4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

5/13
47人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ
*  拍手を聞いたのは覚えている。下手(しもて)に退場して、そのままホールの外に出て、皆は思い思いに感情を吐露していた。写真屋さんがはきはきと記念撮影の説明をしていた。どこのパートはどこに立って、と元気な声で説明している。OBの先輩方が遠くで誰かに話している。保護者の方も来ている。私は言われるがままに写真を撮って、荷物を片付けて、トラックに楽器を積み込んでいた。  思考の焦点がどうにも合わなかった。何を思っても、ずっと嘘だという言葉しかでない。「安堂が」と思った次の瞬間には「嘘だ」と。  楽器をトラックに全部積み終えてホールに戻ろうという時に、安堂が歩いているのが見えた。安堂も私を見つけたかと思うと、近寄ってきて「失敗しちゃった」と申し訳なさそうに呟いた。  それを見て、一緒にいるのが長すぎたのだと思った。  その時の私には、安堂の声の大きさや、過剰に申し訳なさそうな表情や、そして走り寄ってくるときの足の動き方を見て、そういう一挙一動で安堂の心の動きが全部分かってしまうようになっていた。  ぱしん、と右手に痛みが走った。私は目の前に立つ安堂の頬を叩いていた。右手に走るその痛みが嘘じゃなかったのだと私に語り掛けてくる。安堂が、よりにもよって安堂がこの本番で手を抜いた演奏をしたなんて。 「なんで、あんなことした」  安堂は何も言わなかった。けれど驚いている様子でもなかった。誰に見せるでもなく嘲るような微笑みを浮かべているだけ。 「何でわざと音程を外すようなことをしたのか、訊いてるんだ」 「……分からない?」  なんで突然叩くのよ、と困った表情で言ってくれたらどれだけ良かっただろう。けれど安堂の表情は変わらない。 「分からない。お前は、あんなもんじゃないのに、なんで」 「いつだったか、どうにでも出来るって言ったでしょ」  私、何か悪い事でもしたの? そう言われているような気がして、訳が分からなくなる。 「……でもま、こけるならちゃんとこける練習もしとかないとね。自分でもあんなに外すとは思わなかった。全国大会に行けなかったら何の意味もないのにね」 「……外れたのか、外したのか、どっちだよ」 「半分は外した。でももう半分は外れたの。思ってた以上に息が入らなかった。全然楽しくなくて――」  ぱしん、と音がした。右手にまた痛みが走った。 「楽しい楽しくないじゃない。私は――」 「ちょっと!」  その声と共に後ろから誰かがぶつかってきた。羽交い絞めにするみたいに後ろから私の手を取って、ぎゅっと押さえつける。 「何してるのよ! こんなところで!」  声の主は小林さんだった。なんでそんな事するんだと思った。あんた安堂が嫌いだったんじゃないのか。  掴まれた手を振りほどこうとした時になってようやく、安堂は私の気持ちを理解したらしい。今度こそ、本当に申し訳なさそうな声で言った。 「……ごめん。確かにやりすぎたね。落ちたら、ほんとごめん」 「そんなことどうでも――」 「ここで喧嘩はしない!」  小林さんに怒鳴られて、私の言葉は引っ込んだ。  落ちるとか、落ちないじゃない。私はお前が見くびられるのが我慢できないんだ。そう言ったところで安堂の心には響かないと、冷静になれば分かることだ。あいつが音楽をやる理由は、そんなところにはないのだから。  言うだけバカだって、やっと分かった。それでも飲み込んだ言葉は行き場を無くして、お腹の中で暴れ回っている感じがした。 *  15団体すべての団体の演奏が終わったのは夕方になってからだった。ホールの中はざわついていた。他の団体は落ち着いて座っているところもあれば、緊張してるのか騒いでいる大学もあった。我らが虎山大学は、落ち着いている部類だ。  隣に座った小林さんは熱心にスマホで何かを検索していた。そんなに暇な時間でもないだろうと思っていたけど、何か目当ての物を見つけると私に画面を見せて来た。  大手インターネット掲示板の、コンクール結果予想。今日の演奏を聴きに来た人が、思い思いの感想を書き込んでいる。渡されたスマホには虎山大学の簡単な講評が書いてあった。 『――虎山大学:課題曲は完璧。1番完成度が高かったんじゃないかと思う。自由曲は委嘱曲で、表現で勝負って感じだった。ただ中盤のトランペットとチューバのソロで、チューバがありえないくらい音程低かった。音色は綺麗だっただけに残念。とにかくそれの印象が悪い』  なにが「音色は綺麗だっただけに残念」だ。安堂は、お前の想像もしないくらいに上手なんだぞ。  こんなの見ていたところで不快になるだけなのに、なんで小林さんは見せてくるんだ。目を離そうとしたら「もっと下」と厳しい声。画面下を見ると、別の人の書き込みが連なっていた。 『そういえば虎山のチューバの子殴られてたなw音程悪かったし怒る殴る方の気持ちは分かるけど、本気っぽかった』 『俺も見た。殴ってたのトランペットの子だったね』 『ソロの子?』 『いや、ソロ吹いてた子じゃなかった。とにかくすごい怖かった。