4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

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「なにしにきた。ほんとなにしにきた」  怒りは行き過ぎると呆れに変わる。そんな呆れた顔をする私を見て安堂は少し照れ臭そうに笑って頭を掻いた。 「いや、今日は悪かったなって思って、なにかお詫びしなきゃって思って、私に出来る事と言ったらこれくらいかなあって」  持っていたビニール袋を私に見せた。肉と野菜と、何かの缶が入っている。 「シャワーでも浴びてる間にパパっとご飯作っちゃうからさ、食べてよ」  いつもなら追い返したかもしれないけど、ちょうどお腹が鳴ってしまって、それが返事になってしまった。  安堂の言う通り、シャワーを浴びている間に彼女は晩御飯のほとんどを作ってしまったらしい。浴室から出ると、部屋いっぱいにカレーの匂いがした。 「もうちょっと待ってね」  と安堂は笑った。どこに持っていたのか、エプロンなんてつけてすっかり主婦気取りだ。というか、コンクール本番の日にエプロンなんて持ってきてたのか。 「御飯がレンチンのやつなのが残念だけど、私の本気カレーをどうぞ召し上がれ」 「カレーか……合宿以来だな」 「んもぉ。あんな半端な奴と一緒にされるのは心外よ? 美味しくってひっくり返るかも。  というわけで、今日は打ち上げだからちゃんと味わって食べてね」 「……打ち上げ?」  私の問い掛けには答えずに、安堂はカレーの味見をして、「まあこんなもんか」とお皿にご飯とカレーを盛り付けていく。 「はい、出来ました。あんずゥはスプーン出してちょうだい」  言われるままにスプーンを出している間に、安堂はテーブルの上にカレーとチューハイの缶を持ってきていた。手馴れているのか準備が速い。 「はい。ささやかながら、コンクールの打ち上げしましょ。全国大会出場、おめでとうありがとう」 「……おまえ」が真面目にやってりゃいちいち祝うような事じゃなかったんだ、という言葉を出す力が足りなかった。とにかく早くご飯を食べたかった。無いなら無いで良いと思っていたのに、いざご飯を前にすれば早く食べたいんだから、現金なもんだ。  飲み込んだ言葉をため息に変えて、 「……おめでとう。あ、私は酒はいらない」  乾杯をしたがる安堂を放っておいてカレーを食べる。……半端か絶品かどうかは分からない、カレーの味だ。 「んもぅ。連れないなあ」  そう言いつつも安堂はあらかじめ買っていたのであろうペットボトルのお茶を私に差し出した。 「あ、ありがと」 「なんのなんの」  そう笑って安堂はチューハイの缶を開けた。ペットボトルと缶で、儀式的な乾杯。一気飲みは危ないと言われて久しいのに、安堂は全部飲み切ってしまうのではという勢いでお酒を流し込んでいく。  屈託のない、いつもの笑顔。白い歯は1年生のときのあの言葉を思い出させる。音楽に力なんてものは無くて、それは人間の力なのだという安堂の哲学。  それなのに、その人間が手を抜いたら、それは本当にただの振動じゃないか。というか、あんなことやっといてよく私の家まで来たな。それと、お前今日泊まるのか帰るのかどっちだ。打ち上げとか言いながら他に何か考えてるだろ。  ――たくさんの言葉が頭の中で渦を巻いている。何を言えばいいのかわからなかった中、出てきた言葉は短かった。 「大波は、お前を本気に出来ないって、悲しんでたよ」 「そういうの、オタメゴカシって言うんだよ。本音で言ってよ。『お前が本気で吹いてたら、いい音楽が出来たのに』って」  安堂は間髪を入れずに答えた。心を見透かされたのかどうなのか、よくわからなかった。驚く体力さえ残ってないのかもしれない。 「知ってるだろうけど私はそこまでイイオンガクに興味は無いのよ。大波ちゃんにもね。……それとも、本気で吹いたら何か良いことがあるのかな」 「……もしも本気でやれば、楽しい、のかもしれない」 「おお、青春モノの王道だね」  小馬鹿にしたような返事をして、安堂はカレーを頬張った。 「れもあんどゥといっひょに吹いた方がらのひいよ」 「飲み込んでから言え」  うふふ、と笑って安堂は食事を続けた。私が何か言えば言い返す準備が出来ていたのだろうけど、私は何も言わなかった。安堂も何も言わず、打ち上げには幾分静かな食事となった。明日の打ち上げもこのくらいのテンションなら良いのに、と思った。  食事が終われば安堂は食器を洗った。余っていたカレーを鍋ごと冷蔵庫に入れて、その鍋に何かを書いた紙を張り付けていた。  それから、ちょっと目を離した間にどこかへ消えたかと思うと「シャワー借りていい?」と脱衣所から(多分服を脱ぎながら)尋ねる声がした。その時にようやく泊まる気だったのかと悟り、いくら何でも追い出すには忍びない時間だったし、「いいよ」と言った。返事の代わりにシャワーの流れる音が聞こえていた。  