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「相浦(さうら)あんずです。飛鳥第三高校から推薦で来ました。よろしくお願いします」
そう言うと、トランペットパートの先輩方はざわめいた。総勢20人、屋外の小さなステージをいっぱいに使って円を作っている。なんでも休憩という事らしい。そんなのは1人1人のペースでやればいいと思うのは、私だけだろうか。
「飛鳥第三かよ」
私の心のうちも知らずに、先輩の一人が言った。「そう言えば、去年の全国大会でソロ吹いてなかった?」と続けた。「はい」と私は小さく胸を張った。ウィンド・ジャーナルにも絶賛されたあのソロを吹いたのは、ほかならぬ私なのだ。
「じゃーあー、あんずゥ、」パートリーダーの山下先輩が手をグーにして私に向けた。髪を茶色に染めて、爪も長い上に真っ赤な色に塗りあげている。ギャルみたいなこの人がパートリーダーとはあまり信じたくない。
山下先輩は舌足らずなのかそれとも狙ってやっているのか、独特な喋り方で私に言った。
「オーディションに受かってぇ、トランペットパートに入った訳だけどー、何を目標にして頑張っちゃいますか?」
気だるげな話し方で、山下先輩はグーにした手を私の口元に近付ける。その手をマイク代わりにして喋れという事だろうか、めんどくさい。あと香水の匂いが凄く甘ったるい。思わず身体を引いてしまいそうになるけど気圧されちゃいけない。いずれ私はこの人を超えていくのだ。だから、引け目を見せてはいけない。堂々しておかないといけない。
「コンクールにでて、全国大会金賞に貢献することです」
いよっ、という歓声が上がって拍手が。なかには「うぇーい」なんてよく分からない奇声も聞こえた。ほかの1年は青い顔をしてる奴もいた。「よくもそんな恐ろしいことを」という気持ちがテレパシーみたいに伝わってくる。「てめえみたいなフヌケはバズィングでもしてろ」と私は念を送り返す。
「まぁっじめー」と山下先輩は笑みを浮かべた。不敵、という言葉がぴったりの表情。
「期待しちゃおっかなぁ、頑張ってねぇ、あんずゥ」という言葉も遠巻きに「あなたには負けないよ」と宣言されている気がした。上等。私は誰にも負けない。
「山下せんぱあい、1年にケンカ売ったらダメですって」
男の先輩(たしか荻原と呼ばれていた。何年生だったかは忘れたけれど、この人もなかなかの実力者だ)がたしなめる様に言った。「はぁいはい」と山下先輩は変わらない口調で答えた。
「そういえば、さ」別の女の先輩が言った。
「チューバにやばい奴が入ってきたらしいけど、知ってる?」
知らない、と思ったし私の話題がそこで途切れたことに少しの苛立ちを覚えた。「とんでもない奴」と言うのなら、私だってそうだ。
「知ってるよん」と答えたのは山下先輩だけだった。
「チューバって今年ぃ、推薦2人もとったじゃん? でもそのやばい子、推薦の2人よりもずっと上手なんだってー。ひょっとしたら推薦で来た子のどっちか、別のパートやらなきゃダメになるかもね」
「えぇ……」と1年が言った。「かわいそう……」と呟くやつもいた。
フヌケめ。私はそう思った。そもそも腹から声が出ていない、腹筋とブレストレーニングでもやっとけ。
私はと言うとほっとしていた。自然と笑みがこぼれたくらい。この学校は年功序列にとらわれない、実力主義の世界なのだと思った。嬉しいったらない。自分よりもヘタな奴が、先輩だと言うだけでソロを吹くという事は音楽への冒涜だ。そんな事をすれば音楽はその力を失ってしまう。立場はどうあれ、上手な奴が吹くべきなのだ。
「そろそろオーディション終わるころじゃないかなあ」山下先輩は腕時計を見ていた。
「私ちょっと見に行ってみるー。誰か一緒に行かない?」
「行きます」と私は誰より早く答えていた。それから荻原先輩も手を挙げて、3人で練習場へと向かった。私は「やばい奴」がどんな奴かを見てみたかった。そいつは私の中の、実力主義の象徴となるべきだった奴なのだから。
練習場の玄関前に6人が横一列に並んでいる。チューバのオーディションは終わり、まさにこれから結果が発表されようというところだった。その6人のうち、特徴的なのは分銅を500倍にしたみたいな男と、「好きな飲み物は牛乳です」と言わんばかりの長身女。
それから、その2人の間に埋もれてしまいそうな小さな体の女子。女児という言い方の方がしっくりきそうな奴だった。他の3人はとりたてて特徴が無かった。ゾンビ映画なら真っ先に死ぬような奴だ。
