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「ストロベリームーンって知ってる?」 「あ?何だそれ」 「恋を叶えてくれる月、だって」 「へえ」 聞けばそれは、ネイティブ・アメリカンによって名付けられた、アメリカ圏の六月の満月の呼び方だそうだ。スプリングの効いたベッドに俯せになり、両肘を付いて伊藤耕史郎を見る二つ歳上の女性は、いわけない表情を見せる人だった。顎のラインで揃えられた髪の毛が、口元に掛かっている。指先で拭うように触れると、擽ったいのか、ふふ、と軽く笑う。心得ている女だと、単純にそう思った。揺れる髪から、嗅いだことのある甘い香りが鼻先を掠めた。彼女からはいつも、この匂いがする。 彼女とは、少し前までアルバイトをしていたファミリーレストランで知り合った。フリーターらしい。詳しくは知らないし、外で会ったこともない。会うのはいつも、彼女の部屋だった。伊藤はもう、そこでのアルバイトは辞めてしまった。今は、コンビニエンスストアで働いている。それでも変わらず、互いに休みの日が重なった日に時々、共にベッドで過ごす。柔らかくて感度が良くて、触れると捩るその体は、伊藤の欲求を満たしてくれていた。素性も何も知らない彼女は、酷く物知りだった。伊藤が知る気もない人生経験と、女性だけが持っている特有の感性の違いだろうか。それとも、本棚にずらりと並ぶ文庫本が、彼女の教養になっているのかもしれない。初めて彼女のアパートに来た時、まず目に付いたのが本棚だった。今まで文字に対して特に興味を持つことはなかった伊藤は、その並んでいる本の数に圧巻した。好きなの? そう聞くと彼女は端的に、うん、と答えた。何が面白いんだ? 素朴な疑問で問うと彼女は言ったのだった。紙の感触。なかなか好感が持てる回答だったので、伊藤は本に手を触れた。一冊取り出して、紙を捲った。俺には分かんねえや、と笑うと、そうだね、と彼女も笑った。ぺらぺらと本を捲ると、栞の部分で自然と動きが止まる。挟んであるそれは押し花が付いたものだった。小学生の頃に作ったの、彼女は言っていた。何枚も栞を作り、それを何冊かに挟んでいるらしい。それを今も大切に使っているのだと。叙情的なことを言っていたかと思えば次に口から出た言葉は、否定しようもない正統な誘い文句だった。 伊藤くん、早くしようよ。 ぎょっとしたものの、据え膳食わぬは何とやら、その柔らかくてしっとりとした体を抱いた。彼女は他に、きっと付き合っている男性が居る。伊藤は甘ったるい鳴き声を漏らす彼女を見下ろしながら、何気なく確信だけはしていた。それが始まりだった。 彼女の部屋を出て、夜の空を仰いだ。満月に程遠いそれは、まだ三日月程度だった。ストロベリームーンは月の温度が低いことから赤みを帯びた温かい色合いだと言われているけれど、そこまで赤くはならないらしい。今まで月に意味を持ってして眺めることはしなかったから、赤も青も御伽噺に出て来る黄色であることもよく分からない。駅までの道を歩きながら、原付で来れば良かった、などと考えた。首に纏わり付く湿度が鬱陶しくて、軽く首を掻いた。不意に、彼女と同じ甘い匂いが過ぎる。そうだった、帰る前にシャワーを浴びていたのだった。それが一層怠惰な足取りを誘い、途中右方向に見える今のアルバイト先のコンビニエンスストアにまで、溜息を吐きたくなる。今日は休みだった。だから素知らぬ顔で素通りしようとすると、見知った後ろ姿が自動ドアから出て来る。それは、サークルの新歓コンパで酔い潰れた後輩だった。あいつもここに来んのか、そう思った。思ったのだけれど、特に親しい間柄でもなく酔い潰れた挙句アパートに泊めた相手というだけだったから、声を掛けることはない。その横顔を眺めているだけだった。が、彼の方が気付いてしまう。少しだけばつの悪そうな表情を伊藤に見せ、彼は会釈をした。 彼は柴田翔と言った。飲み会とノートの貸し借りというテニスもしない名ばかりのテニスサークルの新歓コンパに、何故柴田が参加したのかは知らない。