4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

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 組み合わせが決まっても、安堂はやる気を一向に見せない。監督に不審に思われないくらい、他の部員に怒られない程度に彼女は手を抜いて、曲の仕上がりをどこかぎこちないものにしていた。ある意味上手に吹く事よりも難しいかもしれない。どうしてそんな事にこだわるんだろう。大波だって才能あふれる子で、安堂が願ってやまない人だったはずなのに。 「相浦さんと吹いてる時みたいにできない?」  一度だけ、学生指揮の林がそう言ったことがあった。安堂は少し困ったような声で曖昧な返事をしたけれど、今のところ変化は見られない。 「関東大会も、今のままで吹く気?」  帰りのバスの中でそう訊くと安堂は「もちろん。私はいつだって本気だから」と白々しく答えた。 「あんずゥこそ、本気で吹いてるのかしら? 私にはあんまりそういう風には見えないんだけど」  人をコケにするのが、本当にうまい。けれど私にこういう言い方をする時は、もっと他に言いたい事があるのだという事を私は知っている。何でこいつの事がこんなに分かるんだと思うと、何とも腹立たしい気持ちになってくる。 「当たり前だろ。お前みたいにへらへらして吹いてないんだから」 「あはは、そうだよね。あんずゥはいつも本気だ」  笑う声には力が無かった。安堂は寂しそうに私を見て言った。ここから、こいつの本題だ。 「それで、いつになったら私に追い付いてくれるのカナ?」  その言葉への返事は、今の私には無い。追い付けるならすぐにでも追い付いて、とっとと抜き去ってしまいたいけれど、このままのペースでは今年中には、と言われると厳しいものがある。  じっと私を見つめる安堂は、どこか怖い。得体のしれない怪物が睨みつけているような怖さじゃなくて、吊り橋が風に吹かれてゆらゆら揺れるような怖さだ。あとは何かのきっかけがあれば綱が千切れて壊れてしまいそうな危うさがある。そして、その危うげな橋の上で立っているのが、きっと私。 「コンクールで復活したあんずゥが、ずっと追いかけて来た私とソロを吹いて世間をちょっぴり賑やかす。結構いいストーリーだと思うんだけどなあ」   「……なんで私にそんなにこだわるのかよく分からないな。私がいなくても、お前のソロだけで聴いた人はびっくりするよ」 「そう言ってくれるのは嬉しいんだけどさ、ソロの相手が大波ちゃんじゃ意味が無いのよ、あんずゥ」  コンクールはオアソビじゃないんだぞと声に出して指摘するのもバカらしかった。この好き嫌いさえ無ければ、安堂の音楽は私だけじゃなくて皆が認めるものになれるのに。腹が立つのは安堂に対してだろうか、それとも安堂にこんな事を言わせている、私の不甲斐ないトランペットに対してだろうか。 「これが最後のコンクールなんだよ。私達ひょっとしたら、もう片手で数えるくらいしか一緒に吹けないかもしれないんだよ」 「関東大会は、1回だけなんだぞ」  そう言うと安堂は黙った。バスが駅前の停留所に着いて、ブザーが鳴って扉が開き乗客がゆっくりと降りていく。言うことが無いなら言葉を待つこともないと、私も乗客の流れに合わせて立った。その時安堂が小さく呟いた。 「その1回を、私はどうにでも出来るんだよ」  食い付けば彼女のペースになると思って、私は聞こえなかった振りをして、その日はそれで別れた。 *  私の意思に関係なく合宿が始まったように、安堂の思惑がどうあっても関東大会の日はやってくる。関東大会から全国大会に行ける枠は15校の中から3校。決して開かれた門ではないのだ。  だからこそ集中しなければいけないのに、安堂のことが気になって仕方ない。何かおかしなことを考えているんじゃないかと言う不安が、どうにも拭いきれない。