4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

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 合宿の練習は、パート練習とセクション練習が主体になってくる。監督が木管か金管のセクションを重点的に指導して、その合間に残ったパートは各々練習をするという体制だ。自然の家という施設の立地上、静かで気が散るようなものもなく、練習をするにはもってこいの環境で、全国大会への出場権を狙う。  今日は木管のセクション練習となっているので、トランペットは会議室を借りてのパート練習だ。 「最初の所、音程は今のままでいいからバランスをもっと考えて。自分の大きさだけじゃなくて、他の人との関係で覚えるようにして」 「ここのディクレシェンド、なーんか合ってないような気がするんだけど、あんずゥ、どうかな?」 「び、Bの所なんですけど、その、はやいパッセージではあるんですけど、な、なんていうか、音の粒が揃ってないので、み、皆さんが、どういう、ふ、吹き方なのか、共有して、そ、揃えれば、いいかな、と……」  トランペットの士気は十分で、10畳くらいの部屋では意見が飛び交っている。良い練習だ。けれど監督の言っていた通り、大波以外はスタミナが無い。ちょっと吹いたら息が上がって、ベストな演奏が出来なくなってしまう。体力をつける為に頑張って吹いても良いのだけど、頑張りすぎて変な癖がついても本末転倒。そのあたりの調整が難しく、個人的にはなかなかもどかしい。 「20分くらい休憩しよう。しっかり休んで、ちゃんと吹けるようにしといて」  はい、という返事にもあまり元気がない。私としてはもっと吹いていたいのだけど、休憩中にそれをやってしまうと変にプレッシャーを掛けかねないので、大人しく外で吹く事にした。  外は暑さを覚えるほどに快晴だった。自然の家を名乗るだけあって、空気がどこか爽やかな感じがする。毎日こんなところで楽器が吹ければ、きっと気持ちいいだろう。でもそれよりも嬉しいのは、いろんなところから、各パートの音が聞こえてくることだ。音楽に囲まれていると気持ちが落ち着いていくのは、昔からの事だ。  その中で、ひときわ心を引くのは、やっぱり安堂のチューバだった。チューバは個人練習をしているのか、彼女の後輩とは別の所から聞こえていた。  安堂はテンポを落として、楽譜を緻密にさらっていた。彼女のチューバは吹いていくたびに新たな発見をして、やり直す度により良い物へと変化していく。ただの伴奏なのに、油断してしまえば涙が零れてしまいそうなほど美しい音色に魅かれて、気が付けば私は彼女のチューバが聞こえる方へと歩き出していた。  安堂は施設の駐車場の真ん中まで椅子を持って行って、そこで吹いていた。背を向けていて私にはまだ気付いていない。勝手に椅子を持ち出すなとか、車が通ったら危ないだろうとか言うべきことはたくさんあるはずなのに、身体は動かない。青々とした木々に向かって、木漏れ日の中でじっと動かない彼女のチューバを、もっと聞いていたい。  安堂が吹いている伴奏は、メロディが聞こえてくるようだった。少なくとも、私は自分のパートを頭の中で追っていて、それに合わせて指も動いたくらいだ。けれど安堂はソロの前で吹くのを辞めた。  それから楽譜をじっと見つめて、意を決したように楽器を構え、息を吸った。  私もそのブレスに合わせて、息を吸い、安堂に合わせていた。  チューバとトランペットの、寂しげな掛け合いから始まるそのソロは、吹いている私でさえ引き込んでいく。二つの楽器は全く違う主題を奏でているのに、ふとした場面で調和が生まれる時がある。そんな場面が増えていって、次第に明るくなって、一つの主題を奏で始めていく……  ぱひゅ、と私のトランペットから潰れた音が鳴った。1秒にも満たないその潰れた音は、私を冷静にさせるには充分だった。――こんなところで安堂と遊んでいる場合じゃない。  吹くのをやめて時計を見ようとした時に、安堂のチューバも音を出すのをやめていた。 「あれ、やめちゃうの?」と安堂は振り向いて、ぱっと笑顔を作った。 「やっぱりあんずゥだった。大当たりだ」 「私じゃなかったら何か問題でもあったのか」 「そういう訳じゃないけど、嬉しくってさ。なんか、1年生の時を思い出さない? ほら、初めて二人でロングトーンした時」 「思い出さない」  わざわざ思い出すまでもない。あの日が無ければ、私は今、ここに立っていないのだから。 「それに思い出したところで、だから? って感じ。こんな状態でしか吹けないんだから合わせるんじゃなかった、っていう後悔の方が強い」 「うーん、ストイック」安堂は笑った。 「でもね、あんずゥ。関東大会は最後まで一緒に吹こうね!」  親指を立ててグッドラック! とでも言い出しそうな顔だ。