想像するに伊藤と同級生の誰かが、まあまあ入らなくてもいいから飲み会だけおいでよ、と誘ったまま参加したに違いない。一緒に参加していた友人らしきメガネくんも同様に。その日柴田は、見事に潰れた。柴田を可愛い可愛いと愛でるように品定めする、彼にとっては歳上のお姉様達に散々勧められ、これ甘いよジュースみたいだよー、可愛い柴田くん可愛い、と彼を囲む女共を伊藤は、テーブルを挟んだ斜め前から見ていた。こりゃ潰れるぞー、と他人事のように焼酎を飲みながら眺めていると、終いに彼はトイレに消えた。帰って来ないことを誰も気に留める様子はなく、仕方なく自分が席を立った。案の定、トイレのドアの前で座り込んで眠っていて、こりゃだめだ、と息を吐いた。おーい、と一応声を掛けてみるものの、当然返答は無い。もう一度、今度は深々と息を吐き、伊藤は柴田の腕を掴んで立ち上がらせた。完全に力の抜け切った体は酷く重く、重力の強さを思い知る。掴んだ手を無理矢理肩に掛け、引き摺るように歩いた。未だに騒々しい宴会場に、伊藤は声を掛ける。こいつ連れて帰るぞー誰だ未成年潰したヤツは、知っているくせにわざと揶揄するように言うと、酔っ払って可愛さの欠片も無くなった女達は、ごめんねー柴田くん可愛くて、とけらけら笑った。すると一緒に来ていたメガネが立ち上がり、すみません僕が、と言ったものの本人も足元がふらついていたので手で制した。万札を二枚彼に渡し、伊藤は柴田を連れて出た。外に出たものの、ずっと引き摺って歩いて後から文句を言われても面倒で、仕方なく背負うことにした。おも、と自然と口から出るものの、まだ返答は無い。おーい、家どこだ? と呟くように言うものの、やはり応えない。もういいやめんどくせえから俺ん家で、伊藤は息を吐いた。重い、下ろしてやろうか、と考えていた所で、首元に掛かっていた手に力が籠もるのが分かった。起きたなら歩け、と伊藤が口から出す前に彼は言った。「すんません」と。そしてまた、手の力を強めた。絞めるほど強くされ、一瞬足が止まる。それでもう、何も言わずに伊藤はまた歩き出した。ちょっとやべえ奴拾っちまった、と頭の片隅に過ぎる。不意に、アルコール以外の香りが柴田の腕の辺りから通った。洗濯物が綺麗に乾いた太陽のような匂いだと、伊藤は思った。 翌朝、放置された畳の上で、彼は目を覚ました。ベッドは貸さない。当然だ。柴田は瞬きを何度もして、辺りを見渡した。寝癖も付け、明らかに寝覚めは悪そうだった。伊藤は既に起きていて、煙草を吸っていた所だった。すみません、と訳も分からない様子で言った彼の目が、ばつが悪いようなそれでいて熱の籠った瞳の潤んだ状態に、伊藤は言った。俺には可愛い彼女が居ます、と。嘘を吐いた。正確には彼女ではなくセックスフレンドだ。すると彼の表情は一変する。「ナメんじゃねーよてめえ」そう言って立ち上がって部屋から出て行った。それ以降は知らない。 柴田はコンビニエンスストアのドアから離れて立ち、伊藤が近付くのを待っていたようだった。距離が狭まると一層、彼の居心地の悪そうな様子が伺える。 「どうも」 居心地悪けりゃ無視すりゃいいだろ、と思ったものの、不本意でも何にせよ一度は面倒を掛けさせたからか。基本的に真面目な人間なのだと、伊藤は頭を掻いた。 「どーも。何してんだ、こんなとこで」 「何って普通にコンビニで買い物くらいするんですけど」 「あっそーですか」 じゃあな、伊藤はそう言った。が、それを引き止めたのは柴田だった。何、と聞けども目を逸らすだけだ。 「あんたは?」 「あ?」 「どっか行ってたんすか」 「あー、ダチん家の帰り」 伊藤は一度柴田の前で立ち止まり、それから歩き出すと、彼もまた付いて歩く。駅まで近いしな、そう思った。きっと互いにまだ、距離感が掴めない。隣に並び歩くと、視線を感じる。柴田が伊藤を見上げ、じっと見ていたからだ。 「何?」 「いや、別に」 「まあいいや。