Ladylike Cat

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Ladylike Cat

「いたか?」 「いいや、こっちにはいない」  弦月が夜空にかかる中、聞こえる兵士たちの声。その会話を物陰から聞いている人物がいた。 「女ひとりの癖によく逃げまわるよな……。早く仕事を終わらせて帰りたい」 「仕方ない。あっちを探すぞ」  兵士たちが去っていくのを見届けて、その人物は物陰から姿を現した。そして兵士たちが消えたのとは反対の方向へと走っていく。 (失敗したな……)  ダークブラウンの結い上げた髪、貴婦人用の襟が高く、胸元にフリルのあしわられたドレスとショートブーツを身につけたその人物は、軽く舌打ちした。  広いつばのついた帽子とそこから流れるベールが目元を隠すお陰で印象に残りにくいが、しかし一度見れば忘れない、美しい藤色の瞳を持つその人――ウィステリアは諜報員である。  潜入任務の一環で、港町の富豪の邸で開催されたとある園遊会に客として忍び込み、目的の情報を手に入れた。そこまではいいが、最後の最後で警備に見つかってこの始末。町中に追跡の手が回ったせいで、逃げ道をあっという間に塞がれた。夜になって幾分か追っ手の数が減ったとはいえ、逃亡が困難であることに変わりはない。 (ここを抜ければなんとか――)  それでも予め考えていた逃走経路から、まだ追跡が回っていないであろう、港の倉庫街の通りを選んで走り抜けていたときのこと。 「こっちにいるかもしれん」 「こっちにも行ってみるか」  ――まずい。そう思ってウィステリアは立ち止まった。前からも後ろからも兵士の話し声が聞こえた。つまり挟み撃ちされたのである。この辺りの路地は区画ごとに塀があるせいで、どこもかしこも行き止まりで、彼らを避けて迂回するルートはない。  万事休すか――ウィステリアが諦めかけたその時。 「!?」  突如伸びてきた腕によって、ウィステリアは路地に引きずり込まれた。  誰だ――かろうじて悲鳴はあげずにすんだウィステリアが視線を背後に向ければ、そこにいたのは明るい茶色の髪をもつ紅の瞳の男だった。向こう傷が印象的な精悍な顔つきのその男は、人差し指を彼自身の唇に当てた。どうやら静かにということらしい。 「あんた、追われてるんだろ? ……ちょっと失礼」 「何……」  帽子を取られ、路地裏の壁に体を押しつけられる。強引で乱暴なように思えたが、実際は優しくて丁寧な扱いだった。  しかしウィステリアは焦った。近づいてくる兵士の声に。仮に見つかって捕らえられて拷問されても口を割らない自信はあるが、今回入手した情報は今後の作戦に絶対必要なもので、本国に持ち帰らねばならない。  この男を蹴り飛ばして逃げるか――だが、男が戦闘慣れしていることは一目瞭然で、それがかなわないのは明白だった。  ウィステリアがそう計算したのは実際のところはほんの一瞬で、さして時間はたっていない。その間に男は自身の体を割り込ませてきて「少し我慢してくれよ」と告げた。  何をと聞き返そうとしたウィスの耳に、兵士の足音と話し声が届く。追っ手はもうすぐそこまで迫っていた。男の指先がウィスの顎にかかる。そして――。 ◇◇◇ 「おい、そこで何を……いや、ただの逢い引きか」 「……行こうぜ」  兵士たちは路地裏をちらと見て、そのまま行ってしまった。路地裏の薄暗がりにいたのは恋人同士か商売女と客か――どちらかわからないが、口づけを交わしている男女だった。  追われている女がこんな路地でそんな悠長なことをするわけがない。それにああいう雰囲気の中へ割って入る度胸は追っ手にはなかった。  やがて完全に追っ手の気配がなくなったことを確認すると、ウィステリアは目の前の男をどんと突き飛ばした。男の顔は離れていくが、体の方はびくともしない。口づけをやめさせるのが関の山だった。さすがに体幹を鍛えているだけある。  男もまた通りの方を伺った。 「行ったみたいだな」 「……で、いつまでこの体勢でいるつもり?」  ウィステリアの剣呑な声音にも男は動じず飄々としている。 「つれねぇな。今、口づけ交わした仲なのに」 「助けてくれたことにお礼は言うけど、それ以上の義理はない」 「俺はあんたみたいな強気な美人、大歓迎なんだけどな。何したか知らないけどどうせ追われているなら、このまま俺と一夜過ごしてみないか?」  男はやや艶めいた笑みとともに口説き文句を囁いてくる。どうにも自身を離してくれないらしい男に、ウィステリアは呆れたようにため息をついた。 