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「き、すはっ……キスはっ、私がしますからっ」
言い切ってから、その台詞の意味を理解する。
弾けるように、和久の口許から手を離した。
「いや、あのっ」
慌てる美緒を、和久は何も言わずに静かに見ていた。
自分を見定めるような冷静な瞳に気が付いて、美緒は純粋に悔しくなる。
見返してやりたい、と、そんな気持ちで一杯になった。
が、しかし、それでも、何でもない顔をしてキスをするほどの度胸は、さすがにない。
負けたようで悔しい。その悔しさから、
「次の機会の楽しみに、しましょう」
問題を先延ばしする言い逃れを口にしていた。
そんな対処しかできない自分の未熟さがまた悔しい。
それでも、
「そっか。楽しみにしてるね」
余裕綽々そうな台詞の割に、和久の表情は無邪気に嬉しそうで、美緒もただひとえに、嬉しくなっていた。
* * * * *
美緒は火曜と金曜は塾に通い、ピアノのレッスンが木曜にある。レッスンは塾の終わる時間とは違うため、木曜に和久と会えないことは十二分に理解していた。
しかしそれでも、公園前が和久の帰宅路なら出会える偶然がないとは言い切れない。美緒は毎週張り切って通勤スタイルを装ってピアノ教室に通っていた。
毎週ガッカリな結果だったが、しかし今夜は、ツイているようだ。
「あれ、美緒ちゃん」
その声だけで美緒のワクワクは一気に最高潮となる。
振り返れば、和久がいた。笑顔が止められない。
和久の表情も、まるでご主人様の帰宅を出迎えた忠犬のような喜びようだ。
足早に和久の前に駆け寄る。
「お疲れ様です」
美緒が言いかけたところで、
「何をしているんだ」
地を這うような低い唸り声が、間近から響いた。
美緒の父親だった。
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