大学はどーよ」 「あー、うん、まあ」 「そりゃ何より」 見下ろして笑うと、柴田は酷く曖昧な表情をしていた。多少の違和感はあったものの、特に彼とは親しい間柄でもなかったから、伊藤も気にしなかった。後は駅まで、くだらない話をする。あのサークルはテニスしたことねーぞ飲み会ばっかだ、と言うと、数回目を瞬きさせて柴田は笑った。歯を見せた幼い様子に伊藤は、いわけなく笑う歳上の彼女を思い出した。こいつがあどけないのは当たり前だ。まだ一年だからだ。伊藤は一人俯いて、分からないように苦笑した。急に夜空が気に掛かる。見上げると当然変わらぬ三日月で、ストロベリームーンって知ってる? と転がるような甘ったるい声で、伊藤に聞いた彼女を思い出した。 駅まで同じようにくだらない話をして歩き、構内で逆の路線だということが分かった。俺こっちだから、と言って上り線の階段を上がろうとすると、なあ、と背後から声がする。 「あんたのダチん家って、苺の匂いすんの?」 一段上った所で振り返ると、柴田はじっと伊藤を見据えている。目を逸らさず、捉えるように強く。彼のその瞳に伊藤は、何か得体の知れない塊のようなものを感じる。子供じゃない、年下じゃない、いわけなく笑うなんてとんでもない、射抜くように見ているのだ。その正体は掴めない。 「は? 何それ」 「気付いてねえんだ。じゃあ、さようなら」 踵を返した柴田の後ろ姿を見送りながら、苺の匂い、と反芻する。あーあーそういう、伊藤は彼女の柔らかい体が、苺の香りで充満していたことを思い出した。と、同時に、酔っ払った彼を背負った時に香った、洗濯物が綺麗に乾いた太陽の匂いも蘇る。香りってなんだっけ? 伊藤は駅構内の階段を上りながら考えた。ああそうだ、また、物知りな彼女の言葉を思い出したのだった。 『簡単に言うとね、海馬って呼ばれてる器官があって、そこに記憶を短期記憶として保管するの。でね、何度も思い出すような情報は、海馬に長期記憶に変換されるってわけ。五感の中で嗅覚だけが、海馬に直接情報を送ることが出来るんだよ』 匂いが脳に情報を送るのなら俺はあの匂いをずっと覚えてんのか厄介だな、伊藤は見えなくなった柴田の後ろ姿を思い出しながら、触れた香りが鼻腔を擽った気がした。デニムのポケットに手を入れ、階段を上る。上り線の電車が来るまで、もう少しだ。ホームに立つと、線路の向こう側に下り線に乗る柴田の姿が見えた。彼も伊藤を見付けたようで、会釈をする。特に表情を変えることなく仏頂面と言えばその類の顔で、けれどもその逆、下げられた頭はどこか親密さを匂わせる。仕方なく伊藤もポケットから右手を出し、その手を上げた。もっともそれはすぐ、またポケットの中に収められたのだけれど。 その時、電車が通る。目の前で停まる。通り過ぎた風は六月の湿度を帯びた空気の筈なのに、あの時の洗濯物の乾いた香りが、また鼻腔を擽った気がした。伊藤はそれを、初夏の匂いだと思った。 帰宅すると、奥から「おかえり」と聞こえる。古いアパートの狭い居間のテーブルに肘を付き、顔だけを玄関に向けた。狭い廊下とも言えるか微妙な通路からでも、その姿は見えた。二つ歳上の兄だった。彼は、テーブルに焼酎の瓶とグラスと乾き物を置いていた。 「ただいま」 「耕史郎、お前も呼び出されたクチ?」 おー、伊藤は間延びした声を出し、台所に向かう。自分も飲もうと、グラスを取り出した。冷凍庫から氷を数個出し、それに入れる。がらがらと雑多な音が、冷たそうに聞こえた。座れ座れ、と兄に施され、伊藤は彼の斜め向かい側に座る。特に興味も無いバラエティ番組の笑い声が、伊藤の耳の外側を過ぎった。 「呼び出したくせに居ねえのかよ、あの人は」 「そんなもんでしょ、あの母ちゃん。たまたま会いたくなっただけじゃねーのー?」 伊藤は今日、母親から連絡があった。あんた今日顔見せに帰りなさいよ、と。そういえばしばらく帰っていないことに気付き、住み慣れてしまった大学付近のアパートから、それまで住んでいたこの市営住宅に戻っている。彼女は大方、まだ仕事中だ。