「……実は恋人を殺したのって言ったらどうする?」 「そりゃ怖いな。だがあんたみたいないい女に殺されるなら悪くない」  口ではそう言うものの、怖がっているどころか完全に面白がっている。追っ手は撒けたが、厄介なのに捕まってしまったとウィステリアは頭が痛くなってきた。女装をすると追跡の目も掻い潜りやすいが、こういうことも起こりやすいから嫌なのである。  もう一度ため息をつきながらウィステリアは、素早く周囲に目を走らせる。路地の行き止まりは高い塀、他には木箱がいくつか転がっていたり積み重なっていたりした。あれならなんとかなるかと、ウィステリアの脳内で素早く計算がなされる。 「そう、そりゃどうも。……でも生憎、俺の方ではあんたは趣味じゃないんだ」 「ん? 俺?」  ウィステリアの言葉使いに男が首を傾げた瞬間、ウィステリアは思い切り男を蹴り飛ばした。完全にウィステリアを女と思って油断していた男は吹っ飛んでいく。  その隙にウィステリアは手前にあった木箱を踏み台に、軽やかに塀の上に飛び乗った。塀の向こう側へと降りる前に、その鬘を脱ぎ捨てて男を振り返る。露になった白銀の長髪が夜風になびいた。 「助けてくれてありがとう、親切な向こう傷さん。だけど俺は男同士なんて趣味じゃないんだよ。……それじゃごきげんよう」  ウィステリアは貴婦人が浮かべるような極上の微笑みを残し、ひらりとドレスの裾を翻しながら塀の向こうへと消えていった。  ――弦月の月明かりの下、その藤色の瞳と白銀の髪をきらめかせて。 ◇◇◇  男――ジャックは起き上がると、困ったように頬をかいて苦笑した。 「まいったな……」  確かに声はやや低かったが、それでも女の声の範疇の低さだ。身長も踵の高い靴を履いているのならば、まったくおかしくはない高さで、所作も外見もどこからどう見ても女にしか見えなかった。襟が高く胸元にフリルがついたドレスを着ていたのも、喉仏と平らな胸を誤魔化すためだったのだろう。己の容姿も計算に入れた完璧な女装だ。あれができるということとあの軽やかな身のこなしはおそらく――。 (どこかの国の諜報員だな、ありゃ)  人目を避けてたまたまここで部下と待ち合わせをしていたら、何やら周囲が騒がしくなってきたのが事の発端である。  最初は海賊である自分を捕縛しようとしているのかと思って焦ったが違った。兵士たちに追われているのは、変わった目の色の美人だったのである。追われている理由は知らないが、窃盗や身売りをして追われる身分の女ではなさそうだった。  それがまさか男で諜報員だったとは、世の中の神秘性は計り知れない――ジャックはもう一度自身に苦笑しながら、置き土産のように残された帽子を拾い上げる。鬘を脱ぎ捨てた彼女、いや彼は、その髪と瞳の色ゆえに、月明かりがもたらした幻影のようにも思えた。この帽子がなければ。 「お頭、お待たせしました」  そんな声とともに路地に人影が差し込んだ。待ち合わせていた部下のカイルである。 彼はジャックの手にある帽子を見て軽く瞠目した。海賊の武骨な手には似つかわしくない貴婦人用の優美な仕立てである。 「どうしたんですそれ」  ジャックはどう説明したものか悩んだ。結局口をついて出たのは馬鹿みたいな説明だった。 「……えーっと、変わった目の色の子猫だと思ったらとんだ猛獣だったというか」  考えてみれば恐ろしい状況だったとも思う。蹴られたくらいならまだいい方だ。下手をすれば、喉を切り裂かれていてもおかしくはなかったのだ。――そのよく研ぎ澄まされた、爪と牙とで。 「……まさかあんた、その辺の女性に手を出したんじゃないでしょうね」  ジャックの答えに女性関係で面倒を起こしたのかと、カイルがじろりと睨んでくる。余計な騒ぎを起こして目立つなと散々言っているのに――そんな声が聞こえてくる。  ジャックは手にした帽子をくるりと回した。彼はああ言ったがジャックだって男同士は趣味じゃない。それにカイルの心配も今回ばかりは的外れだった。結果的に、という言葉がつくけれど。 「『女』じゃなかったからそこは安心してくれ」 「……よくわかりませんが、まぁいいとしますよ。後で刺されなきゃ」 「刺されるようなことはしてねぇよ……たぶん」  吹き付けた夜風が手元の帽子をさらって海へ運んでいく。けれどもジャックはもう追わず、カイルと路地を出て歩き出した。  ――月明かりにきらめく波間に、帽子だけがゆらゆらと揺らめいていた。
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