4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

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*  コンクールと言うからには優劣が付く。厳密には優を付ける過程でどうしても劣が出てくるというのが正しいのだろうけど、とにかく参加する以上は優を取りたい。そして優を取るために取れる手段がいくつかあるのなら、それはすべて取るべきなのだ。 「それで、イショク?」  いつもの帰りのバスの中で安堂が首を傾げた。 「そう、委嘱。つまり今年の自由曲はお願いして作曲してもらう……というか、もう完成してて、明日届くことになってる」 「はぇ~。そうまでして金賞取りたいか、って感じ。なんだかずるくない?」 「ずるくない。強みを生かせる曲を使えるっていうのは確かにずるいかもしれないけど、私達が初めて演奏するんだから、参考演奏もなにもないところに音楽を作っていかなきゃいけない。一長一短」 「なるほどねー。……だけどなんで突然? 一昨年と一昨々年は委嘱じゃなかったよね?」 「監督も思う所があるらしいよ」  その理由は言わない。どうせ楽譜を見ればわかることだ。  楽譜管理という役職上、新譜のコピーをするのは主に私だ。各パートに必要枚数をコピーして配り、監督が使うスコアも準備する。そのついでにメロディーと思しきパートを見て、どんな曲なのかを想像する。 「精霊の道」と名付けられたその曲は、テンポはどちらかと言えば速い反面、メロディの進行はゆっくりで、さほど高い技術を求める曲ではない。反面和音はパッと見た印象では眉をしかめたくなるほど複雑で、私の理解を超える箇所がいくつもある。……そして曲の中盤に、その場所はあった。  トランペットとチューバのソロ。二つの主題を二つの楽器が奏でて、他には何の楽器も介入してこないこの曲一番の見せ場。  このチューバとトランペットと言うのが、私達虎山大学吹奏楽部の強みだ。チューバは勿論安堂。トランペットは私か、大波。監督が意識していたのだどちらだろうと考えても仕方のない事が考え事の隅から離れなかった。 「これからパート割を言います。ファーストは私と大波、セカンドは井口と村田、サードは磯部と牧村。明日の合奏はこの割り振りでいきます。でもソロの所は全員練習してくるように。……で、作曲者の先生がこの曲のお手本のCDを送ってくれました。……シンセサイザーだけどね。とにかく、それを全員で聞きに行くから、楽譜持って合奏場に行ってください」  いつもの部屋でパート割を発表したけれど、返事はあまり良い物ではなかった。ソロを練習しておけと言われても実際に吹くのは大波だろうというのが、大波以外の考えだっただろうから。 *  コンクールメンバー全員で音源を聞いて、やっぱりソロの部分でどよめきが起こった。全員が安堂のソロを期待して、それと同時にトランペットは誰が吹くのかという話し声も聞こえてきたくらいだ。 「合奏は監督の都合上、明日になるので、各パートで個人練習、パート練習をしっかり行ってきてください」  他にもう少し言う事があるような気もするが、学生指揮の林はそう言っただけで、その場は解散になった。  明日から、コンクールの練習が始まる。そういえばコンクールに出るのは久しぶりだ。今までの事は忘れて、明日からは気持ちを新たに頑張らなければならない。出だしから躓いていては監督に申し訳ないから。  けれど、いざ合奏をしてみると、完成には程遠いものだった。クラリネットは指が回っていないし、トロンボーンはアーティキュレーションが滅茶苦茶だった。出てくるところを間違えているパートさえあったし、音程や和音がぐちゃぐちゃなのは言わずもがなだった。監督は「これは時間かかりそうだねえ」と唸りながら何回か曲を止めて整理をした。  練習不足だと私は思ったし、多分他の皆も思っていただろう。あまり良くない緊張感が漂う中、件のソロの所の前で監督は指揮を止めた。緊張感が、高まっている。 「ここ、誰が吹くの?」 「チューバは私が吹きます」と安堂が言った。もう一人のチューバは彼女の後輩の正岡(まさおか)という、明るい髪のちゃらちゃらした雰囲気の男だった(「安堂が私の事をすごく好きだ」と伝えて来たやつだ)けど、彼からは「あんないい加減な先輩がソロを吹いてしまうなんて、とても悔しい!」