近くのスナックで働いている母は、日を跨いで帰宅する。連絡が来たということは、休みなのだと思っていた。適当か、伊藤は母親らし過ぎて息を吐くように笑った。兄が飲んでいる焼酎の瓶の蓋をようやく開ける。少量注ぎ、氷を回した。今度は、からからと軽い音がする。 「耕史郎、お前もう四年か?」 「そうだよ」 「どーすんの、これから」 「公務員一本」 「うそ、つまんなくねえ?」 「おめーに比べたら誰もつまんねーよ」 ははは、と軽く笑った兄は、グラスに口を付けた。彼は放浪の旅を繰り返しているような男だ。今はちょうど地元に居たらしく、それをたまたま母が捕まえたという所だろう。伊藤は自身も自分勝手だということは十分承知していたが、兄よりは現実的に物事を捉えていると思っている。何しろこの男は、たまたま連絡をした時に「今インドー。ナマステー」と平気で言うのだ。敵わない。俺は堅実的に稼げる公務員、それ以上も以下もない。注いでしまった焼酎を飲み干し、伊藤はまた、瓶に手を伸ばした。 「あれ?あれあれー?」 「あ?」 伊藤は兄が覗き込む様子に、思い切り不審がって身を引いた。何だよ、と言うと彼は、鼻をくんくんと短く吸っている。 「母ちゃん居なくて良かったね」 「だから何が」 「苺の匂いはふつー男からしねーだろー。母ちゃん居たら質問責めだよ、お前。どんな女だ避妊はしてんのかって」 揶揄するように笑う兄を見て、母がこの場に居なくて良かったと心底思った。面倒だ。とてつもなく面倒だ。彼女じゃありませんセックスフレンドです、と言おうものなら一から十まで聞かれる。良かった居なくて、と息を吐くと、また兄は笑っていた。 女はもう、男とは全てが違うと伊藤は思う。大人かと思えば、知らぬ間に子供に戻ったりする。逆も然りだ。その典型的な例が図らずも母親だった。女性というのは大概誰もが、何かを匂わせる表情を見せてそして、他人が放つ同じ匂いに敏感だ。置いていたグラスに手を伸ばすと、何かがふわりと香る。甘い匂いが鼻を掠め、これが自分に付着していたのだと分かった。あんたのダチん家は苺の匂いすんの? 柴田も同じようなことを言って、伊藤を見据えていた。その時の表情と、「ナメんじゃねえよてめえ」と凄んでいた目が酷く似通っていた気がして、伊藤はぎょっとする。何だそりゃ、思わず苦笑した。焼酎の癖のある味が、喉の奥を抜けた。 それからしばらく日が経った。コンビニエンスストアでアルバイトをしていた伊藤は、客が誰も居ないうちにと陳列棚を整理して、補充していた。混み合うとそれもままならなくなるからだ。大体この時間の客は少ないし、今夜は雨が酷かった。午後八時頃の店内は暇な時間が多い。このコンビニエンスストアの店長である高橋も、伊藤に仕事を任せて裏にある自宅に戻って家族サービスをしている。手が回らなくなった場合のみ、店長に内線するルールになっていた。一人で仕事をする分、バイト料も上げて貰っている。そもそも、このアルバイトは高橋から誘われたのだった。嫁さん妊婦でさー家族サービスしたいんだよね、と。彼は伊藤が昔から親しくしていた先輩だった。そういえば、と、ふと思う。苺の香りがする彼女とは、しばらく会っていない。 その時だった。入店の音が鳴ったので顔を上げると、そこには柴田が立っていた。雨に降られたのか、軽く濡れている。彼は店内を物色することなく、雑誌コーナーに足を進めた。雨宿りってとこかな、伊藤はゆっくりと足を進め、彼に近付いた。読んでいるのは漫画だ。 「毎度どーも」 伊藤が言うと、彼は音が鳴るほど勢いよく振り返った。別に悪いことをしている訳でもなかろうに、酷く焦っていたように思う。大方、立ち読みを注意されると勘違いしたのだろう。伊藤は思わず吹いた。 「何? エロ本でも読んでた?」 「ち、違いますよ。どう見たってジャンプだろ」 「だよな」 「つーかあんた、ここでバイトしてたの?」 「まあ」 伊藤は不意に、柴田に見詰められたことを思い出した。何故なら今の彼は、あの時とはまるで違うからだ。