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今日もまた、母親から連絡があった。先日自宅に帰った時は会えなかったから、らしい。いやいやそれ自分のせいだろ、伊藤は口の中で呟いて、はいはい、とあからさまに怠惰な様子を露わにして電話口で返事をした。結局あの日は、兄と終電に間に合うまで飲み、いつも住んでいるアパートの方に帰宅した。その後彼から連絡が来たのだが、結局母親が帰宅したのは明け方だったらしい。勝手さと奔放さが、兄と酷く似ていた。もっともそれは、自分にも言えることなのだが。 アルバイトを終えた伊藤は、先日と同じように自宅アパートまでの道程を歩いた。だらだらと、サンダルを引き摺るように歩いた所で、目的地にはすぐに着いてしまう。ほらもう、見上げた先は高校を卒業するまで住んでいた市営住宅だ。このアパートが築何年かなんて伊藤は知らないし、興味もない。エレベーターも無くて階段をひたすら上る。とはいえ、三階建ての二階にある部屋なので、さほど疲れもしない。建て付けが悪くなって来ているのか、ドアを開けると徐に大きな音がして酷く軋んでいることだけは分かる。時間は午後九時を回った所だった。ただいま、自分でもぼんやりとした口調になったと思う。誰かに聞こえていてもいなくても、今はどうでも良かった。すると奥から、ひょっこりと顔だけが出て来る。それは、久々に顔を合わせた伊藤の母親だった。 「おかえり」 靴を脱いで玄関を上がり、伊藤は彼女を見遣った。今の彼女はテレビの方に顔を向けている。煙草を手に持ち、時々グラスに口を付けていた。いつも家で飲んでいる安物のウィスキーを今日も飲んでいるのか、グラスを回すとからからと回る氷の音が聞こえる。彼女の横顔はテレビを見ているようでもあったし、見ていないようでもあった。要は所在無かった。男に振られたな、伊藤はただ、そう思った。 「帰ってたんだ」 そのことには一切触れず、伊藤は単純な会話をしようと試みる。彼女の斜め向かい側に座ると小さく、うん、と言った。もっともすぐにそれは、振り払われることは分かっていたけれど。要するに、これが理由で呼び出されたのだ。くっだらねえー、伊藤は苦笑したくなるのを堪える。俺も飲みてーなー、と台所に目を向けた。先に座るんじゃなかった、と。母親はまた、グラスを回してそれから口を付ける。彼女の仕事は、スナックの雇われ店長だった。だから帰宅は遅いし、伊藤がこのアパートにまだ住んでいた頃でさえ、あまり顔を合わさなかった。それでも、誰かの所に泊まる場合にだけ連絡がある。高校生の頃もそうだった。もう要らねーよ、伊藤はあの頃、電話口でその言葉を何度も飲み込んでい た。 「若い子にね、任せて来ちゃった」 お店、最後は呟くように彼女は言った。そして続けた。 「あんたご飯は?」 「食って来た。コンビニの余った弁当」 「そう」 そしてあからさまに溜息を吐く。俺からは聞かねえぞめんどくせえから、伊藤は母親から顔を背け、煙草に火を点けた。吸い込んで吐き出すと、室内で煙が揺れる。不規則に動く紐のような動きだった。 「耕史郎聞いてよ、振られちゃったの!」 自分から聞かなくとも無意味だ、伊藤は今度こそ、あからさまに大きな溜息を吐いた。 「今年に入って何人目だっけ」 「忘れた」 「忘れる程度なら大丈夫だ。どうせまた来週には新しい男作ってんだろ」 立ちあがり、伊藤は台所に向かった。グラスを取り出し、冷凍庫を開けて氷を入れた。それからもう一度母親の斜め前に座って、彼女が飲んでいるウィスキーを注いだ。一応話を聞く体制を取っている自分に自然と溜息が漏れる。 「あんたってほんと冷たいよね、別れたあの人そっくり。顔も似てくるし、もう嫌!」 「へーへー、すみませんね」 「悪いと思ってないでしょ」 「あのなー、このやり取り何回目?数えたくもねえよ」 「だってえ……」  次はむくれたように口を尖らせる。それからテーブルに突っ伏した。少しだけ酔っているのかもしれない。はたまたそれさえも演技なのかもしれない。世間的にはこういう武器を使う女性がいいのか、伊藤にはよく分からなかった。ただ、分かっていながらも男は、そういう部分に弱いのだと思う。