もしも私がソロを吹く事になっていれば、こんな不安とは無縁のものだっただろう。むしろこんな気持ちになっていることも、安堂の考えに嵌っているような気がして腹が立ってくる。  会場に向かうバスの中でも、どうしても気が晴れない。朝だって言うのにぐったりとして、何かがまとわりついてるような気がする。他の皆はなにも思わないんだろうか。私だけが、こんなにやきもきさせられているんだろうか。 「相浦さん?」隣に座っていたのは小林さんだった。この人だって相当面倒臭いけど、安堂よりは幾分マシだ。 「大丈夫? 気分悪そうに見えるけど」 「気分悪くても私が吹かなきゃダメなんだから、だから大丈夫」  そう言うと小林さんは「ふっ」と吹きだした。 「前にもそんな感じの事言ってたよね。ほら、2年前。最初のガードの本番の時」 「……ああ、言ってたね」 「相浦さんって、本当に真面目だよね。それで身体壊さないか、私ちょっと心配かも」  真面目なんだろうか、といつも思う。私としては当然のことなんだけど。 「少なくとも、今日に限っては大丈夫だよ。今日の為に頑張って練習してきたんだから、不調だなんて言ってられない」 「そう、そうよね」  小林さんは自分に言い聞かせるように強く頷いた。彼女とこういう話をしていると、確かに一昨年のあの本番が思い起こされてくる。  必死に努力して小林さんや木下先輩に何とか食らいついていったのに、それでも何の練習もしていなかった安堂に力の差を見せられたあの本番。夜に安堂が胸の内を吐露したあの日。――確かに誰も安堂の事を見ていないか知れない。でも安堂、お前は本当にすごい演奏者なんだぞ?  ――また安堂の事を考えている。それに気付くと自分が嫌で眉をひそめる。自分の思考に溜め息を吐いて、鞄からスコアを取り出して最後の確認をすることにした。 「こんなところで見なくても良いでしょ」と小林さんは呆れていた。   *  会場に着けば、まずは楽器の積み下ろしを行う。トラックからチューバや大きな打楽器をみんなで降ろして、必要に応じて組み立てを行う。トラックの中で頑張る一年生男子には足を向けて寝られない。 「ありがとね」と安堂の声が聞こえた。トラックに乗る男子から自分のチューバを受け取った安堂は、あくまで爽やかだった。 「いえ、いいんです。ソロ頑張ってください」と汗だくになっている1年生に親指を挙げて安堂は応えていた。  楽器を降ろせば打楽器と管楽器で別行動をとることになる。打楽器の動きはさっぱり知らないけれど、管楽器はリハーサルを行うことが出来る。この時間を無駄にしてはいけない。  リハーサル室でパートごとにチューニングを行う。トランペットのみんなは緊張しているのか、音が少し震えている。特に村田。普段の練習でこんな情けない音を出されたら思わず怒鳴ってしまいそうだけど、今威圧するようなことを言ってはいけない。あと数十分後に同じような音を出してしまえば、全国大会に行くことは出来なくなるのだから、緊張して当然だ。  その点、大波は落ち着いていた。練習より良くなることも悪くなることもない。普段の態度とは裏腹にふてぶてしいくらいの舞台度胸がある。 「舞台に立てば緊張するだろうけど、」とチューニングが終わってから皆に言った。「やることはいつもと違わない。練習通りやれば結果はきっとついてくるから」 「だってさー、正岡ー」と安堂が言った。トランペットパートの返事が、その声にかき消されてしまうくらいに大きな声だった。 「さすが相浦先輩、パネエッす、カッコいいっす」  正岡は目を輝かせて私と安堂を交互に見ていた。不良と舎弟という言葉が浮かんだ。二人ともいつも通りだ。舞台度胸に関して言えばチューバが一番あるんだろう。そこに関しては私も見習いたいくらいだ。 「監督がいらっしゃいました! リハやります」  林の声がして、全てのパートが所定の位置に着く。全員が動かなくなったのを見て、監督は小さく呟いて指揮棒をあげた。 