全くの無知で、大人じゃない、普通の大学生になったばかりのただの。舌打ちしたくなるのを寸での所で堪え、代わりに掌を握ったり開いたりするのを繰り返した。煙草吸いてえなあ、柴田の匂いがした気がして、それを消し去りたくなる。乾いた洗濯物、太陽の匂い。 「ちょうど良かった。雨宿りさせてよ」 「お買い上げ願いたいんですけどね」 「ケチくせ。じゃあー……、コーヒー」 ばーか、と思わず口に出した。 「コーヒーだけかよ」 「後はー……、アイス?」 「毎度ありがとうございまーす。ごゆっくりどうぞ」 「どーも」 伊藤は一度笑い、柴田を見下ろした。彼もまた、笑っている。外は未だに雨が止まない。踵を返し伊藤は、陳列作業を再開した。それからぽつりぽつりと客はあった。いつもと変わりない作業をしながら、時折柴田を見る。彼は未だに立ち読みを止めなかった。そこまで柴田の心を掴む漫画があるのか、それとも。伊藤は心の中でかぶりを振った。 また店内が静かになった時、伊藤はレジの奥にある休憩室に入った。そこは従業員が休憩を取る場所で、裏口にも繋がっている。従業員達はそこから出入りしていた。ドアの小窓で時折店内を観察しながら、煙草に火を点けた。一本吸い終わった所で、そろそろ自分の就業時間も終わりを告げる。あいつまだ居る気かよ、灰皿に煙草を押し付けながら考えていると、店内から声が聞こえた。おーい! と、呼ぶ柴田の声だった。その声に伊藤は、休憩室のドアを開けた。レジの前には柴田が立っていて、その手にはコーヒーとパピコが綺麗に収まっている。 「ありがとうございます」 「どーも。約束のコーヒーとパピコ」 レジを打ってから、二つの商品を袋に入れて、伊藤は柴田に手渡した。出された小銭に釣り銭を渡し、もう一度、ありがとうございました、と言って会釈する。それでも柴田は、立ち去ろうとはしなかった。店内は、有線が流れていた。匂いも、際立った何かは感じない。別段変わりない、いつもの風景、音、匂い。ただ、彼が居るだけで空気が違う。 「アイス、要らねーからあげる」 「俺だって要らねえよ。甘いもん嫌い」 柴田は目を逸らした。口を噤み、鼻から息を吸って吐いていた。 「おれのこと、分かってるんだろ」 「何の話?」 「あからさまに彼女のこと、言ったろ」 「ああー、あれね。さあ、知らねえ。自慢したかっただけじゃねーの?」 面倒ごとは避けて通りたい主義だった。なるべく他人には介入したくないし、深入りはしない。感情にも内側も左右されたくないし、探る気もなければ探究心なんて感じたこともない。この男の性癖が何だろうと自分には関係も無ければ今後関わることもない。その筈だった。それなのに、彼が目の前に居ると、空気が違う、色が違う、匂いが違う。 「苺の匂い、全然似合ってねーよな」 柴田は伊藤を見据えた。というよりも、睨むに近いのかもしれない。彼は口元に笑みを浮かべ、きっと目は笑っていない。この空気の正体を、得体の知れない塊の正体を、柴田は知っている筈だ。伊藤はそれを確信している。 「てめえの性癖なんてよー、俺には全く関係ねえよ」 そう言うと柴田は、ぐっと眉を寄せた。思った通りの反応をする彼が可笑しくて、息を吐くように笑った。 「興味もねえな」 伊藤は腕を伸ばし、柴田の胸倉を掴んで近付けた。顔が近い。瞬きもしない彼の目は、驚いているのか酷く動揺しているのか揺れている。 「お前の匂いも、今日は違う」 「……そういうとこ、すげー嫌い」 掴んでいた手を柴田は、乱暴に振り払った。わざとらしく痛いと示す為に伊藤がぶらぶらと手を振ると、彼は舌打ちをする。ありがとうございましたー、恒例の挨拶をして伊藤は会釈をする。柴田は一瞥をくれ、後ろ姿を見せた。雨に濡れた肌の匂いがする、伊藤は柴田の後ろ姿を見送りながら、そう思った。 ゲイなんだろ?知ってるよ。興味もクソも、首絞めるくらい先に伝えて来たのお前でしょーよ。 雨は多分、もう止んでいる。
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