というような意気込みは全く感じられなかった。 「トランペットは?」 「大波が吹きます」  私は、自分でこう言わなければならない事も含めて、とても悔しい。大波がここまで上手になったことは本当に嬉しい。けれど、彼女にソロを譲るということまでは喜べない。そこまで私は丸くはなっていない。 「じゃあ、その二人で行ってみよう。ソロの所から」  はい、と答えたのは大波だけだった。安堂はちらりと私の方を見てすぐに吹く事に集中しだした。その表情は酷く戸惑っているように見えた。  そして、ソロパートが奏でられる。チューバとトランペット。高音域と低音域。花形と土台。楽譜を丁寧に追う大波と、もう自分の解釈を交えて演奏をする安堂。なにもかもが正反対な二つのパートなのに、和音には確かに調和があって、思わず聞き入ってしまい思考が停止するのが分かった。……すごい。  二人の演奏はどこかちぐはぐな印象を受けたけれど、全体的な出来から言えばレベルは高かった。調和が無い、と言うべきだろうか。確かに2人は巧い。上手い2人が全く別の世界で偶然同じ曲を吹いているようなイメージだ。  ソロパートが終わると監督が指揮棒を下ろして、それに合わせて二人の演奏が止まる。監督は溜め息を吐いて、何かを考えるように唸り、それから私を見た。 「ここ、相浦は練習してる?」 「はい」 「じゃあ、安堂と二人で」  はい、と今度は安堂も返事をした。もう一度指揮棒が持ち上がり、私が息を吸い――安堂が、私のブレスと重ねるように息を吸った――振り下ろされる。奏でられるのは全く別の主題だ。けれど私の音を安堂の音が包み込んでいる。  ――瞬間、真夏の、食堂のテラスが見えた気がした。灰色だった空に、地面に、楽器に、世界に色がついていく。そんな不思議な光景がありありと脳に流れ込んできて、その感覚に指が止まりそうになる。  ……いけない。今は余計なことを考えている時じゃない。安堂と、しっかり合わせなきゃいけない時だ。いくら安堂の演奏が凄いからって、集中を切らすのはだめだ。  そのままソロパートが終えると、監督はまた指揮棒を止めた。「うーん」と顎に手を当てて何かを考えている。 「大波の方が上手なんだけど、相浦の方が雰囲気でるんだよね」と独り言のように呟いて、どちらがいいかを考えている。  ――気に喰わない。安堂は私を見てにっこりと微笑んでいた。大波も何故か私を見て、何かを言いたげな表情をしていた。どちらも無視。とにかく気に喰わない事ばっかりだ。  結局、その日にどちらがソロを吹くか決まることは無かった。 * 「全国大会にいつも出てるんだから、勝負になるのはやっぱり支部大会抜けてからでしょ?」 そんなことを高校時代はよく言われたものだけど、とんでもない。当然のことだけど支部大会を抜けなければ全国大会には出られないのだから、むしろ支部大会の前が一番ピリピリしていると言っても良い。 「私時々考えちゃうんだけど、関東大会で落ちたらって思うと、ちょっと怖いよね」  安堂でさえ弱気になることが今の吹奏楽部の空気を物語っている。そしてその原因の1つに、私と大波と、間接的に安堂が関わっていると思うと、居心地が悪くなるのも確かだ。  この3人が関わるという事はつまり、件のソロパートについてだ。大会まで一カ月を切っていても、いまだに私と大波のどちらが吹くかは決まっていなかった。 「とりあえず関東大会でどっちが吹くかは、合宿までには決めたいと思ってるんだよ」  ある日の合奏中に監督は独り言のように呟いたけれど、その合宿はもう下に迫っていて、どちらが吹くかと言う決定はなされていない。部の中では時々、私と大波のどちらが吹くべきなのかをテーマに議論する光景も見られた。 「なんで大波に吹かせないんでしょうね。相浦先輩って時々音(はず)すじゃないですか。やっぱり先輩だからっていう理由で優遇されるんですか?」  そして今日はサックスパートでその話が行われているのが聞こえてしまった。 「……確かに大波さんの方が安定感あるけどね」と諌めたのは小林さんだった。そのまま小林さんはとても困ったような口調で話を続けた。 「安堂と相浦さん、すごく相性良いしね。なんていうか大波さんと吹いてる時よりも質が違うっていうか、息ピッタリっていうか……。上手く吹けたときは相浦さんの方が素敵じゃない」  反論するその後輩の声には、迷いが無かった。 「それは分かりますけど、でもコンクールだったらどっちの方が良いかなんて、分かり切ってるじゃないですか。