計算された行動にも騙された振りをして、そして互いに騙された振りをする。最初から分かっているくせに。伊藤は煙草に口を付け、吸い終えたそれを灰皿に押し付けた。少しずつ解けた氷がグラス内で多少揺れる。  そういえばあの男もそれなりにモテそうだ、伊藤はコンビニエンスストアで立ち読みをしていた男の後ろ姿を思い出した。見栄えのいい顔と少しだけ小柄な印象を持つあの男が、何をどう転んだのかゲイなのである。人の性癖に難癖を付ける気は毛頭ないが、伊藤が計り知れないほどの苦労をしただろう。だからこそ、最初からああして跳ね除けたのだ。その筈だった。だった、けど。自分も誰某と同じように、ただ分からない振りをしているだけなのかもしれない。洗濯物の乾いた匂いが濡れた肌の匂いに変わったのは、雨のせいではないことだけは、片隅の方で理解している気はした。理由は知らない。何となくだ。 「しかしまあ、そんな簡単に人を好きになれるもんかね」 「何言ってんの? 好きじゃないよ」 「は? じゃあ何で落ち込んでんの。意味分かんねえよ」 「好きになれないから落ち込んでるの、息子の顔見て実感してることに余計腹立ってんの」  伊藤は流石に、母親の言っている意味が分からなかった。黙っていると、伏せていた顔を上げ、彼女は伊藤を睨んだ。 「顔が見たい、キスがしたい、触りたい、声が聞きたい、匂いが好き。他にも色々。恋かどうかなんて今更分かんないけど、そういう風に思えたのは、あんたのお父さんだけよ」  彼女の言葉に、伊藤はぎょっとした。その表情に唖然として声が出なかった。唾を飲み込んだ所で母親が目元を緩めて笑ったので、そこで緊張が解ける。 「何つーか、ご愁傷様」 「うるさい!」  母親に肩の辺りを軽く叩かれ、伊藤は苦笑する。彼女はまた、グラスに口を付けて今度はちびりと傾けることはせず、首を思い切り反らせた。彼女は水割りで飲むことはしない。常にロックだ。だからあの度数のアルコールをあの調子で飲めば、喉が熱いだろうに。それでも伊藤は、落ち着けよ、とは言えなかった。 「ねえ、そういえばあんた、彼女居るんだって?苺の匂いがする女の子だって真二郎が騒いでたよ」 「相変わらずお喋りだな」 はっと吐き出すように伊藤は笑った。 「で、で、どんな子?可愛い?ちゃんと避妊はしてるんでしょうね?」 言われると思った。質問責め。ここに居ない兄に対し伊藤は、舌打ちしたくなる。 「もう、ないと思う」 「何で?別れちゃった?」 「あんた知ってるだろ?甘いもん嫌いなんだ」  伊藤が言うと彼女は、目を伏せて笑った。そして、乾杯しようよ、と息子を巻き込んで飲もうとする。昔っからとんでもねえ母親だった、彼女とグラスを合わせながら伊藤は過去に記憶を馳せた。  伊藤は母親の過去をあまり知らない。父親の顔も覚えていないし、そもそも一緒に暮らしていたかも不明だ。だからどんな人間で何をしているのか、何も知らなかった。幼い頃一度、自分の父親がどんな人間なのかが単純に気掛かり、たった一度だけ聞いたことがあった。お父さんってどんな人? と。そう聞くと彼女は何冊ものアルバムをテーブルの上に並べ、言ったのだった。そん中から探してみな、と。当てたら教えてあげる、彼女はそう言った。伊藤はその時、探すことを辞めた。教える気がこの人にはないんだ、その時そう感じて、聞くことさえ辞めてしまった。母親はその後荒れた。見知らぬ男性を夜中に連れ込んでは、行為に及んでいた。それは酷い有様に見え、嫌悪感しか生まれなかった。それが何ヶ月も続き、一年近く経っていたかもしれない。その度に伊藤は、二つ年上の兄真二郎と外に出た。近所の公園まで二人で歩いてベンチに座り、ジュースを飲んだ。その金は、母親の財布から盗んだものだった。そんな深夜の公園で過ごした時間を伊藤は酷く楽しんでいた。こんな時間にこんな場所で、と自問自答しながらも、普段は飲めないジュースが飲めるから、と自分を正当化して楽しもうとする。そうだ、あんな光景見るもんじゃないし聞くもんじゃない、と。兄とくだらない話をする中で段々と、これが非常識だろうが常識だろうが世間の評価はどうでもいいとさえ思った。何故なら今の自分がこの状況にいるからだ。  