1年目の初め:ただの振動なんかより、

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1年目の初め:ただの振動なんかより、

「音楽って、音を楽しむモノなんだよ。だから自然に、出た音を聴いて『ああ、今日も良い音でてるなあ』って自分を褒めてあげなくちゃ。もう大学生になったら自分以外誰も褒めてくれないもんね」  いつもの食堂のテラスで、安堂はいつも通りの笑顔を作った。照明を反射する私のトランペットみたいに、夏の陽射しを反射させて、白い歯を鬱陶しいくらいに輝かせていた。 「私ね、」と私は呟く。精一杯の悪意を込めて。「音を楽しむから音楽っていうやつ、凄く嫌いなの」 「そう?」と安堂は首を傾げた。私の精一杯を、そう? の一言で片づけて、それでいてまだ笑っていやがる。チューバを膝にのせて、それに身体を預けて、スライムみたいにだらけていやがる。  鬱陶しい、忌々しい、悔しい、うざい。色々な感情がお腹の中をぐるぐる回っている。もしも私がトランペットを持っていなかったら、私は安堂を殴っていたかもしれない。あるいは安堂の奴隷のように、彼女の身体を支えるチューバを蹴り飛ばしていたかもしれない。  そうすればこいつにも、今の私の気持ちが少しは分かるかもしれない。「楽器」という、私達吹奏楽部員にとって神聖不可侵なものを、蹴り飛ばすとまで考えてしまう私の気持ちが。 「まあ、考え方は色々あるもんね」  安堂はそう言うと、小さく息を吸ってマウスピースに口を付けた。  ぼん、ぼん、とチューバの低い音が青空に響く。その瞬間に私は、さっきまでの暴力的な気持ちが、間違いであったという事を知らされる。  安堂のチューバの音は、すごい。小さくて華奢な身体から、どうしてこんなに太くて芯のある優しい音が出るというのだろう。私の皮膚を突き抜けて、内臓と心を震わせる音をどうやって出しているんだろう。間違いなく彼女はこの大学で最高のチューバ吹き――ううん、最高の音楽家だった。 「あんずゥも一緒に吹こ。ロングトーン。6拍伸ばして2拍休み。B音階で下がっていくの。初めて話した時みたいに」  安堂は私の目を見た。鬱陶しいやつ、と私は歯ぎしりをした。鬱陶しくて、怒らせるのが上手で、かつての私よりも楽器が上手で、今の私とは比べ物にならないほどの実力者。  初めて会った時から、凄い奴だと思ってはいた。凄い奴なのに、どこかおかしかった。だからこいつの事は嫌いだった。少なくとも分かり合えるような奴じゃないと、私の目にはそう映っていた。
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