そのシャワーの音以外には何も聞こえない、静かな夜だった。色々あった昼間が全て嘘のように静かだ。スコアを見ていると瞼が重くなって、まばたきをしただけなのに、こっくりと舟をこいでしまう事もあった。……疲れている。  ここで寝たら風呂上がりの安堂に何を言われるか分からない。目をこすって、最後の力で立ち上がった時に、シャツとジャージの(エプロンだけじゃなく寝間着まで持ってきてる!)安堂が髪をタオルで拭きながら出て来た。 「あれ、もう寝るの? 恋バナしながらゲームやろうよ。面白いの持ってきたよ」  コンクールの日に何考えてんだお前。というツッコミを知ってか知らずか安堂は自分の鞄を漁って小さなゲーム機らしきものを二つ取り出していた。 「……勝手にやってろ。私は、寝る」 「あらぁ残念。……ドライヤー使っても良い?」 「……いいけど」 「それで、私は何処で寝たらいい?」 「……ベッドで良いよ」  助かるゥ、という返事は何かの物まねなのだろうか。私には分からないし、分かろうとするとすぐにでも崩れ落ちてしまいそうだ。そうなる前に、ベッドの上に横たわる。  ぶおお、とドライヤーが唸った。薄目に見て、安堂が髪を乾かしている。その音や光景さえも子守唄みたいになって、私の意識を深いところに誘っていく。……もう、つかれたーー *  どれくらいの時間が経っただろう。「電気消すね」と安堂が言ったように聞こえた。  ばふっ、と隣から音がした。安堂が寝転がったのだろう。「えへへ」と笑っているけど、何がおかしいのか分からない。  どことなく、甘い匂いがする。シャンプーだろうか、私もこんな匂いなんだろうか。 「……ねぇ、あんずゥ。もう寝た?」  囁くその声は、優しかった。  何か答えようとしても、身体が動かない。  寝てはいないけど――ひょっとしたらこれは夢なのかもしれないけど――まるで金縛りみたいに目が開かないし、声も出せない。 「おーい」と脇腹をつつかれる。そんなに私を起こして何がしたいのか分からないけど、とにかく今日はもう疲れた。無視を決め込んでたら、安堂も勝手に寝るだろう。 「……ほんとに寝ちゃった?」  そうだよ、と舌が動いた。けれど声には出ていない。 「……」  脇腹をつつく指が、いやに熱い。風呂上りだから? 酒が抜けていないから?     そう考える一方で、意識はずぶずぶと暗い場所に落ちていくような感じがした。  身体から力が抜けて、ベッドが沼みたい。ぎし、という音がしてお腹に重みが掛かる。身体と意識がまた沈んでいく。  ……あつい。  お腹にかかっていた重みが、ゆっくりと胸元にまで登ってくる。両耳に柔らかい何かが押し当てられる。熱い。あつい。  安堂の声が聞こえた。何かを尋ねるような声。  外で強い風が吹いたみたいな「ごう」という音が聞こえた気がした。その風と一緒にカランカランと、外で何かが転がるような音がした。  本当にその音がしたのか、それとももう夢を見ているのか。  その音が鳴りやむときに、私の口に何かが触れた。柔らかいそれは吸い付くようにして私の下唇を挟む。  ちゅ、という音がして、柔らかい何かがゆっくりと離れて、またゆっくりと触れる。綺麗な蛇がそうするみたいに、柔らかいそれは私の唇を這い、ゆっくりと口の中に入ってきた。身体中が熱いのに、寒気のような感覚がした。  ……ううん、寒気とは違う。けれど不思議な感覚だった。背中にぞくぞくと何かが這いまわるような、それでいてふわふわと空を浮かんでいるような、気持ち悪いような、気持ち良いような。その感覚は、沈み込んでいた意識をゆっくりと引き上げ、瞼が持ち上がる。  目を開けて映っていたのは、真っ黒い、宝石のように丸い、視界いっぱいの瞳。  ――安堂の目。その目は笑った。瞳だけでなく、瞳孔まで見えるくらいに近い。 「ふふ」と声が聞こえた。その震動が私の口の中にまで伝わってきて、その震動を拭き取るかのように口の中の何かが動く。  ――口の中に、安堂の舌がある。  何をされてるか分かって、まどろんでいた意識が破裂する。何とかしなきゃと動いた手が、脚が、身体が、安堂の細い身体に絡め取られていく。  何とかして逃げなきゃという思考を、口の中で動く安堂の舌が舐めとって、ふわふわとした感覚を押し付けてくる。  なんで。  怖くなって目をぎゅっと閉じると「ちゅっ」という音がして、安堂は舐めるのを止めた。……ふうっと吐いた溜め息は暖かくて、チューハイの甘い香りがした。  目を開けると安堂は口を拭っていた。そこにいるのは知らない誰かでもなく確かに安堂で、お腹にかかる重みが夢でない事を如実に語っている。私に跨って、にっこりといやらしく微笑んで、彼女の唇が小さく動き、囁く。 「起きてたのね」  声がでない。 「それとも起こしたのかな」  私の答えなんか知らないという風に、安堂はまた私を抱きしめるように身体を乗せる。彼女の小さな身体は、燃えるように熱かった。
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