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好きになっては、いけない人
あの日から、早くも二週間が過ぎた。熱に浮かされるような椿さんへの想いは、時間と共に去っていき、俺は日常を取り戻していた。
杏樹との関係も、少しずつだけれど、元に戻り始めている。気にしていたのは、俺だけだったのかもしれないけれど。
付き合いが長いせいか、お互いの事を知っているつもりでいた。
けれど、話さない事には、何もわからない。俺たちには、過去を話し合う時間が足りなかったように思う。ゆっくり話し合えばいい。時間は、たっぷりあるんだから。
ある日、学校からの帰り道で椿さんに会った。暗くなり始めた時間だと言うのに、椿さんは一人でトランクを引きずり、駅の方角へ歩いていた。
少し躊躇ったけれど、思いきって声をかける。
「椿さん! あの……出かけるんですか?」
椿さんは、一瞬立ち止まり、また歩き始めた。距離が少しずつ縮まって、椿さんの寂しげな笑顔が見えた。
「この間は、ごめんなさい……。振り回してしまって……」
「いえ! そんな!」
あわてて首を横に振る。逆に、助けられたくらいだ。全部、杏樹を思っての事だと、今ならわかる。俺だって、そこまで自惚れてはいない。
「どこかに、行くんですか?」
本当は、とっくに気付いていたのかもしれない。椿さんが、本当に、好きな人……。
「言ったでしょう? わたしは、そういう女なの……」
何も言えずに、すれ違う。椿さんの後ろ姿を見つめながら、思った。椿さんが、もっとも好きになってはいけない人。
それは……杏樹の、父親。
それ日を最後に、椿さんに会うことは、無かった。
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