4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

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「何――」  それからまた私の口を塞ぐように、また唇が重なる。また舌が口の中に入ってくる。  顔を背けようとしても動かせなかった。安堂の舌が、私の唇をずっと舐めている。吸い込むような安堂の瞳が近い。じいっと私を見る瞳は、まるで魔法みたいに私を動けなくさせる。けれど威圧するような雰囲気はまるでない。それでも私は怖くて目をぎゅっと閉じて、歯が潰れるくらい硬く噛み合わせた。  足をバタつかせても、安堂の身体はビクともしない。手で突き飛ばす事は私にはできない。けれど少しでも気を抜けば、私が私でなくなってしまうような気がする。それなのに頭はふわふわとして、身体から力が抜けてしまう。緩んだ歯の隙間から、安堂の舌が滑り込む。撫でるように私の顎裏を舐めて、また私はふわふわとさせられる。……お腹の下の方が、何か、変だ。  ちゅ、という音と共に安堂がまたゆっくりと顔を離した。安堂は私の腕を放して、その手で唇を拭う。口元が隠れていても、私を見下ろす目で笑っているのだと分かる。 「――お前っ……」  やっと出た声は震えている。怖いのと嫌なのと気持ち悪いのとふわふわしているのと、色々な感情と感覚が混ざり合って、自分の気持ちがよく分からない。 「ふざけるのも……いい加減にしろよ……」 「……本気よ?」  緻密に構成された和音のように脳を揺らす声。そして唇を拭った右手が私に伸びてくる炎のような右手。身体が思わずびくっと震えたけど、彼女はその手を私の左手の指に絡ませただけだ。……あつい。 「私、あなたの事が大好き」  何を、と言う前に安堂の顔が近づく。またキスされるのかと思ったけど、安堂の顔はぎりぎりのところで止まった。 「去年ここに泊まってから、ずっとこうしたかったのかも」  そう言って微笑む安堂は、すごく淫靡で、見たくなかった。それでもその瞳に私の視線が吸い込まれている。 「……警察、」  思わず言葉が出た言葉は、それだ。 「警察、呼ぶ……犯罪だよ、こんなの」 「そうね。罪は何かしら。痴漢? それとも強姦? 今この状態で呼ばれたら、言い逃れなんて出来ない」  囁く声の息がかかる。甘い匂いがする。アルコールと、シャンプーの甘い香り。 「電話でなくっても、あんずゥが叫べば隣の部屋の人が不審に思うかもね。叫び続ければ誰かが通報してくれるかも。……でもねあんずゥ、あなたはそんな事出来ないの」  握られた左手に、少しだけ力が入った。 「――やるよ。こんなの、その、」 「じゃあどうして私の事突き飛ばさなかったの?」  安堂の口調は意地悪く、答えられるのなら答えてごらん、と私を試すような言い方だった。 「結構長い間舐めてたけど、どうして突き飛ばさなかったの? どうしても嫌なら舌を噛めばよかったのよ。……どうしてそうしなかったかって言うと、突き飛ばして私が変な怪我をするとあなたは困るから。舌を噛まなかったのは、私が舌を怪我したらチューバが吹けなくなっちゃうから」 「……そんなんじゃ、」  安堂が顔を落とす。また身体が強張るけど、安堂はキスはせずに私の耳元に口を寄せて、息を吹きかけるように言う。 「そんなのよ、あなたは。普通の人なら怖いから動けなくなるかもしれない。でもああんずゥは怖いよりも、もっと深い所で、私の舌を怪我させないようにしてるのよ」 「そんなのじゃない、そんなのじゃない!」 「証明してあげよっか?」  掴まれていた左手が放されて、安堂の手が私の首に回される。抱きしめられるようにして、彼女がぴったりと私に張り付いてくる。やわらかくて、あつい。 「次はあんずゥが私にキスして」 「しない、しない!」  威勢が良いのは言葉だけで、声は震えるようにか細い。 「もししてくれたら、私本気出すわ」  ごろん、と世界が回った。何があったのか分からないけれど、いつの間にか安堂が私の下にいて、私を抱きしめて私の目を見つめて、いつもとは別人のように妖しく笑っている。 「大波ちゃんとのソロ、本気でやる。練習もサボらないし、川島先輩がしてくれたみたいに、正岡くんに私の知ってる事を全部教えてあげる」  首に回されていた手が離れ、私の両手首をつかむ。そのまま安堂は私の両手をベッドに付かせて握りしめ、私の下でどこか寂しそうに笑った。 