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「母さんから聞いたよ。マジックペンの落書きでぐちゃぐちゃにされた国語の教科書、見たって」
樹の眉毛がピクンと動いた。
「あれが樹の字じゃないことくらい、父さんや母さんにだって簡単に分かるさ」
敦がそう穏やかな声で伝えると、樹は観念したかのように黙って頷いた。
「別にウサギはウサギのままでよかったんだ。人間になる必要なんてなかったんだよ。ほら、人間にだっているだろ?いじめをするような奴も、いじめを見て見ぬ振りするような奴も。人間が皆すばらしい生き物ってわけじゃない」
樹は敦の哀しそうな瞳から思わず目を背けた。休み時間に羽交い締めしてくるクラスメイトの狂った笑顔や上靴に画鋲を仕込まれたときの痛み、そしてプロレス技をかけられ泣いていたときに教室の入り口から聞こえてきた担任教師の
「やりすぎるなよ。ハハハ」
という絶望的な笑い声が、頭の中に浮かんでは消えていった。
「ウサギが地獄に落とされないために大事にすべきだったのは、ウサギのままの自分、期待に応えられない自分ですら愛するということだったんだ。たとえ周りが何を言おうとな」
空を覆う雲は少しずつ濃くなってきている。傘をかぶった月がぼんやりと2人を照らす中、敦は樹の肩を抱き寄せた。
「樹は、樹だ。それ以上でもそれ以下でもない。そして父さんは、誰が何と言おうと、お前には幸せになって欲しいと思っている」
樹は敦の目を合わさず、口を開かぬまま目線を下に向けた。ベランダの下には暗闇が広がっている。敦は遠くを眺めながら、問いかけた。
「……学校、しばらく休むか?」
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