その6人に男の先輩が何かを言っている。
「真剣な川島なんか珍しー」と山下先輩は呟いた。チューバのパートリーダーは川島というのだと荻原先輩が教えてくれた。
しばらくして女児が小さく頷いた。2拍ほどの間をあけて巨漢が小さくガッツポーズをした。オーディションに合格したのだろう。残りの4人はピクリとも動かなかった。
「受かったねぇ」と山下先輩。「オーバンクルワセだ」
「座布団でも飛ばしてきましょうか」荻原先輩がニヤニヤと笑っている。「やってきていーよ。見てるから」と山下先輩は笑った。「どういうことですか」と言ったのは私。
「相撲部とバレー部みたいな子いるっしょ?」――その方がわかりやすいな。
「あの2人が推薦でぇ、その間の幼稚園児が『やばい奴』。こっから見る限り、バレー部は落ちちゃったみたい。可哀想にねぇ、コンバートだ」
コンバート。つまり別のパートに移動させられる事。ゾンビ映画の3人組は入部を辞退するという手段もあるけれど、バレー部は推薦で入学してる以上、それはできない。別のパートで1からやり直さなければならない。
「うちのパートだって4人落としたっしょー。コンバート先はクラリネットかぁテナーサックスだろうね」
山下先輩は非情なことをすんなりと言った。たった今まで工事現場で働いていた人が、明日から文部科学省で働かなければならない、というくらいの事。
バレー部は肩が震えているように見えた。「泣いてるのかな」と荻原先輩もそれに気付いたみたいだった。けれど仕方ない、と私は思う。バレー部(仮名)さん、あんたは負けたんだから、勝者に道を譲らないといけない。嘆いて良いのは自分の練習不足なんだよ。
―――
吹奏楽界に聞こえた強豪校、虎山大学。キャンパスの外れに専用の練習場を与えられ、その上なお多くの予算を計上される巨大な部活。イングリッシュホルンにコントラファゴット、ハープ2台にチェレスタ1台、ティンパニは4台カケル2セットの8台も置いてあると言えば、どれほどの規模か分かってもらえるだろう(分からない人には申し訳ないけれど、とにかく高い楽器が沢山あるのだ)。
その新入部員はすべてのオーディションを終えて、何人かの退部者を出してしまっても、40人を超えた。
この40人が最初にやるべき事、それは先輩全員を前にしての自己紹介だ。名前、学部、出身校、所属パート、女子は好きな異性のタイプ、男子は好きな文房具を言わなければならない(なんで文房具なんだ?)
「相浦あんずです。学部は文学部、飛鳥第三高校出身、トランペットパートです。好みのタイプは楽器が上手な人です」
そこまで言うと「うぉぇーい」という地鳴りのような男声が響く。トロンボーンの先輩が何か面白いことをしようとしているけど、お辞儀をして座る。
「じゃあ、次の子!」
40人もいるのだから1人あたりに掛けられる時間は少なくて、自己紹介はどんどん進められていく。媚を売る部員や、先輩に何か言われて一発芸をさせられる奴もいる奴もいて見ていて飽きることはないかと思うと、オドオドとして全然話せない奴もいる。コンパスが好きだというやつもいたけど、何だってコンパスなんだろう。
そんな事を考える一方で私は、辞めそうな奴と辞めなさそうな奴を予想していた。今のところ3人辞めそうだ。
「じゃあ次! そこのちっさい子!」
部長が指をさしたその子は、すこし怒ったような声で勢いよく立ち上がり、叫んだ。
「ちっさくないですよ!」
チューバの「やばい奴」だった。その姿は本当に小さかったけれど、声は肌がびりびりと震えるように感じるほど大きかった。そのギャップが受けたのか、先輩方は一斉に笑った。叫んだ本人も笑っていた。
「ええっと、安堂(あんどう)ちひろです。出身は市立園編高校で、グローバルカルチャー学部です。パートはチューバです」
そこまで言うと先輩の一人が(川島先輩だ)「チューバよりもちっさいのにチューバ吹けんの?」と野次を入れて、皆笑った。
「チューバよりは大きいですよ!」
安堂は彼女の楽器をぱんぱんと叩きながら叫んだ。それからにっこり笑うと安堂は「よろしくお願いします」と軽くお辞儀をして座った。
「あれ安堂消えた? 見えへんくなったわ」という野次がとんだ。すると安堂はまた立ち上がり「ここにいますよ、小さくないですよ!」と叫んだ。約束された笑いがおこる。そんな自己紹介を終えた時、私は「こいつは辞めない」と査定を下した。