それからまた数日か数週間か、とにかく幾日かが経った頃、その日も以前と同じ男性だったか違う男性だったか、どちらかは分からなかった。ただ男性が部屋に居た。それが兄に手を挙げた。正確には伊藤を庇った兄に男が手を挙げた。理由は何だっただろうか、邪魔だった、その程度だったと思う。伊藤はこの時知った。誰かに庇われるのも誰かを庇うのも真っ平ごめんだし、自分の身は自分で守らなければならないことを。伊藤は自分を抑制することなく、その男を殴った。とはいえ、子供の力が大の大人に効く筈がなかった。だから敢えて急所を狙って突くように殴り、股間を思い切り蹴り上げた。男が悶え苦しむ様を確認してから台所へ行き、包丁を取り出して男の喉元に突き付ける。「 殺すぞ」一言だけ静かに発すると、男はしばらく固まった後、引き摺る体で逃げ出した。喉元に血が滲んでいたことを、伊藤は未だに覚えている。鮮明な赤だった。全ての思い出は灰色でぼやけているのに、その赤だけはしっかりと、今も尚色付いている。母親はその一部始終を見ていた。  その後、新しいアパートに引っ越し、真面目かどうかは分からないけれど、母親は今の職に就いて働いている。少なくとも、家に男性を連れて帰り、行為に及ぶことは無くなった。それでも、帰宅しない日は多々あった。鍵はちゃんと閉めといてね、出掛ける時に必ず言う言葉はこれだった。そして今、現在に至る。母親のことを、伊藤は嫌いではなかった。かといって好きかと言われたら分からない。親としてはろくでもない方だと思っている。大人ではあるけれど、一人では生きられない人なのだと。それでも、自分が知り得ない父親のことを、未だに恋い焦がれていることに関しては、少なくとも嫌悪感は抱かなかった。あの人も寂しいんだろうな、まるで他人事のように傍観している自分が居た。  伊藤は母親と酒を酌み交わしながら、柴田からする匂いを思い出した。それは以前感じた乾いた匂いだったのか、それとも濡れた匂いだったのか、伊藤にはよく分からなかった。ただ、柴田の匂いが鼻の奥に残っていた。嗅覚が効かなくなったのか味気ないウィスキーの味が、喉を通過する。 「もう行かないと思う」 「どうして?」 「ごめんね」 「逆に聞くけど、わたしのどこが好きだったの?」 「紙の感触が好きな所とか、作った栞をずっと使ってる所」  体の感触が柔らかい所もしっとりした肌も好きだったし、感度がいい所も性に対して奔放な所も嫌いじゃなかった。けれどもそれらは決して、キスがしたいとも触れたいとも、全く別物のようだった。母親の言っていたあの感情は、もっと即物的で、だけれど酷く不安定でもあって、曖昧なくせにその実ずっと体の隅の辺りに巣を作って残っている。なんて根強い。そう思った。きっとこんなもの違う。 「じゃあ、どこが嫌だった?」 「匂い」 「え?」 「甘い匂い、苦手なんだ」 「伊藤くんは何の匂いも残さなかったね。煙草の銘柄もいつも違うし、いつも匂いが違った。きっと匂いを思い出すことさえ許してくれない」  そうだっけ? と言うと、そこにさえ興味ないのね、と息を吐かれた。 「ぶん殴っていいかな」 「どうぞ」  ばちん、と盛大な音がした後、彼女は去った。悪いな、とは思ったものの、こんなもんかな、とも思う。伊藤は今日コンビニエンスストアでアルバイトの日だった。彼女がこの日ファミリーレストランでアルバイトの日だということを、伊藤は知っていた。だからその前にと、彼女の通り道で、誰もが通る歩道で、待ち伏せしたのだった。通行人が居なかったことが不幸中の幸いなのか、それもまたどうでも良かった。ただ、今の自分の顔がどうなっているかは分からないが、とりあえず接客業向きでないことだけは分かる。コンビニエンスストアに着いたら、救急箱を借りようと決めた。  アルバイト先に着き、裏口から入った。暇なのか、店長の高橋が休憩中のようだった。救急箱借りるよ、そう言うと彼は、吹き出して笑った。伊藤さん女に殴られたの? と。彼は何故か、伊藤より年上なのにもかかわらず「伊藤さん」と呼ぶ。それはずっと以前からだった。伊藤も一緒に、はは、と軽く笑って流し、ロッカーの上に雑多に投げられている救急箱に手を伸ばす。鏡を見ると、思いの外腫れていた。少しの間冷やして、叩かれたと同時に爪が当たっただろう箇所に大きめの絆創膏を貼った。