相浦先輩に吹かせて音外されたら、私達負けちゃいますよ」  そこまで聞いて、私はその場を離れた。私が上手く吹けないのは事実だから何を言われても仕方ないけれど、小林さんの言葉は私の傷を舐めるような感じがして、嫌だった。その舐め方も理にかなっているならマシなんだけど、小林さんのフォローには一つだけ決定的な見落としがあるのだ。  それは、相手が安堂だという事。あいつは入部当初から、人に会わせるのがずば抜けて上手な奴なのだ。「私には合わせられるけど、大波には合わせられない」という言い訳が通用するほど、あいつは下手じゃない。要するにあいつは、大波と吹くときだけ手を抜いているのだ。  安堂が何を考えているか、私には分からない。けれど安堂の、音楽に真摯になれない姿勢は、本当に嫌いだ。  外に出て、いつも通りのブレストレーニングをして、ロングトーンをする。基礎練習を一通り終えて、「精霊の道」の楽譜を見て、楽器を構える。  それからゆっくりとソロパートの音を追っていく。静かで、少し寂しさを感じるようなメロディ。でもチューバもどこか寂しそうな曲想で、2つのそのメロディはいつしか長調になって、後半の主題へとつながっていく。 「分かってるとは思うけど、トランペットとチューバだけだから、ミスはすぐに目立つよ」  監督がそう言ったのを思い出した時、吹いていた音が潰れた。音楽に入り込んでいた自分が、ぐいっと現実に引き戻されるような感じだ。  監督の言葉を追うようにして、昔父さんに言われた言葉がよぎる。 「その程度の実力で、音楽に入り込める気でいるのか」  そんな気はなかった。けれど気が付けば考えることを辞めて、耽溺しそうになる自分が恥ずかしい。 「よく頑張って盛り返したね」という監督の言葉も確かだ。褒められたのは嬉しかったけど、私はこの程度じゃなかったはずだとも思う。ため息が漏れる。昔の事を思い出したって上手になる訳じゃないのに。  テンポを落としてもう一度ソロを吹く。ゆっくり吹いていれば、今度は音の変わり目の雑さが目立ち、自分でも呆れてしまう。 今の私では大波ほど丁寧には吹けないのに、それなのにどうして私がまだ選択肢の中に残っているんだろう。忌々しくて仕方ない。こんな大切なところであっても、私は安堂の手の上なのかと思うと、一種の絶望さえ感じたほどだ。  明日から合宿が始まる。大学に入って初めての合宿なのに、やる気ではなくてモヤモヤとした気持ちだけが重なっていった。 *  私がどう思おうと、合宿は始まる。1つ意外だったのは、いつもは何かにつけて文句を言う安堂が、今回に限っては何も言わなかったことだ。 「まあ、さすがに3回目だしね。演奏旅行に比べりゃマシだし」 「ほら見ろ演奏旅行行って良かったろ」と言うと、安堂はオエーっとなにかを吐き出す真似をして 「はいはい、あんずちゃんの言うとおりでちゅねー」と流していた。 「私は初めてだから、ちょっと緊張するかも」と間に入ってきたのは小林さんだった。 「別に緊張する事なんか何もないよ。朝から晩まで練習して、最後に演奏会開くだけ。……あ、でも途中でカレー作ったり肝試ししたり、夏っぽいイベントは毎年あるね」 「そんなことしてる時間があったら練習すれば良いのに」と言うと二人は息を揃えて 「面白くない子ね」と私を蔑んだ。合宿に行くのに面白さが必要なのだろうか? *  合宿施設は予算の兼ね合いも含めて、「自然の家」的な施設で行われるのが通例だ。山の上のその施設に着けば、バスから荷物を下ろし、部屋に運んでいく。部屋は4人1部屋で、私、安堂、小林さん、トランペットの村田の4人だった。 「うげ、ベッドせま……」  足の長い小林さんとしては辛いところだろう。けれど安堂は慣れているからか、少し楽しそうだった。 「そう? 私のは広いから交換してあげようか?」 「同じ広さでしょうが!」 「あらごめんなさいね。でもこういうところに日頃の行いの差が出るのかもしれないわね。おーほほほ」  何をはしゃいでいるんだか、と呆れていると村田が「ねぇ、あんずゥ」と耳打ちをしてきた。 「あの2人、いつからあんなに仲良くなったの?」 「知らん。別に興味ないし」  とにかく安堂が退部する心配をしなくて良いのなら、私はそれでいいのだ。
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