*
安堂と初めてじっくりと話したのは、コンクールのオーディションが近い初夏の日だった。雲1つない空から陽の光がじりじりと照り付ける。暑くて仕方ない一方で、こんな日は外で吹くのが気持ちいい。
「おーい、あんずぅ、暑いから練習場で吹こうよお。冷房きかしてるよ」
同輩の村田が私を呼んだ。このころになると私の呼び名は「あんずゥ」で統一されていた。
「ここで吹く」と私は叫んだ。人がいっぱいの部屋では自分の音が聞こえない。それでは練習する意味が薄れてしまう。
「分かったー。熱中症に気を付けてねー」
村田はそう言って練習場に入っていった。ほとんどの部員が室内で吹いている。外で吹いてるのは20人もいないだろう。山下先輩と荻原先輩も外で吹いていた。チューバの川島先輩もそうだ。ようするに上手な人は皆私と同じ考えなのだ。
ぼん、ぼん、という低い音が聞こえてきた。それからぶうーん、という伸ばす音も。チューバの綺麗な音だ。川島先輩かと思ったけれど、それらしき音は別に聞こえてくる。というか、ぶっちゃけ川島先輩よりも上手い。上手いという言葉が不適切なら、その音は私好みだった。
誰が吹いてるんだろう。私は音の鳴る方へと進んでいく。練習しなくちゃ、という気持ちよりも、一体誰がこんなきれいな音で吹いてるのだろうかという好奇心の方が勝っていた。
音を出していた楽器はすぐに分かった。他に誰もいない食堂のテラスでから聞こえていたから。けれど吹いている人間の特定には時間がかかった。楽器に隠れて身体がほとんど見えなかったのだ。
それなのに私は「あのやばい奴だ」と悟った。一瞬遅れて安堂という名前も出てきた。顔が楽器で隠れてみないけれど、彼女は大きく息を吸った。小さな体がほんの少し膨らんだのが分かったかと思うと、次の瞬間に音が出てきた。芯があって真っ直ぐな、柔らかい音。伴奏よりもソロを吹く事に適していそうな音だった。
近くで聴いてみたい、と思った。身体はそれよりも早く動いていた。
2メートルくらいまで近づいても安堂は私に気付いていないように見えた。凄い集中力、あるいは私なんか(飛鳥第三高校のこの私を)どうでもいいと意に介していないのかもしれない。
また息を吸って、ロングトーン。6拍吹いて、2拍休む。Bの音から全音階で下がっていく。
気がついたら私は、楽器を構えていた。安堂が吹いているのと同じように、私もロングトーンをした。その時になって初めて、安堂は私に身体を向けた。私はちら、と彼女を見た。邪魔してごめんなさいと心の中で謝って。
安堂からのつっこみは無かった。彼女は2拍の休みの時も何も言わずにロングトーンをつづけた。
一緒に吹いていて分かったことは、安堂はその綺麗な音に対して、音程感があまりないという事だった。音痴なオペラ歌手というのがぴったりの例えだろうか。勿論、どれだけ威張ったところで私達は学生なんだから、一つ二つの弱点はある。けれど安堂の場合、音色に対しての音程感は大人と子どもが並んでいるくらいの落差があった。
逆に言えば、注意して聴かない限り音程なんて物を気にさせない。彼女の音はそれくらい美しいという事だ。
そして、彼女の本当に「やばい」点は、その音程の悪さを補う、人の音に寄せるというところだ。出だしの音程は思わず眉をしかめるが、1拍もすれば安堂は私の音程にぴったりと合わせることが出来ていた。
音程がぴったりと合った私達の音は、それは素晴らしかった。私の音を安堂の音が下から優しく包み込んだ。暖かい布団にくるまれるように、そうでなければ涼しげな風が全身に吹き渡るように私を包んだ。
安堂のチューバも私の音を芯にして、よりしっかりとした音を出せているように感じた。そんな私達の音がキャンパスの中に溶けて、その広い空間と私自信を満たしていく。
もったいない、と思った。最初からしっかりした音程で吹ければもっと気持ちいいのに。
私達のロングトーンは1オクターブ半もすると、安堂が楽器を置いたので終了となった。
そして安堂は大きな溜め息を吐いた。
「あっづいなあもう!」
シャツの胸元を前後に動かして肌に風を送っている。おっさんみたいだ。よく見れば安堂はものすごく汗をかいている。彼女は椅子の下に置いておいたスポーツドリンクをとると、ごくごくと美味しそうに飲んだ。
「アクエリもぬるくなってる。美味しくない」
訂正。美味しくなさそうに2口目を飲んだ。それから彼女はそのペットボトルを私に差し出す。