今の私と大波を比べて、関東大会ではどっちが吹く事になるかっていう事くらい、安堂なら分かるはずなのに。  あいつはどういうつもりなんだろう。私の事を気遣っているのか、それとも本当に、私と一緒に吹きたいのか。安堂の考えることは、私にはとても分からないけれど、どっちにしてもあいつは間抜けだってことは分かった。 *  私にはよく分からないけど、練習ばっかりだとモチベーションがどうしても低下してしまうものらしい。百歩譲ってその通りだとして、モチベーションを上げるためにどうしてカレーを自炊する必要があるのか、私にはさっぱり分からない。しかも私と同じ班には 「はははは! あんずゥよ、私のカレーを食べておいしさのあまり土下座するがよい!」とよく分からないテンションの安堂と、 「土下座するのはあんたでしょ。日頃から相浦さんを振り回してるんだし」という怒っている小林さんと、 「ああああのあのあの、が、頑張ります」という小さくなる大波がいる。後の男子数名はともかく、どうして私の精神を摩耗させるメンツが勢揃いしてるんだ。 「よっし、役割分担ね。男の子は火を起こす。小林さんは奴隷のように水を汲んでくる。しずくちゃんはお米を洗って、私が野菜を切っていく。あんずゥは私の美技に酔いしれる」 「誰が奴隷だって?」という小林さんの文句以外は誰も何も言わず、安堂の言う通りになった。 「相浦さんだって何かしないと暇でしょ。一緒に野菜切りなさいよ」 「包丁も持った事のないオヒメサマには荷が重いでしょ。指でも切ったら大変だし」  言い返すべき言葉なんだろうけど、事実安堂の言う通りでぐうの音も出ない。となると、本当にやることが無くて、安堂の包丁さばきを見ているのだけど、確かに美技と言っていいほどに手際が良い。他の班の進行具合と比べてみても、安堂一人の作業速度は群を抜いていた。 「すごいな」 「まあね」  いつもなら自慢の1つや2つが入るのだろうけど、それ以外は何も言わなかった。安堂がかっこつけてるのか、それとも会話をすると指を切りそうになるのか、何か他に言いたい事があるのか。多分、最後のだろうと私は思っていた。 「……あのさ」と小さな声で安堂は訊いた。6人分のジャガイモを全て切り終えた時だった。 「しずくちゃん……大波さんって、あんずゥと高校が同じだったんだよね?」 「ん? うん、そうだけど、どうかした? お前が人のこと気にするなんて珍しいな」 「まあね。どんな子なのかなーって気になるじゃない」  なんで気になるのかと訊かれれば、きっとソロの事について思うところがあるのだろう。 「見たまんまの奴だよ」 「過剰に謙虚で腹が立つって事?」 「それもあるけど、才能があるのに真面目だ。どこかの誰かと違って」 「良い見本がいたからじゃない?」  安堂は笑いながらピーラーでニンジンの皮を剥いていく。まるで機械のような手際で、橙色の帯をまな板の上に落としていく。 「あんずゥの言う誰かさんは、良い見本がいなかったからグレちゃったんだよ、きっと」 「それは違うかな。私は良い見本じゃないよ。良い見本だったら、あいつはもっと堂々としてたと思う」 「もしそうなら」安堂のその言葉には棘が生えていた。「あんずゥというものがありながら、贅沢だね。あの子」  安堂がそういう言い方をする時は、本当に怒っている時だと私は知っている。横目で見た大波は、お米に対して申し訳なさそうにヘコヘコしながら拝み洗いをしていた。私達の会話は、きっと聞こえていない。  安堂が何に怒っているのかは分からないけれど、ソロに関する問題の根幹はここにあるのではないかと思った。 「怒るのは勝手だけど、それを演奏に持ち込むのは止めてくれ」  ふふっと笑う安堂は、もうニンジンを切り始めている。小気味よい音を立てる包丁と違って、安堂の物言いはねちっこい。 「私、あんずゥみたいに大人でもないし、サイボーグでもないの。視力だって裸眼で2.0あるのよ?」  最後の一言は意味不明なジョークだとして、要するに安堂は大波とは吹きたくないという事を私に言ったのだろう。そういう子どもじみた事を主張する場所じゃないと言っても、私と大波のどちらが吹くかを決めるのは監督だと言っても、安堂はどうせ聞かないと私は知っている。 「よっしゃ! 野菜切れたよー。奴隷は水を汲んでこーい!」 「だれが奴隷よ!?」  楽しそうに見えるけれど、安堂は怒っている。私だって子どもじみたお前に怒っているんだと言った方が良いのだろうか。もしそうしたとしても安堂は聞いてくれないに決まっているのだ。  *  次の日のセクション練習で、関東大会のソロは大波が吹く事に決まった。監督のその決定を、安堂は眉ひとつ動かさず静かに、けれど明らかに不服な表情で、その決定を聞いていた。
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