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「死んでもいいわ。と、言うべきでしょうか」
夏目漱石に対応するよう、美緒は、二葉亭四迷による“私は貴方のものよ”というロシア語の和訳を口にしてみる。
「ぃや、もぉ、ホントやめて」
和久は、視線を下げて、困ったように少し顔を背け、片手で口元を抑えている。
「ふふっ」
思わず美緒の口から息が漏れてしまう。
より一層、 唸る和久。
これはこれで眼福ながら、そう長くないこの逢瀬を、和久と共に楽しみたいとも思えて、美緒は空を見上げた。
「本当に、綺麗な月。嘘みたいに明るいですね」
いつも通りの口調を意識して、いつも通りの会話を仕掛ける。
この辺りは外灯が少ない。少し離れて位置する自販機すら、正面を反対側に向けている。
このベンチを照らすのは、月明かりだけだった。
満月を三日後に控えた月光が、快晴の今夜、遮るものもなく辺りを眩しく照らしている。
夜の闇に降り注ぐ光には静謐たる透明感があり、照らしたものの本質を暴くような粛々とした強さが感じられた。
月独特の不思議な雰囲気を確かに感じ取りながら、美緒は、月に惑わされるというチープな言い草も今なら頷けそうだと感じた。
むしろ、惑わされてほしい。その力を借りて、和久を手に入れたいと願わずにおれない。
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