思ったのだ。すると少しして、どんぶりが運ばれて来る。 「ほれ、スペース空けろ」 「は? 何でおれが」 「ラーメン作ってやったろうが」  言われて渋々空けると、柴田の前にどんぶりが置かれた。いい匂い、とただ思った。 「サッポロ一番は大概誰も好きだろ」  柴田は伊藤を見た。こういうのずるいだろ、口を噤んだ柴田は、一緒に置かれた箸を持った。いただきます、と言うと、はいどうぞー、と彼は柴田を見ずに言った。それから無言で食べ、数分で食べ終える。終えた時に自然と、はあー、と声を出していた。美味かった、と思った。 「美味かった。ごちそうさまでした」 「次はお前、勝手に自分で作れよ?」 「次?」  伊藤の目を見て疑問を投げると、数秒間音が無くなった。柴田はただ、次があるのかと純朴に投げ掛けただけだった。会話が止まるとも思ってなかったし、音が消えるほど見詰められるとも思っていなかった。あ、どうしよう。柴田は思った。伏せていた目を上げて自分を見ると、あの目元はこうして真っ直ぐであるのだと、初めて知った。逸らして逃げ出したいのに逸らせない。瞬きをした。何度も何度もして、やはりどうしても目を逸らせないから伊藤を見詰めたままでいた。少しだけ指を動かしてみる。簡単に動いたから次は、その指を伊藤の方に寄せた。小さなテーブルの斜め向かい側は、簡単に届く。そうだ、簡単だったんだ。電話をしたければすぐに掛けられたし、会いたければここに来ることも出来た。アルバイト先に行くことだって簡単だ。簡単だった。それをしないだけだった。柴田は伊藤の、手の甲に触れた。筋が浮き出たそれが珍しくてなぞると、その手を捉えられた。引っ張られ、髪の毛を掴まれる。引き寄せられるのを抗うことなど出来る筈もなく、従うように抵抗もしなかった。キスがしたかった。この人とずっと、キスがしたいと願っていた。ストロベリームーンを見た時、今日ここに伊藤が居ればいいと祈りにも似た気持ちであのコンビニエンスストアのドアを跨いだ。おれは浅ましいし無知でもないんだ本当は、好きになったら手に入れたいしその続きだって欲しい。だからもう、今この瞬間だけでもこの人が手に入るなら別に、体なんて幾らでも差し出してやる。  引き寄せられてそのまま口付けを受けながら、柴田は伊藤の言葉を思い出した。お前、舌は敏感だもんね。そうかもしれない、今更気付いた。入り込んで来る舌にも唇にも、びっくりするほどの快感が抜ける。こんな感触があることも知らなかったし、この続きが欲しいと思うことも知らなかった。その口を見て、あの人が食事をする姿を見て、こんな不味い物をよく食べられるな、と感じたのは嘘じゃない。今その唇は、柴田を食べている。 「お前のそれ、計算?」 「は? 計算って」  計算なんてする余裕なんてあるか。 「まあいいや。はい脱いで」  はい?! と抗議するように言うと、まあどうでもいいや、と構うことなく彼は続けた。着ていたシャツのボタンを外され、肌に直接唇が当たる。うあ、と勝手に上がる声に柴田は、またよく分からなくなる。この人は巨乳が好きで、貧乳が嫌い。自分はそれ以下だ。好きだとも何も言われないままことが進んで、今現在に至る。伊藤の手は無い胸の辺りに触れていて、なぞられ、覆い被され、組み敷かれ、畳の上で行為は進んで行く。脱がされたシャツはどこかに放り投げられ、ベルトに手を掛けられ、勃ち上がった性器に触れられ、もう引っ切り無しに声が上がる。どこかに俯瞰した自分が居て、こんなみっともない声が何処から出るのかと問うた。紛れもなくそれは自分の口からで柴田は思わず自分の掌で口を塞いだ。それを伊藤は退けた。勿体無い、と彼は言った。可愛い、となんと突飛なことまで口に出した。この人までイカれちまったのかと。じゃあもういい、と思った。手だって退けるし、声だって出す。こんな行為初めてだし、そんなのこの人にはお見通しだろう。もういい。それでもいい。今、今この瞬間だけでも恋に落ちてくれているならそれでいい。  柴田は伊藤の首に腕を回した。太腿に彼の勃ち上がったものが当たる。これで十分だと思った。セックスが味気なく不味いものだとは柴田にはとても思えなかった。だってこうして今、伊藤は柴田の体を美味しそうに食んでいる。首筋も耳も二の腕も唇も、上がる声にさえ彼は、可愛いと言う。これが美味いものではなかったら何だと言うのか。柴田は伊藤を好きだった。無精な物言いも遇らうような態度も、それでも良かった。 扱かれて呆気なく出た液体を、伊藤が自分の指に巻き付けたように柴田には思えた。息が上がっているから分からなかった。後ろに伊藤の指が触れた時、柴田は息を飲んで目を閉じた。 「雨、降ったろ」 柴田は伊藤の声に目を開けた。窓は開いていないしカーテンも閉じている。今が何時なのかも想像が付かない。あれから何度も、果てるまで抱き合った。痛くて苦しかった行為が段々と快感に導かれ、ああこんな感じ、と彼は言った。柴田は伊藤に最初、大丈夫なのかと問うた。あんたはノーマルなんだからおれで大丈夫なのか、と。が、彼は酷くあっさりしたものだった。大丈夫大丈夫、と言った。呆然としたのもあったし、驚いたのもあった。だけれどその後口を噤むと、喉が詰まった。あんたにとってこれは、そんなに簡単なものなんだ、と。簡単に飛び越えられるものなのかと思うと、飲み込んだものがやけに塩っぱく感じた。 雨音が聞こえている今の時間は何時か。うとうとしながら起こされてはセックスをして、また少しだけ眠る。繰り返された行為に身体中が痺れて怠い。後ろから抱き竦められるようにされていて、上手く身動きが取れなかった。時間を見ようにもスマートフォンを見る手も動かせない。 「今、何時?」 「さあ、どうでもいいだろ」 「よくねーよ」 夜はきっと更けた。それも多分越えている。静けさが朝に近いように思う。明け方の、じんわりとした色が、カーテンのほんの少しの隙間から伺えた。 おれのこと少しは好き? それとも恋に落ちてる? 聞きたい言葉は山程あった。口は付いているのに声にはならなくて、ただ可愛いと愛でられた声で鳴いた。これが計算と言われたらそうなのかもしれない。だってそうしたら、少しの間くらいは一緒に居られるだろ? 誰も永遠なんて言っていないし思ってもいない。どうせあんたは離れて行くんだから。 自嘲でも諦観でも何でもない。これは紛れも無い現実だ。だから今だけ、今この一瞬だけ。柴田は窓硝子に手を伸ばした。青空も見えない雲が掛かっているだろう空に、見えない空に向かって。夜更けの雨に手を伸ばし、柴田は今この一瞬を泳ぐ。 終わり
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