1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
あの子がいなくなったのは、もう五年程前のことだ。
それは、衝撃だった。一人の人物の人生を変える衝撃だった。
あの子はとても暗い子だった。
被害意識が強く、他者と分かりあうことが難しかった。
それでも、あの子は人並みに愛を求め、人とのつながりを求めていた。
そのことが余計、生きることを難しくしていた。
また、あの子はとても繊細でもあった。
もろい精神を何とか持ちこたえさせるため、あの子は一つの物事に過度に集中して取り組んだ。
例えば、勉強。おかげで成績は悪くなかった。
しかし、学業成績はあの子にとって、大きな意味は持たなかった。
あの子が求めていたのはクラスメイトからの一種の羨望の眼差しではない。
本人にとっても無意識ながら、本当に求めていたのは、平凡な成績のクラスメイトのほとんどが生まれながらに持つ、「生きやすさ」だった。
あの子は、日々生きることに必死で、これがあと七十年続くということが想像できなかった。
こんなに苦しいこと(生きる)のために私は生まれてきたのか。
一日一日が終わることを指折り数えた。
七十年、あと何日あるのだろう。
あの子の生きてきた道は灰色のスモッグで満ちていて、これ以上前は見えない。
七十年先など存在しなかった。
ある日のこと、あの子はひとりの老人と出会った。
その老人は真っ白に見えた。
老人の後ろの窓から差し込む昼間の太陽光と、同じ窓から見える数日前から本格的に積もっている雪が余計に老人を白く見せていた。
あの子は心の中で思った。この老人は白の老人だ。白の老人と名付けよう・・・。
白の老人の正体は魔法使いだった。あの子はそう結論付けた。やっぱり彼の名は白の魔法使い。
白の魔法使いはあの子には訳の分からないことを沢山言った。でも、白の魔法使いは魔法使いだから仕方がない。あの子はいつもそう思っていた。
「君の目は可哀想だ。君の目は今までの、たくさんの悲しい経験を物語っている。だから、そんなにも黒く沈んでいるのだよ。でも大丈夫。君の目はきっと良くなる。君の目のもっと奥の部分がそう言っているよ。普通の人には深すぎて見えない部分がね。私には見えるのさ。」
白の魔法使いはいつもこんな調子で話した。
白の魔法使いはあの子に屋敷の中を案内した。
そこでは、たくさんの人が共同生活を送っていた。そして、そこにいる人たちは皆、あの子と同じ黒い目をしていた。皆が少しうつむき加減で、互いに言葉を交わしている者は誰一人としていなかった。
「君は知らないかもしれないけど、君と同じ黒い目を持つ人は実は少なくないんだ。ただ、元の目に戻る人もいれば戻らない人もいる。私は皆に同じ魔法をかけているんだよ。それでも差がでてしまう。何が結果を分けるのかは、私にも分からない。運なのか、それとも本人の資質なのか、もっと他の何かなのかはね。」
白の魔法使いはそう言って、ポケットから何かを取り出した。
「君にも魔法をかけてあげよう。」それは二粒の小さいピンク色の飴玉だった。
「噛まないで、そのまま飲み込んで。」白い魔法使いは言った。あの子はそれに従った。
「しばらく、ここに泊まっていきなさい。」
あの子は白の魔法使いの屋敷にいる黒い目の人たちの一員となった。
それから毎日、白の魔法使いはあの子の元にやってきて、ピンク色の飴玉を二粒ずつ渡した。
ここに来てから一週間ほど経過しただろうか。日数を数えてはいなかったが、窓の外ではもう雪が当たり前のように積もっていた。
初めて白の魔法使いと出会った日のように、窓の外では新雪とそれに反射する太陽光が、当たりを一層白く染めていた。
そんな朝にあの子は目覚めた。いや、正しくはもうその朝、あの子はあの子ではなかった。あの子がいなくなった。黒い目のあの子が。
「おつかれ。今日は何時に終わる?」スマートフォンでメッセージを彼に送ったけれども、今日もまた返信が遅い。
私はイライラしながら、ちょっと心配になりながら、スマートフォンを握りしめる。
「今日はなに食べたい?なにを作っておいたらいいかな?」
つい、返信を待ち切れず、またメッセージを送ったそばから後悔する。
私ばっかりメッセージを送っている。彼はどうせ、今頃仕事に夢中なのだ。
彼はいつも仕事で動物を使って実験をして、それを人間に応用している。
いつか苦しむ人を救うために。
彼はいわば・・・、魔法使いだ。
魔法使いの彼と結婚してまだ二か月。新婚ってやつだ。毎日平凡に、普通に、そして幸せに暮らしている。
あの子がいなくなった朝、私が普通になった朝のことを私はあまり覚えていない。
もしかしたら泣いていたかもしれないし、笑っていたかもしれない。
ただ、こう思ったことだけ鮮明に覚えている。
「普通の人って、なんて楽なんだろう!」
それからしばらくして私の目は黒くなくなったため、私はあの屋敷にはそぐわなくなった。
屋敷と白の魔法使いには別れを告げた。
正直に言って、私はあの子のことをあまり覚えていない。
単純に時間が経ったからかもしれないし、もっと違う理由があるのかもしれない。
ただ、可哀想な痛みを抱えたあの子、無力な少女を私は抱きしめたいと思う。
あの子はいなくなった。
もう存在自体思い出すことも難しい。
しかし、あの子の存在は無駄ではなかった。
あの子がいなかったら輝きを取り戻した瞳の今の私は絶対に存在しない。
また今年もあの季節が近づいてきた。
何もしていなくてもちょっと悲しくなる季節。
白の魔法使いの季節。
夫の帰りを待つ間、私は暫しこうして、昔を思い出しているのだ。
最初のコメントを投稿しよう!