「アタマから」  はい、と全員の返事が揃う。大丈夫。きっとできる。 *  リハーサルが終われば、すぐに本番、だと良いんだけれど、移動や待機で10分程時間が空いてしまう。  舞台袖で前の団体の演奏を聴いている時が一番緊張の度合いが高くなる時だろう。ただ、前の団体はそれほど上手ではなかった。練習したことを上手く出しきれていないのか、それとも元々こんなものなのか。後者だと思う事が、私の緊張を和らげる方法だった。いままで練習してきたことが、この一回の演奏で出しきれないのは、あまりに悔しい。全国大会に行けないにしても、持てる全てを出し切って、後悔の残らない演奏がしたい。 「さ、相浦先輩」  大波が囁く。 「か、上手(かみて)ですね。なんだか、褒められてるみたいで、う、嬉しいです」  大波の指差す方向には「上手」と書かれたA4くらいの紙がコンクリートの壁に張り付けられていた。見方によっては上手(じょうず)と読めなくもない。 「……まあ下手(しもて)よりは良いか」 「そ、そうですよね、そうですよね……。あの、先輩。私、頑張ります。頑張って良い演奏をします。だから――」 「舞台袖で喋るな」  前の団体が頑張って演奏してるんだからちゃんと聞きなさい。そういうと大波はシュンとして小さくなった。こんなところで喋り出すなんて、大波らしくない。ひょっとして大学で初めてのコンクールでいきなりソロを任されて緊張しているのだろうか。それこそ大波らしくない。 「大丈夫、上手く出来るよ」  彼女の肩を叩いて、少し揉んであげた。――特別な硬さはない。緊張しているのかもしれないけど、よく考えれば日頃から緊張しているやつだった。 「ひゃ――ひゃぃ」  変な返事をして、大波は逆に硬くなったけれど、しばらく揉んでいると力が抜けて柔らかくなってきた。肩の緊張は呼吸を阻害するから、ちゃんととっておかないといけない。 「あ、あ、ありがとう、ご、ございます」  そう言って振り向いた大波の表情は変わっていた。何かの覚悟を決めたような、まっすぐな目だ。 「いつも通りでいいから、気負うなよ」  その言葉に力強く、大波は頷いた。大波はきっと大丈夫だろう。だからどうか安堂が、この子の本気に応えられる演奏をしてくれますようにと私は祈っていた。  舞台での演奏はその時に止まり、拍手が聞こえた。まさしく割れんばかりの拍手なのだろう。きっと、今演奏している学校のコンクールに出れなかった人や、応援するOBや、保護者の拍手だろう。彼らにそういう人がいるように、私達にもそういう人達がいる。だから、じゃないけど、それが頑張る理由には充分だと、自分に言い聞かせて、息を吸う。  その息を全部吐き出した時、舞台への移動が始まる。ここまで来て掛ける言葉もかけられる言葉もない。ただ、やってきたことをすべて出し切るだけだ。  舞台での演奏はその時に止まり、拍手が聞こえた。まさしく割れんばかりの拍手なのだろう。きっと、今演奏している学校のコンクールに出れなかった人や、応援するOBや、保護者の拍手だろう。彼らにそういう人がいるように、私達にもそういう人達がいる。だから、じゃないけど、それが頑張る理由には充分だと自分に言い聞かせて、息を吸う。  その息を全部吐き出した時、舞台への移動が始まる。ここまで来て掛ける言葉もかけられる言葉もない。ただ、やってきたことをすべて出し切るだけだ。  照明の消えた真っ暗な舞台に上がり、雛壇にのぼり、椅子に座る。暗くてもいつも通りの見慣れたコンクールメンバーがいるのが分かって、そのむこうに見える客席は満員の人で埋め尽くされていた。立って見ている人もいるくらいだ。心臓が高鳴るのが分かる。やっと、この舞台に来れたんだと、喜びのあまり叫び出しそうになる。  そして、これだけの人の前で安堂がソロを吹くのだ。安堂はきっといつも通り、危なげない演奏をするだろう。そして多くの人は驚愕するだろう。安堂の音色に、技術に。  