話すのは初めてなのにあだ名で呼ばれた事と、いま美味しくないって言ったものを平然と他人に差し出す行為に戸惑いを覚えつつも私は「ありがとう」と言って一口飲んだ。
――確かにぬるいけどまずいという程でもなかった。それにこのくらいの温度の方が喉にはやさしい。惜しむべきは私がポカリ派だったという事くらい。
「いやー、こんなにあっついのに何で私達外で吹いてるんだろうね。マゾか!? って自分でも思ったりしない?」
「しない」
否定してからマゾってどういう意味だっけ? と頭の中がフル回転してる。あまりよくない言葉だったはずだ。
「そう? 私時々思うよ? マゾなのか? 私マゾなのかー!? って」
「私は、ない」
変な奴だ、と言うのが安堂に対しての第2印象だった。けれど、彼女のチューバの音は美しかった。その第1印象は揺るがない。
「でも外で吹くのって気持ちいいよねー」と安堂に行った。
「それは、」同じことを考えてると、嬉しくなった。「私もそう思う」
やっぱり上手な人は、同じ考え方をするんだ。
「おっ、あんずゥはどんなところがいいの?」
「音が広がって、自分の音とよく向き合えるところ。吹きながらよく聴いて、自分の目標とする音に近付いていけるところ。……安堂はどんなところが気持ちいいの?」
「ん、私? 私はおっぱいかな」
と安堂は言った。私は一瞬何の話か分からなかった。
「……あんずゥは下ネタだめな人かー」安堂は心底残念そうに言った。「かー」とか唸り声を上げている。――こいつ変態じゃねえか。
「あっ、引かないで引かないで。真面目に答えるから」と安堂は私に手を伸ばした。トランペットを持ってなかったら思わず振り払っていたかもしれない。
「私の母校の吹奏楽部さ、部室でしか吹いちゃダメだったから、広いところで吹けるのって新鮮で楽しいんだ。あとはあんずゥと同じで、自分の音がよく聞こえるのと、それと遠くまで自分の音が響いてるって思えるのが凄く気持ちいい」
「暑いからだろうねえ」と安堂はちびまる子みたいな喋り方で言った。「でも普通に考えてさ、私達の方が何で外で吹いてるんだって事になると思うよ」
「でもそのおかげで私達が気持ちよく吹ける」
「野外プレイだね」
「なにそれ?」
安堂は「ふうー」と長い溜め息を吐いた。
「……あんずゥはやっぱり下ネタだめなんだねえ」
その言い方は、私を少し見下しているみたいで、すこしカチンと来てしまった。
「安堂、あのさ」と私はカードを切る。
「お前、もっと音程感磨いた方が良いよ。良い音してるのにもったいない。スケールもっとしてさ――」
「川島先輩にもおんなじこと言われた」ぶーたれる、と言うのはこの時の安堂の事だったんだろう。
「じゃあ何で、スケールしないの」
「いやあ、全く恥ずかしながら」次の瞬間には、安堂はヘラヘラ笑っていた。
「スケールって何?」
「は?」というのが正しい感想だ。野球選手がノックって何? と訊くようなものじゃないか。
「スケールっていうのは、」私の声は震えていた。こいつ、こんなに上手なのに、なんで?
「音階の事だよ。ドレミファソラシドの事」こんな事も知らないんだ?
「へー」と安堂は心底感動したみたいだった。「日本語で言ってくれたらいいのに」
「日本語みたいなもんだよ」
私は心底呆れていた。こんなにきれいな音を出すのに、これじゃただの馬鹿みたい。それともこの知識の無さをしてやばい奴と言われていたのだろうか。
「とにかく、ありがとあんずゥ。謎が1つ解けたよ」
「まあ、どうも」
それから私は元の場所に戻ってロングトーンをした。けれど練習に身が入らない。ちょっとの間でもあの音にうっとりとした自分がアホらしくなってしまった。あれじゃ、ただのアホじゃんか。アホの変態じゃんか。そんな奴に感動していたのか、私は。
遠くから聞こえてくる美しいチューバの音は、ずっとロングトーンをしていた。その日は最後までスケールをすることは無かった。次の日もその次の日も、彼女はロングトーンをして、それからコンクールのオーディションに向けた練習をしていた。
意識をして聴いてみれば、音程はやっぱりめちゃくちゃで、私を大いにイライラさせた。私はチューバが聞こえない場所を探して練習するようになっていた。その時から、私は安堂に反感のようなものを抱き始めていたのかもしれない。
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