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「ユキ様、おはようございます」 「おはよう、今日も早いですね」 セスとともに露が朝日に光る幻想的な庭園を歩いていると、もう仕事に取り掛かってしばらく経っているのだろう庭師が俺に挨拶をする。 日本にいる頃は花や植物には興味がなかったのに、この城の庭園の草花はどれも生き生きとしていて眺めるのが日々の楽しみとなっていた。 そのためこうして庭師や、見回り、訓練のために移動している衛兵ともよく顔を合わせるようになり、俺の姿に慣れたのか皆はじめより気さくに接してくれて嬉しく思う。 朝の清々しい空気を吸い込むと肺に新鮮な空気が入り込みすっきりとする。 ちょうど目の前に咲いている深い赤のバラの良い香りが空気と一緒に体に入り、美しい景色と花の香りを存分に堪能していた。 「ちょうど今あちらに王子もいらっしゃってますよ。最近は特に忙しそうですね」 思ってもいないタイミングで聞こえた王子という言葉に心臓が大きく跳ねる。 庭師が視線で示す方に顔を向けると、衛兵と一緒に剣や槍などの武器の状態を確認しているらしいオーウェンが背筋を真っ直ぐに立っているのが目に入った。 朝の光を受ける髪の赤が綺麗に映える。 「ほんとだ……セス、ちょっと話してきていいかな」 「もちろんです」 本を贈ってもらえたことへの感謝を伝えたかったが、昨日はあれから会うことができなかったため機会を窺っていた。 訪れたチャンスを無駄にしないよう、小さな緊張を抱きながら凛として立つオーウェンに近づいていく。 「オーウェン様、今ちょっといいですか?」 地面に武器が並んでいるため少し距離をあけて声をかけると、手に持っている剣から俺に視線が向けられる。 俺の姿を見るとオーウェンは、手にあった剣を衛兵に渡しながら何か短く指示を出した。 口を開けようとした俺よりも先に、落ち着いた声が聞こえる。 「すまないユキ、今は時間がない」 「そうですか……邪魔してすみません」 はねつけるような声に、それ以上何も言うことができない。剣の次は衛兵の手から槍を受け取ったオーウェンは言葉の通り俺に時間を割く気は無いようで、邪魔にならないようオーウェンから離れる。 少しは近づくことができたと思っていたからか、オーウェンの冷めた対応にショックを受けている自分に気づいた。 会話は少なくても穏やかなディナーを過ごし、帰らないでほしいと言われて贈り物ももらえた。 特別まではいかなくても少しくらい好いていてもらえていると思ったのに、すべて俺の勘違いでオーウェンは俺に少しも好意を抱いてはいないのかもしれない。 最近は特に忙しそうだという庭師の声を思い出す。この忙しさは俺が来てからということだったら、俺は避けられているのだろうか。 忙しい王子の邪魔にはなりたくないと思っているから断られたことよりも、従者に指示を出すときと変わらない声色にショックを受けながら、こんなことでショックを受ける自分も嫌でとにかくこの場から離れるために足を動かした。 ひとりの部屋に紙のめくれる乾いた音が落ちる。 昨日もらった本のページをめくるものの、内容は頭に入ってこない。 集中できない理由はわかっているがどうすることもできないため、また気分転換のためにページをめくった。 そこで小さな揺れを感じる。集中できていないからこそ感じた微かな揺れはすぐに治まったためなんとも思わないでいると、すぐに獣の咆哮のような音が聞こえ急いで本を閉じる。 何が起こっているのかわからないが嫌な予感で背中がひやりと冷たくなった。 「なんだ?」 閉じた本をテーブルに置いているうちにまた城全体が揺れる。 今度はさっきよりも大きな揺れで、不安が大きくなるのを感じながら外の状況を見ようと窓に近づいた。 「衛兵は急いで外に集まれ!」 「モンスターの襲来だ!」 廊下から聞こえる慌ただしい足音、声の原因は外を見た瞬間に理解した。 城の外では、緑色の体を持つ獅子のような大きな生き物が庭園を荒していた。 初めて目にするその生物は、まさにゲームの中に出てくるようなモンスターで息を呑む。 鋭い牙とぎらりと光る獣の目は、目にするだけで体が固まる。 今までの人生では巨大な動物と遭遇したことはなかったため、人間では敵わないのではないかという恐怖に体が支配されてしまった。 「なんだ、これ……」 呆然としている俺のことはお構いなしに、モンスターはすごい勢いで走りだし城の壁に体をぶつける。 すると建物が大きく揺れて、家具や頭上のシャンデリアが音をたてた。 とりあえず少しでも安全になるよう窓から離れて部屋の中央にうずくまる。 廊下や城の外から聞こえる衛兵の鋭い声に、これが緊急事態なのだとわかった。 自然災害と似た恐怖が体を押しつぶし、心臓は痛いくらいに早く動く。 