こつん、と靴が舞台の床を叩く音がした。こつん、こつんと監督が靴を小さく鳴らし指揮台に近付いて、昇る。スタッフの人と何かを少し話して、やがて舞台袖に引っ込んでいく。それからゆっくりと、舞台の照明が付けられる。眩しくて目を細めても、監督がいつもの表情で立っているのは分かった。 「――プログラム、8番。虎山大学吹奏楽部」  ナレーションが曲目まで言って、監督が客席に向かってお辞儀をする。儀礼的な拍手。それからおもむろに振り向いて指揮棒を構え、全員が訓練された軍隊のように楽器を構える。監督は私達を一瞥して、スッと指揮棒を振り上げる。それと共に息を吸って、下ろされたのと同時にハーモニーが響く。課題曲が始まる。 *  曲を吹いている時の記憶というものが、今までの演奏経験を通して見ても私には残っていない。それはきっと集中しているからだと高校の先輩に言われたことがある。  気が付けば課題曲は終わっていた。あらかじめプログラムされていたロボットのように譜面をめくり、自由曲の楽譜を開いていた。  監督が客席には見えないように、胸の前でグーサインをした。大丈夫だったんだ、と自分に言い聞かせる。心臓は速く動いているのかもしれない。身体は今、凄く熱いのかもしれない。けれど、何も気にならなかった。身体に残っているのは、言葉に言い表せない充足感だけだ。もっと音楽がしたい。もっと、満たされていたい。  指揮棒があげられ、楽器が構えられ、曲が始まる。フルートとクラリネットで始まる穏やかな主題。幻想的な絵画を思わせる曲で、悪くない入り方だ。  楽器を構えて、息を吸う。音程だって悪くない。違和感が無いという事は、きっと練習通りに出来ている。トランペットもトロンボーンも、ホルンもユーフォも、チューバも、――安堂も。  安堂の音は、いつもの通り美しかった。湖の底に落ちてしまった宝石みたい。目立つことは決してないけれど、確かにきらめいていて、それに気付いた人は間違いなくその光に見惚れてしまう。水底に引き込む悪魔のようでさえある。  けれど、その輝きが水底から現れようとしている。大波とのソロで、その輝きにきっと全ての人が酔いしれる。その場面を想像すると鳥肌が立ってしまう。演奏中だと言うのに、その時が楽しみで仕方ない。  曲は前半の終わりを迎えていく。ディミヌエンドと共に徐々に楽器が減っていく。安堂も楽器から口を離した。クラリネットとフルートだけが残って、二人のソロの為に静かにメロディを奏でている。胸の高鳴りが、止まらない。  安堂がゆっくりと息を吸う。流れるようにマウスピースに口を近づけて、指揮棒に合わせて音を出す――  ひやり、とした。  全身に吹き出たのは、汗だ。身体の芯が寒くなった。――低い。  明らかに音程が低い。致命的な低さだと思った。大波が高いのではと疑ったけど、どう聴いても違う。音が低いのは、安堂の方だ。嘘だと思った。安堂が、そんな訳――  監督も目を見開いて安堂を見ていた。安堂の顔は、私の方からは見えない。けれど、何かを修正しようとする意志も姿勢も感じられなかった。  違和感があったのは、時間にすれば2秒ほどだったかもしれない。横目に映る大波は、顔色一つ変えず主管を抜いて安堂に音程を合わせていた。監督は何事もなかったかのように指揮をしていた。けれど、安堂と大波の2人の音程は低いままだった。  違和感があったのは、時間にすれば2秒ほどだったかもしれない。横目に映る大波は、顔色一つ変えず主管を抜いて安堂に音程を合わせていた。監督は何事もなかったかのように指揮をしていた。けれど、安堂と大波の2人の音程は低いままだ。  隣に座っていた村田が楽器を構えた。それにつられて私もトランペットを口元に持っていく。ついさっき起こったことが、まだ信じられなかった。それでも私は息を吸って音を出していた。
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