放課後

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放課後

 あの子のことを考えていたら、今日は一日がかなり長く感じた。  生徒たちもあの子のことで混乱しっぱなしで、まったく授業にならず、疲労が溜まった。派手な女子グループは体調が悪いと言って、授業中に集団でぞろぞろと保健室に行ってしまうし。あの子のことが好きだったと暴露されたやんちゃ野郎は、一日中イライラした様子で、クラスメイトだけじゃなく他のクラスの生徒にまで殴りかかって、怪我させるし。  注意しても聞かないのだ。無駄になることに労力を使いたくない。  ただ、私は何もしていないわけではない。先生の言うことを聞かないと損をする。私は冷静を保ちながら、いつか生徒たちにその虚しさを味わわせてやろうと思っていた。生徒が困って頼ってきたとき、今まで散々注意を聞かなかったことを理由に突き放してやるのだ。そうすれば、生徒は自分でこれまでの過ちを反省するだろう。  やっと帰りのホームルームが終わった。あの子のことで騒ぎ疲れたのか、意外にも生徒たちは大人しく教室を出て行った。 「尾野くん、ちょっと」  私は彼に近づき、声をかけた。尾野周平はランドセルを持ち上げるのをやめ、面倒そうに私を見上げた。 「あなたは転校したあの子と、どんな思い出があるの? よかったら聞かせて」  いつも俯瞰的にクラスを見ていた彼なら、あの子について何か知っているかもしれない。回りくどい言い方になってしまったが、あの子について何か情報を聞き出せればそれでいい。  私は彼の前の席のイスに腰を下ろした。教室は私と彼の二人きりだ。  彼は冷たい目で私を見下ろした。 「言いません」 「ちょっと。どうしてよ」 「良ければって言ったじゃないですか。良くないんで」 「どうして良くないのよ」 「どうしてそんなこと言わなくちゃいけないんですか?」 「どうしてって……」  何この子。頑張って親しみを込めて話しかけたのに、居心地の悪さを感じて萎縮する。 「ただの会話よ」 「じゃあ先生はあの子のこと、どう思ってたんですか? 先生からどうぞ。会話なんですよね? 事情聴取じゃなくて」 「事情聴取なんて、難しい言葉知ってるのね」  私はどう出ようか考えていたが、いくらその場限りの言葉を繕っても論破されると感じた。小学四年生に口で負けた私は、渋々本音を話し始めた。 「あの子は、このクラスの一番の厄介者だった。あの子の気分次第でクラス全員が左に行ったり、右に行ったり。でも、あの子がいなくなって清々しているわけじゃないの。これからこのクラスはどうなるんだろう。まとめる子がいなくなったらいなくなったで、みんなバラバラになって、より手がつけられなくなるんじゃないか。情けないけど、不安なのよ」 「先生失格ですね」  尾野周平が鼻で笑いながら口にした言葉に、思わずカッとなって声を上げる。 「ちょっと、先生に向かって何ですか! その言い方」 「あの子あの子って、名前で呼ばないところですよ」  これに関しても、私は何も言い返せない。 「僕はあの子が嫌いでした。あの子のせいで、いじめられていましたから」  私は絶句した。そんな情報は初耳だった。 「あの子が僕のことを陰が薄い、暗い、そのくせに偉そうと言って、クラスのみんなが僕をいじめるように仕向けたんです。教科書に落書きされたり、靴箱にゴミを入れられたり、廊下でわざと足を引っ掛けられたり。あの子はそれを見て笑ってた」 「ごめんなさい。気付いてあげられなくて」 「気付いたら、先生は何かしてくれたんですか?」  尾野周平の声には怒りが混じっていた。確かに私は、いじめに気付いても放置していただろう。いつ来るか分からない、生徒たちが私に放置される意味を思い知るときのために。  私はかける言葉がなかった。私は、教師失格と言われても仕方ない。 「だから僕は、あの子に転校してもらうことにしたんです」 「え?」    私は耳を疑った。「転校してもらうって、どういうこと?」 「これ以上話さなくても、先生なら分かるはずです。そうですよね? 中村エリー洋子先生」  ドキッとした。どうして彼は、私のミドルネームを知っているのだろう。生徒には、私の名前は中村洋子としか伝えていないはずなのに。  尾野周平はランドセルを背負って立ち去ろうとする。 「ちょっと待って。まだ話は終わってません」 「これ以上話すことはありません。それとも、これ以上あの子について話したところで、先生はあの子の代わりにこのクラスを引っ張ってくれるんですか?」  その意味を考えている間に、尾野周平は去ってしまった。  私はしばらく、その場を動くことができなかった。
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