4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

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 帰りの出発を待つバスの中は、とにかくうるさかった。「全国大会おめでとー!」とか「うぇーい!」とか、色々な雑談が飛び交ったりしている。嬉しさのあまりのうるささであると感じれば、許容範囲だろうか。けれどバスの中はもはや小学校の教室か、餌がバラ撒かれた動物園のサル山のような状態だった  そんな中に部長がトロフィーと賞状を持ってきて「全国大会行くぞおお!」と叫ぶとバスの中は絶叫に包まれた。サル山でクーデターが起こったかのようだ。はやく帰りたい。  その絶叫が収まったのを聞いてから「でもその前に明日は打ち上げやるぞおおお!」とまた叫んで、サル山クーデターはいよいよ銃器を持ち出してきたようだ。……というか、すっかり忘れていた。また打ち上げやるのか。  私にとっての打ち上げとはアルコールの悪臭と吐瀉物の処理と、各種ハラスメントから逃げてきた後輩達を守ること、お店の人に謝ること。はっきり言って苦痛以外の何物でもないのだけど、かと言って和を乱すわけにもいかず、結局行かないという選択はできないのだ。  騒がしい中、バスは学校に向けて出発する。打ち上げに行く前に、学校に戻って楽器を練習室に回収しないといけない。とにかく浮き足立って楽器を壊さないように、勝って兜の緒を締めよ、だ。 *  さすがに楽器を運ぶ時は全員黙々と運んでいた。全国大会までは2ヶ月ほどあるとは言え、楽器を破損してしまうことは許されない。バスの中であんなにはしゃいでいた男子もティンパニやハープを運ぶときは神妙な顔つきだ。  とにかく蒸し暑い夕方の中、無事に楽器を取り入れることができた。最後に衣装から私服に着替えて練習場に全員で集まって、今後の予定の確認となる。 「明日は1日オフになります。明後日からは一日練習となりますので、しっかり休んで、打ち上げを楽しみましょう! それじゃあ解散! ありがとうございました!」  その挨拶でみんなは力を取り戻したかのようにはしゃぎ出す。私だって嬉しいはずなのに、誰かと話すような元気は湧いてこなかった。その原因である安堂は、正岡と大きな声で何かを話してバカみたいに笑っている。……怒る気力も湧かない。  そして、私と同じく元気のない声を、と言うか申し訳なさそうな声を出す奴がいた。大波だ。 「あ、あの、先輩。すす、少しお時間、よ、よろしいですか」 「なに」と訊く声に元気が無くて、機嫌の悪さが滲み出るような声色になってしまう。  大波はビクッと身体を震わせて「あ、あのですね、その」とオロオロしていた。なにか生意気なことを言うのではないだろうけど、大波の話し方を見ていると私の方が謝りたくなるくらいに彼女は小さくなっていく。喜びで騒ぐみんなの声で掻き消されてしまいそうだ。 「あの、せ、『精霊の道』のソロの事なん、ですけれど」  また「なに?」と先を促してしまいそうになるけれど、かえって時間が掛かるからやってはいけない。なによりソロの事となると、大波が話そうとしていることの予想も大体つく。きっと、その話を聞いたら私はなけなしの気力を振り絞って怒ることになるだろう。だから大波も申し訳なさそうなのかもしれない。 「……その話なら場所変えようか」  だからこそ、冷静に。また小林さんが止めに入らないようにしないと、大波はきっと最後まで話してくれないだろうから。 *  他の部員たちがいなくなったのを見計らって、私達は食堂のテラスに移動した。1年のあの日から、ここでは何かと重要な話をしているような気がする。 「その、えっと、」  いつも通り大波は意味のない言葉を呟いて、どのような言葉が私を怒らせないか、傷付けないかを探している。多分どんな言葉でも私は怒ってしまうだろうから、きっと無駄になるのだろうけど。 「……わ、私は、ソロは、せ、先輩に、吹いてもらうのが、いいのかな、って、お、思ってて」 「うん」  思ってた通りの事を、思ってた通りの単語で伝えてくる。気に喰わない。無いと思っていた気力がどこからか現れて、私の怒りを持ち上げていく。顔に出ていなければ良いけれど、と考えた時には大波は次の言葉を探していた。 「その、あの、私、相浦先輩と、安堂先輩のソロ、凄く、好きで……。私じゃ、あ、安堂先輩と、う、うまく、出来てないような気がして、その、そ、そういうことです」 「……そうか」  今度は表情を隠せなかったと思う。大波は私の顔を見るなり「すみません!」と素早く謝ったからだ。ならば、もう無理に隠すこともない。 「お前はそれを、なんで私に言いに来た」  大波はそれで、私の言おうとしていることを察したらしい。 「……わ、私じゃ、ダメだからです」  大波は開き直ったかのように私を睨んだ。もしも本番前のあの顔で睨まれたらいくらか気圧されたかもしれない。けれど、今の大波は明らかにビビっていて、迫力はない。それでも言葉を取り下げることはしなかった。 「せ、先輩と、安堂先輩がやるのが、べ、ベストだって、お、思ってるんです」  私が吹くのがベスト? 思わず鼻で笑ってしまうけれど、お腹の中では何かが暴れ回るような感覚があった。それから出た声は自分でも驚くくらいに冷たかった。 「それのどこがベストだっていうんだよ」  大波はビクッと震えたけれど私を睨むのをやめない。 