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おもかげ 2
わたしには父と暮らした記憶がほとんどない。遊んでもらった覚えもない。
父は高名な外科医で、「同業者からも一目置かれるすごい人」なのだそうだ。
母からその話を聞いたわたしは「こんな大きな家に住めるのだから、きっとそうなのだろう」と漠然と理解していた。だから父があの子を連れて数年ぶりに姿を見せた時も、「あ、お父さんだ」と何となく感じたに過ぎなかった。
そんな生活に、織江というキャラクターは見た目そのままにふわりと入りこんできた。
父が言った通り織江には画才があり、父が与えた離れの一間で日がな絵筆を握っていた。ときおりわたしが覗くと困ったような表情を浮かべ「あんまり見ないで」とはにかんだ。
逆にわたしがピアノを弾いていると、織江が覗きに来ることもあった。三歳から続けているピアノはわたしにとって生活のすべてであり、織江がうっとりと聞き入っている姿はなんとも好ましい眺めだった。
「ねえ、安奈さんは音大にはいかないの?」
織江は鈴を鳴らすような声で、わたしに尋ねた。わたしはぜんそくの発作や、それ以外にも様々な身体の不調があって進学を諦めたこと、家で外国人のピアノ教師に指導を受けていることなどを話した。
「でもね、本当は一つだけ夢があるの。一度でいいからホールで演奏会を開いてみたい」
「そのくらい、お願いすれば叶うと思うわ。……ううん、叶えなきゃ駄目」
織江は珍しく頬を紅潮させ、身を乗り出して言った。興奮したせいか、織江は突然「うっ」と呻くと胸を押さえてうずくまった。
「大丈夫?お薬は持って来てる?」
わたしは織江の背をさすりながら尋ねた。わたしがぜんそくを持っているように、織江には一歳を過ぎた頃に発症した心臓の疾患があるのだという。
「ありがとう。……すぐ収まると思うわ。それより安奈さん、私、前からお願いしたいことがあったの。聞いてくれる?」
「なに?わたしにできること?」
突然、切りだされたわたしはあまり喋っちゃだめと言いつつ、問いを返した。
「私、前から安奈さんを描きたいと思ってたの。生き生きとピアノを弾いてる姿を」
「それは……構わないけど、無理しないでね。約束よ」
わたしが面食らいながら承諾の意を伝えると、織江は「うん。ありがとう」と微笑んだ。
「じゃあ指きり。安奈さんはソロコンサート、私は自分の個展、いつか必ず実現するの」
織江のガラス細工のような指に自分のそれを絡ませつつ、わたしは「そうね」と頷いた。
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