これで客が不自然には思わない筈だ。もっとも、喧嘩をしたという程度のことは分かるだろうけれど。それから店の制服であるシャツを羽織った。見慣れたブルーのストライプだった。 「お、今日はストロベリームーンだって」 「え?」  着替え終えて、暇なら自分も煙草を吸おうと、口に咥えた所だった。高橋は新聞を読んでいて、ちょうど記事に載っていたらしい。 「恋が叶う、だったっけ?」 「伊藤さん詳しいね。誰に聞いたの、そんなロマンチックな話」 「今日振られた女の子」 「虚しい博識っすね」  笑う高橋を見て、伊藤も苦笑した。咥えていた煙草に火を点け、吸い込んだ。今日の銘柄は赤のマルボロだ。嫌いではない味だった。匂いさえ残さない、銘柄がいつも違う、そんな言葉を残した彼女に、ストロベリームーンの話を聞いた。彼女は今日がストロベリームーンだということを、きっと知っていただろう。お先―、高橋にそう言ってから煙草を灰皿に押し付け、伊藤は先に店内に入った。明るくいつも通り有線が流れているここは、いつも同じ匂いがする。外を眺めると晴れていて、陰りも少なかった。きっと今夜は、星も月も綺麗に見られるに違いない。  柴田とは以前このコンビニエンスストアで会ったあの日以来、特に会話を交わすことはなければ会うことさえなかった。ただ時々、伊藤の脳裏に、柴田の匂いが脳裏を過ぎった。鼻先ではなく、何故か脳の裏だ。彼の一瞬の匂いは、酷く残った。  その日のコンビニエンスストアも、午後八時前後は暇だった。ぽつりぽつりと現れる客を接客し、時々陳列棚を整理する。高橋は勿論自宅に戻っていて、伊藤ももうすぐ上がる時間だった。何気なく外を眺めると、柴田が通り掛かるのが見えた。一度立ち止まり、夜空を仰いでいる。しばらくの間立ち止まっている彼の姿をレジから眺めながら、きっと月を見ているのだろうと伊藤は思った。すると自動ドアが開いた。彼を見て一言、いらっしゃいませ、そう言った。柴田は店内を物色するでもなく、一直線にレジに近付く。しかも早足だ。足音も大きい。えらい今日は騒がしいな、伊藤は珍しいものでも見るように柴田が近付いて来るのを眺めている。 「見ろよあれ!」 「急に何」 「月がでっけえ!」 「だから何」 「貴重だろ、ちょっと見ろって」 「いいよ俺は。仕事中」 「いいから」  柴田はレジの奥に居る伊藤の制服を引っ張る。つんのめる体に、仕方ないとレジを出た。強引な行動を取るくせに、その逆柴田の表情は安堵しているように見えた。どこか釈然としないのに、彼の行為に納得している自分もいて訳もわからず頭を掻いた。こういう、答えの出ない矛盾は苦手な分野だ。伊藤はそのそのまま柴田に腕を引っ張られ、店の外に出た。ほら、と大きな目を輝かせるようにして夜空を指差す柴田の先を見上げると、本当に月が大きく見えた。 「お前と見るとは思わなかった」 「何の話だよ」 「ストロベリームーンって知ってるか?」 柴田は黙った。見下すと彼も、伊藤を見上げている。 「知らない」 「だろうな」  恋を叶えてくれる月、小さく言うと、柴田はまた、何? と聞いた。目が合った。生温い湿度のある風が、匂いを運ぶ。湿度の高さで掻いた汗の匂いか、単にTシャツの匂いか、伊藤はもうどちらでも構わなかった。今度は伊藤が、柴田の手首を握った。その腕をぐっと引っ張り、そのまま裏口に向かって大股で歩いた。柴田は沈黙したまま、引き摺られるように付いて来ている。裏口を開け、柴田を放るように中に入れた。従業員が使う休憩室であるそこは、酷く雑多で様々な匂いが入り混じっている。煙草の匂い、誰かの着替えの匂い、まだ捨てていないゴミの匂い、小さな部屋にそれらが充満する中、柴田の匂いだけが際立って分かる。伊藤は一つ舌打ちをした。ロッカーに柴田を叩き付け、強く手を置いた。がたん、と大きな音が、狭い室内に響く。 「何その絆創膏」 「殴られた」 「苺の女の人?」 「ご名答」 「良かったね」 何でだよ、伊藤が失笑すると、柴田も目を伏せて笑った。 「本当は知ってる」 「何を?」 「ストロベリームーンの意味」 恋を叶える月、柴田が伊藤を見上げて言った。ぐらりと目の前が揺れる。掛け時計の音が、妙に大きく聞こえた。チクチクチク、と規則的に毎秒毎秒進む。