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それから数十分後。私は臨時休業になった店内に一人残された。
テーブルからカウンター席に移動させられて、何を言われるのかドキドキしていると、割れた食器の片付けが終わった店員さんがようやくこちらを向いた。
「さて、と。まずは自己紹介からか」
夜明け色の瞳に射すくめられるような気がした。息が止まる。
「――『菜食料理 寡隠堂』店長、アダムとイブの長男、カインだ」
やっぱり。やっぱり本当のカインだったんだ。
私は驚きで出なくなった声を、必死に絞り出す。
「聖智学院高校一年生、恵三と詩子の長女、桃園詩恵です」
「同じフォーマットで返すやつは久しぶりだな」
カインさんは感心したように息を漏らすと、カウンター脇をすり抜けてキッチンに移動した。
カウンターの陰になって見えないけど、カチャカチャと食器の擦れる音が聞こえる。
「よし、蒸らし時間はちょうどいい感じだな――ルイボスティーが入ったから、とりあえず飲みな」
カウンター越しに、私の前にティーカップが置かれる。
ルイボスティーって、初めて飲むなぁ。でも、優しい赤色をしたお茶からは、柔らかくてほのかに甘い香りがただよってきて、とっても美味しそう。
状況的にはまだまだ緊張するけど、これが冷めちゃったらもったいないよね。
「いただきます」
私はティーカップに口を付けた。まろやかな風味が鼻まで突き抜ける。「んー、おいしい!」
そんな私の様子を、カインさんが驚いた表情で見ていることに気が付いた。
「――どうかしましたか?」
「詩恵って言ったっけ? お前、本当に物怖じしないんだなって」
「物怖じ――ですか?」
言っている意味がよくわからなくて、私は首をかしげる。こんなおいしそうなお茶を飲むのに、なんで怖がる必要があるんだろう?
「『人殺し』が淹れた茶とか、怖くないのか?」
「うーん、確かに最初はびっくりしましたけど。だってカインさん、本当に悪い人じゃないでしょ?」
私がそう言うと、カインさんはちょっと照れたみたいに笑った。
お金が足りない私みたいな客でも、イヤな顔一つしないでリクエストに答えてくれたし。さっきのクレーマーの件だって、こっちから手を出さなかったし、向こうが怪我しないようにかなり気遣ってたよね?
「だから、神様へのお供え物で手抜きしたのだって、きっと何か事情があって――」
「違う!」
「ごめんなさい!」
びっくりするくらいの大声で返されて、私は思わず謝っていた。
カインさんもこっちを脅かす気はなかったみたいで、一瞬バツの悪い表情を浮かべた。それでも、今度は声を落としてだけれど、真剣さはそのままで続ける。
「違う。俺は手抜きなんかしてない――わかるだろ?」
その言葉で、私はさっき食べた味噌田楽を思い出す。
私みたいな、お金のないただの女子高生にも手抜きしなかったんだもん。神様相手に手抜きなんかするわけないよね。
それに――仕事をしている様子を見ていてわかる。カインさんは本当に料理が大好きなんだって。だから、そう簡単に手抜きなんかしないって。
「でも、それじゃなんで神様は――」
「それがわかれば六千年間も悩んでないっての」
カインさんは長めのため息をついて食器洗いを始めた。
横に大きな食洗器が置いてあるから、本当は手洗いなんかする必要はないんだろう。気をそらすためにやっているのは、すぐわかった。
水道の音と、食器がこすれる音にまぎれて、カインさんは独り言のようにぽつぽつと話す。
「あの後さ、弟のアベルもそう訊いてきたんだよな。『兄さん、なんで手を抜いたんだ』なんて。最初から決めつけるみたいな感じでさ。だから俺も頭に血がのぼって――つい突き飛ばしたら――そのまま――」
そのあとどうなったかは、つい数時間前に習ったばっかりで。だからこそ私は目をそらす。
「事故だったんですね………」
「さあな。心のどこかに恨みつらみがなかったかなんて、もう覚えてないし」
ルイボスティーの香りに、柑橘系の洗剤の匂いがほのかに混じる。
それがどうしようもなく物悲しくて、私は目頭を押さえた。
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