俺の昼食の準備のために調理場へ向かったセスは無事だろうか。オーウェンはどこにいるのだろう。ぎゅっと目を閉じながら皆の安全を願う。 しばらくそうしていると、咆哮も揺れもおさまり、聞こえるのは人の声だけになった。 「ユキ!」 大きな音をたてながら勢い良く扉が開く。初めて聞いた慌てた声に、すぐにはオーウェンのものだと気づかなかった。 「無事か? 怪我はないか」 部屋の中心で座り込む俺に急いで駆け寄ってきたオーウェンは、俺の肩に手を置き怪我がないかチェックする。 治まった振動とオーウェンが来てくれたことで恐怖が解けていき、長く息を吐き出した。 「怪我はありません」 オーウェンこそ怪我はないのかと聞こうとした俺の体は、気づけば苦しいくらいに抱きしめられていた。 ふわっと香る初めて嗅ぐオーウェンの匂いに、さっきとは違う痛みが胸に生まれる。 「良かった」 強い力で抱きしめられているため顔がオーウェンの胸に押し付けられ息苦しい。 それでも、初めて感じる彼の体温がさっきまでの恐怖を鎮めてくれた。 「どうしてここに?」 オーウェンの服に吸い込まれた俺の声はくぐもって落ちる。 いつも言葉をはっきりと口にするオーウェンだったが、俺の質問に応える声はなく黙ったままで、けれど腕の力が弱まることもない。 どうすればいいんだろうと少し困ってきたところで、新しい声が部屋に落ちた。 「ユキ様のことが心配でモンスターの討伐が済むとすぐに駆けつけたと言って差し上げたらどうです?」 「ディラン!」 いつのまにか部屋に入ってすぐのところに王子付きの執事が立っていて、彼の言葉にオーウェンが焦ったように名前を呼ぶ。それ以上言うなと止めているようだった。 俺は俺で抱きしめられているところを他の人に見られるのが恥ずかしくて少し身じろいでみるものの、腕の力が弱まることはなかった。 オーウェンも人に見られることを気にするだろうと思っていたから意外だ。 「あいつの言うことには耳を貸すな」 「武器があって危ないから先程は遠ざけたこと、ユキ様とのまとまった時間を作るために今は無理をして仕事を片付けていること、王子らしく見えるよう振舞っていたら距離の詰め方がわからなくなったこと、すべて打ち明けてしまった方がユキ様もお喜びになると思いますが」 「…………」 執事であるディランの信じられない言葉に耳を疑うもオーウェンはただため息を吐いただけで、しかしそれが今聞いたことが真実であることを告げていた。 まだすべてに理解が追いつかないでいる俺のことを抱きしめる力が弱まり、ゆっくりとふたりの体が離れていく。 いつも表情のないオーウェンの顔は、どこか居心地悪そうだった。 「私は被害箇所を確認してきます」 ディランが部屋を出て行くと、オーウェンは言葉を探すように口を開いた。 「ディランの言った通りだ。俺は自分の気持ちを言葉にするのが下手だから、ユキには不安な思いをさせてしまったかもしれない。すまない」 いつもの堂々とした声ではなく、後悔や不安を含むような声にただただ驚く。 無意識に、いえ、と言おうとした口を閉じ、少し考えて今度は違うことを話すためにまた口を開いた。 「たしかに不安でした。でもこうしてオーウェン様が俺のところに駆けつけてくれたから、今は違います」 ちゃんと俺は大切に想ってもらえていたのだ。 今はまだ、オーウェンからの想いも俺の気持ちも、そして俺たちの関係も言葉にあてはめるのは難しいけれど、すぐそばに感じるオーウェンの熱に、もう大丈夫なんだと思える。 俺の言葉を聞いたオーウェンは、また、しかし今度は優しく包み込むように俺の体に両手をまわした。 「紅茶美味かった。また淹れてくれ」 耳元で聞こえる優しい声に、気恥ずかしさと嬉しさで自分ではどうしようもない熱が生じてしまう。 願ってはいたものの、突然の距離の詰まり方に今度は俺が言葉を探した。 「……本、ありがとうございました」 「あぁ、読んでいてくれたんだな」 オーウェンの向いている先にちょうどテーブルに置いた本が見えるのだろう、初めて聞く嬉しそうな声は俺の胸に甘い疼きを生む。 「ディランさんの言う通り、伝えてくれたほうが嬉しいです」 「……努力する。俺は言葉にする能力はそれなりにあると思っていたんだが……ユキに対しては上手くいかない。ユキも俺には遠慮しないでくれ」 「努力します」 さっきまでの恐怖はもうどこかに消え失せ、廊下や外から聞こえる声もどこか遠くに感じる。 予期せぬ事態が城を襲ったのだから本当は王子がやらなければいけないことはたくさんあるだろうけれど、オーウェンは俺の存在を確かめるように体を離さないでいる。 そのことがとても嬉しくて、俺もオーウェンの背中に腕をまわし、もうしばらくこうしてふたりでいられることを願っていた。
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