見上げる柴田の目は答えを求めるようでもあったし、求めていないようでもあった。それ以前に、他人の本質なんてものに他者が口を挟むべきじゃない。少なくとも自分はそうやって生きてきた。なのにどうして。答えの出ない矛盾は苦手な分野だ、眉を顰めて一瞬だけ目を閉じ、ロッカーに置いていた手を下ろした。 「あんた、おれが気持ち悪いんだろ?」 伊藤は口を噤んだ。 「おれがゲイだから」 伊藤はまた、頭を掻いた。答えの出ない矛盾は苦手な分野なんだけどな、と言い訳のように頭の中に並べながら、深く息を吸って吐いた。それから柴田の胸倉を掴み、自分に引き寄せる。その匂いが欲しい。直接食らい付いてやりたい。彼の首元に顔を寄せ、唇を這わせた。ちょっと何で、彼は小さく言った。それはあっさり無視を通した。柴田の上擦った声が聞こえ、背筋が騒ついた。これだけじゃ足りない、伊藤は柴田の唇を噛んだ。その唇を舐めて、口付けた。応えて開いた唇に舌を入れ、掻き回した。柴田の手が、伊藤の体を押した。その手を強く掴んで拒絶を抑える。柴田の手の力が曖昧になって来た頃、伊藤は彼の手から自分の手を離し、柴田の体を探った。乱れる呼吸と柴田の匂いと、汗で濡れたその肌の匂いと、その全てが伊藤の脳に焼き付いた。客が来るかもしれない、それもどうでもいい。今この行為を止める訳にはいかない。伊藤は柴田のパンツのベルトを外し、手を突っ込んだ。びくりと一瞬震えた彼の体は無視して、勃ち上がったそこに触れた。ちょっと待った、と諫める声が聞こえるも、聞こえない振りをする。柴田は伊藤の肩に手を置いた。力を込めて握った。その震える指先に情が湧く。可愛いって思うのはこう言う時? と、普段なら考えもしない自分の馬鹿げた思考に笑いそうになった。柴田の爪先が、服越しに食い込んでちくりと痛みが走る。爪痕が残ると思った。それもどうでもいい。何でもいい。伊藤は柴田の肌の至る部分を舐め、噛んで、その匂いを嗅いだ。また口付けて舌を入れて濡らして、彼の性器を扱いて。口の中から聞こえる甘ったれた声に欲を燃やして、あーあもう出た、と揶揄するように伊藤は笑った。睨み付けて見上げる柴田の目は、抗議なんて滲んでもいない。 「可愛い顔するんだな」 「馬鹿にしてんだろ?」 「まさか。本心だよ」  嘘吐き、柴田は呟くように小さく言って、目を伏せた。それでも手を伸ばすので、伊藤は応えた。この体を掬うように抱き締めると、また彼の匂いが焼き付くほどの匂いが脳に残る。  伊藤は柴田と見たストロベリームーンを思い出した。恋を叶える月だそうだ。そんなもんクソ喰らえだと伊藤は思う。今のこの行為が、恋から来るものかなんて分からない。寧ろ恋じゃなくて構わない。母親の言うような、一瞬を切り取ったような美しい記憶にならなくてもいい。  ただキスがしたい。触りたい。二人きりになりたいし、セックスをする時はどんな顔をするのか見てみたい。こうして挑んでおいて、もしも万が一俺じゃない誰か他人にこうして知らない顔を見せるのも嫌だ。この感情に名前が付けられるのかどうかは分からないけれど、今、今この瞬間、俺はこうしたいからこうしてる。柴田の匂いを思い切り吸い込み、伊藤はもう、言い訳にすらならないと思った。こんな場所で、誰にも見付からないように、しかもいつ誰が来るかも分からないここでした行為を。 「なあ、もう一回。もっとしたい」 「お前あれだね、結構奔放だね」 「何だよ、嫌い?」 「いや、嫌いじゃない」  心得ている、伊藤は笑いたくなった。蒸し暑い小さなこの部屋で、誰がいつ来るか分からない緊張感が、より一層欲を誘った。でもそれ以上に、恋かどうか分からない今の衝動を伊藤は、この匂いを思い出す度に、乾いた匂いと濡れた匂いが横切る度にきっと、今の光景が脳裏に浮かぶ。それ以上の扇情的な性行為がこの先存在するのか。 顔が見たい、キスがしたい、触りたい、声が聞きたい、匂いが好き。こいつも同じならいいのに。恋じゃなくてもいいし叶えてなんて要らない。ただ同じならそれでいい、伊藤は柴田に口付けながら、そう思った。 終わり(次ページの番外編へ続く)
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