「だ、誰がどう聞いたって、べ、ベストだと思います。きょ、今日の演奏なんか、わ、私じゃなかったら、って。……せ、先輩だったら、って、み、皆、きっと、思って……わ、私じゃ安堂先輩を、ほ、ほ、本気になんて、」  声が小さくなっていくのは怒りか悔しさか。どちらにせよその気持ちは分かる。公平なやり取りで、自分の力でつかみ取ったソロなのに、安堂のあの仕打ちだ。弱気になることもあるかもしれない。確かに、その気持ちはわかる。けれど理屈は違う。 「そんなのはあいつの匙加減ひとつだろ」  大波の、苦虫をかみつぶしたような表情が刺さる。きっと私も同じ表情をしていたと思う。そうなのだ。私達はただ音楽をしているだけなのに、こんなところにも安堂がいる。 「……そうですよ、私じゃ、あ、安堂先輩の、さ、さ、匙加減1つ、か、変えられないんです」  まるで私について回る影のように、安堂は私に付きまとい、私のやりたい事を滅茶苦茶にする。こんなところでも、おちょくられるかと思うと腹が立つのに、まさか自分の後輩がその片棒を担ぐだなんて。  包丁を持っていればこいつを殺していたかもしれない。それともこんな卑屈な性格を、高校の間に治さなかった私に因果が巡ってきたのだろうか。 「ここは、そんな部活じゃない。誰かのご機嫌をたてて、才能あるやつが全部決めて、それで楽しくやろうってところじゃないんだ。もっと良い物を突き詰めていって、私達にできる最高の音楽をするところなんだ」 「そんなの」分かってるとでも言いたいのか。 「分かってない、お前は分かってない。分かってたらどんなことをしてでも安堂に言うはずだろ。どうすればいいのか、何が気に喰わないのか。私じゃなくて、安堂に。――お前はそこまでしたのか? してないだろ」  大波は何も言わない。 「それなのに、それなのに何がベストだ。私が吹いた方が良いだなんて、そんなの、そんなの――ふざけるのもいい加減にしろよ。誰がどう聞いたって、ってさっき言ったな? そのとおりなんだよ。誰がどう聞いたって、私よりお前の方が上手なんだよ」 「そんなこと、」分かってる、としか言えないのか。分かってるならどうしてこんなことを私に言うんだ。どうしてこんな事を言わなきゃならないんだ。 「それが分からないなら今すぐトランペット辞めろ。トランペットを続けるなら、そのひん曲がった根性を直せ、今すぐ」  大波の顔を真っ赤にして口をもごもごさせていた。口の中で言葉をまとめて、私に何かを言い出しそうにして。 「先輩は」震える声。「尊敬する人に、吹いて欲しいって思うことは無いんですか。尊敬する人たちの、最高の演奏を聞いてみたいって思うことは、おかしいですか」  つまりそれが本音か。お前も安堂と同じような事を言うのか。 「おかしくはないよ」と出た声は小さかった。続く言葉の前に息を吸って、大きく、 「でもそれは間違いだ。尊敬されようがなんだろうが、上手な奴が吹くべきなんだ。そうでなかったら、それは音楽への冒涜だ」 「……でも、安堂先輩は、相浦先輩と吹きたいって」 「それが冒涜だって、何回も言わせるな。気持ちがどうこうじゃないんだ。楽しいとか嬉しいとかでもないんだ。上手い奴が全力で吹く。それ以上も以下もない。お前は高校の時に、そのことをちゃんと分かってただろ」  大波は変わった。物言わぬ後輩だったけど、高校までは私と同じような考えを持っていたはずだ。それなのに今やどうだ。 「……そうです。上手くないと、楽器だって貰えない。そうやって私は上手になりましたし、それは正しい事だって思います。でも先輩、それは正しいけど、おかしいと思います」  こんな通らない理屈をぶつけてくるような奴ではなかった。安堂だけでなく、大波までもが私を舐めているような気がしてならない。 「……安堂には私から言っておく。でも大波、お前まで手を抜いたらタダじゃおかないから」  こんな話に付き合う体力もいよいよ無くなってきて、大波ももう言う事が無くなったのか、口を一文字に結んで今にも泣きそうな顔をしている。このバカげた時間も終わりになるという事だろうか。 「……私」  蚊の鳴くような声で、大波が呟いた。 「先輩の事を、尊敬してるんです」 「だからどうした」何を言っても分からない奴ばっかりだ。向かい合う事さえ馬鹿らしくなって、家に帰って早く寝たくて、私は踵を返す。 「今はお前の方が上手いんだから、そんな必要ない」 *  バスに乗って家に帰る頃には、もう日は完全に沈んでいた。けれどじっとりとした湿気が温度以上に暑く感じさせているようだ。  今までで一番疲れるコンクールだった。というよりも、演奏以外の事で疲れる要因が多すぎた。何も考えずに家に付いた時にはしまったと思った。晩御飯を買ってない。でも明日は打ち上げだし、今日は何も食べなくてもいいかもしれない。とにかく疲れた。早く眠りたい。シャワーだけ浴びて、それから寝よう。 「あ、あんずゥ。おかえりなさい」  なんて考えを打ち砕くのは、オートロックの玄関前でビニール袋を提げている小さな女。その笑顔は私を呆れさせ、疲れを一層強くする。 「遅いから心配しちゃったよ? ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?」
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