俺も叩かれたい』 『変態定期』 「……ごめん」  そんなに見られていたとは、全く気付かなかった。耳まで赤くなってるんじゃないだろうか。 「今度からは自制してね」  と小林さんは冷たく私に言った。言い返す言葉もない。殴ったことに罪悪感は無いけれど、時と場所をわきまえるべきだ。  改めて思い返すと、なんて恥ずかしい事を。あんな人前で、誰かを殴るなんて。せめてトイレかどこかに連れ込んでやればよかった。  そう俯いている時に会場が拍手で包まれた。ステージに各校の代表者が二人ずつ、現れたのだ。  ごく、と小林さんが生唾を飲んだ音が聞こえたような気がした。彼女はもう手を組んで、神様にでも祈っているみたいだった。 「えー、大変長らくお待たせしました」  男の審査員の方がてきぱきと講評を話し始める。全体的にレベルの高い一年で、優劣をつけるのが大変だったいうお世辞から始まり、リズムの感じ方と表現の仕方や、和音の勉強の必要性など、聞き慣れた講評だった。 「えー、それでは、」と胸ポケットからA4くらいの紙を取り出して、「いよいよ結果の発表に参りたいと思います。もうお分かりかと思いますが、金賞の際には金賞・ゴールドと言いますので、」  それから付け加えるように何かをごにょごにょと言って咳払いをして、ホール中が沈黙に包まれる。 「プログラム1番、玄教(げんきょう)大学吹奏楽部。……金賞・ゴールド!」  ワーッと前の方に位置取っていた一団が湧き上がる。連盟の偉い人が症状を読み上げて、代表者の2人がトロフィーと賞状を受け取った。 「ねえ、相浦さん。……金賞って、何団体くらい?」 「全部で15団体だから、多くても4団体、かな」 「あと3校……」  小林さんはぎゅっと手を強く組んだ。心臓音だって聞こえてきそうだ。  結果発表は続いていく。2番の団体は銀賞だった。どこか冷めたような拍手が、不安を煽る。 「3番、片山大学吹奏楽部、銀賞。……4番、聖ナンナ大学吹奏楽部、銅賞。……5番、天昇(てんしょう)大学ウィンドバンドクラブ、金賞・ゴールド!」  ――裂けるような歓声と、ひときわ大きな拍手。「あと2校」という不安げな小林さんの声。 「――6番、丘妓(きゅうぎ)大学吹奏楽部、銀賞。7番、命座大学吹奏楽部、金賞・ゴールド!」  また喜びの声があがった。次だ。 「プログラム8番、虎山大学吹奏楽部」  ぎゅっと、手に力が入った。結果発表している審査員の人が、息を吸った。 「……金賞・ゴールド!」  ワッ、と鼓膜が破れるような絶叫。小林さんは音波兵器みたいな叫び声をあげた。 「相浦さん、金賞! 金賞!」 「……うん」  そんなやり取りの間にも一つ一つ結果が発表されていく。ここまでは良い。問題はこの次なのだ。  全団体の結果が言い渡された。虎山大学が最後の金賞受賞校で、あとの団体は銀賞か銅賞。金賞がこんなに前の方に固まるなんて珍しいなと思う余裕はあった。 「……えー、では続きまして、先程の金賞受賞校の中から、全国大会への出場校を発表したいと思います。プログラム順に発表します。皆さんご存知かと思いますが、関東支部からは3校の選出となります」  胸がどきどきする。ただの結果を聞くのに、こんなに緊張したことがあっただろうか。  私の視線は安堂を探していた。安堂は私よりもずっと前の席で後輩に囲まれながらステージを見ていた。なあ安堂、と私は思っていた。聞こえる訳もないのに、語り掛けるように。  ――お前はあんなもんじゃないだろう。私だって、あんなもんじゃないんだ。だからもう一回、もう一回チャンスを。 「では参ります。……プログラム1番、玄教大学吹奏楽部!」  さっきの歓声が比較にもならないくらいの大きな声。野太い男の絶叫と、泣いているような女の声。  その声は、なかなか収まらなかった。胸が張り裂けそうになる。審査員はマイクから口を離していた。静かになるまで言うつもりはないという事だろうか。騒ぎたい奴には騒がせておいて良いから、はやく続きを。  ……静かになるまで5秒くらいかかっただろうか。審査員はまたマイクに近付いて、息を吸った。 「続きましてプログラム5番! 天昇大学ウィンドバンドクラブ!」   喜びの歓声が胸を締めつけるみたいだ。ここで私達の前の団体が呼ばれていれば、最後の一校は私達になるのに。  司会はまた静かになるまでマイクから口を離していた。次が最後の一校。私達か、そうでないか。心臓がどきどきして、張り裂けそうだ。 「――続きまして、」  静かになったことを確認して、なぜか勿体ぶったかのように司会者が言う。  神様、と小林さんが囁いた。 「プログラム、8番! 虎山大学吹奏楽部!」  大歓声が私を包んだ。小林さんは飛び上がって、それから私に抱き付いた。チューバの正岡の叫び声も聞こえた。安堂は後輩と一緒にハイタッチをして喜んでいた。皆が大きな声で何かを言っている。多分叫んでないのは私だけだった。力が抜けて、大きな溜め息が漏れた。 「相浦さん、全国、全国行けるよ!」 「ああ、……うん」  気が抜けて、そう答えるのが精一杯だった。  つながったんだ。まだ終わりじゃないんだ。そう思った時にやっと、喜びが溢れてくるのが分かった。
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!