「もしもキスしてくれたら、だけどね」  頭がまた真っ白になっていた。  月の光が窓から差し込んでくる。私の下の安堂はその光に照らされて、いやらしく微笑んだまま私を見つめている。手首は確かに握られているけれど、振りほどけないほど強くはなかった。 「……あんずゥが嫌なら良いのよ? 私は本気なんか出さなくても誰よりも上手な演奏ができるんだから」  そうかもしれない。というか、その通りだ。安堂より上手なチューバが、アマチュアレベルにいる訳がない。本気を出さなくても彼女は誰より上手に吹くはずだ。でも、 「でもね、あなたはそれで満足しないの。欲張りなんだから。……ね? そうでしょ、あんずゥ」  まるで磁石のように、彼女が私を引き寄せる。顔を寄せていっても安堂は眉ひとつ動かさない。顔が、どんどん近付いてくる。 「ちゃんと身体も乗せて」  まるで魔法にかかったみたいに私の身体から力が抜ける。安堂の身体に私の身体がぴったりとくっつく。  あつい。 「ふふ」と安堂が笑った。 「さっき私がしたみたいに」と安堂は囁く。「唇を当てて、舌を伸ばすの。それで優しく、いろんなところを舐めて」  その言葉を聞いて、いくらか時間が経ったと思う。けれど、すこしも経っていないのかもしれない。気が付けば私は安堂と唇を合わせていた。何も考えられなかった。何も見ないように目を閉じていたし、何も聞こえないように務めていた。  それでも安堂から漏れるいやらしい声は耳に入ってきて、私の脳を強く揺さぶった。  歯と歯がぶつかってこつんと音を立てた。「大丈夫」と安堂は言った。「続けて」  それから彼女は私の背中を抱きしめた。「あんずゥも」と言われるままに、安堂の首に手を回した。細い首が、溶けてしまいそうなほどに熱い。  目を開けると、安堂は微笑んでいた。見た事のない、幸せそうな顔で私を抱きしめていた。 *  唇を離した時に、ちゅ、という音がした。どこか寂しそうな安堂の溜め息がかかった。  顔を離した時に、私の口から唾液がつっとこぼれて安堂の顎に垂れた。安堂はそれを指ですくって舐めて、私を見つめる。 「ねぇ、あんずゥ」ちゅ、という音を立てて指をしゃぶって、まるで悪魔みたいに彼女は囁く。 「もしこのまま続きをしてくれたら、もっと本気出すよ? 音程とか、音楽性とか、みんなをまとめて見せる。学生指揮の林くん、頼りにならないもんね。私ならもっと的確に皆をまとめるわ。嫌われ役は元々だもんね。……皆の耳の痛い所を沢山言って、もっといい音楽を作れるようにする。それってあなたの望む事でしょう? ……だから、ね?」  身体が動かない。頭だって上手く働いていないと分かった。まるで寝起きみたいに世界がふわふわとしていて、それでも凄くあつくて、胸が苦しくて、何がどうなっているのかよく分からない。 「服、脱いで? 最後までしましょ」  自分の手がそっと、シャツの裾に手が伸びた。裾を掴み、上げようとしたところで何かが私を制止しようとはする。理性なのか、本能なのか。羞恥心かモラルか、その全部か。それでも私の手は止まりそうになかった。  お腹から胸に冷ややかな空気が流れ込む。それでも身体は熱いままだ。口から流れる呼気の一つ一つが灼けるようにあつい。心臓が痛いくらいに拍動している。見えない糸で操られているように、ゆっくりと裾を掴む手が持ち上げられていく。  その両手が脇腹にかかるかどうかの所で動かなくなった。熱い何かが私の手首をつかんで、制止していた。  それは安堂の、左手。彼女はくすりと笑って、言った。 「本当にあなたって、ファンタジーよね」  その一言で頭が急に冴えて、恥ずかしくなって、情けなくなって、……安堂を見ていられなかった。安堂は明らかに侮蔑と嘲笑の表情を私に向けていた。  彼女を怒鳴ることも殴ることもできなくて、まるで磁石が反発するみたいに殆ど無意識に彼女から離れた。安堂から背中を向けて、小さくなって、そうすれば彼女からは見えないんだと、自分に言い聞かせて、その惨めさが全身を刺す。 「ほらね」と安堂が吐き捨てた。さっきまでの熱のこもった声が嘘のように冷たい。 「あなたは音楽の為なら何だってするの。エッチしてって言ったらさせてくれる。死ねって言われたら死ぬだろうし、誰かを殺せって言われたら殺しちゃうのよ、きっと。……ねぇあんずゥ。もしも私が男だったらどうしてた? きっと同じことしてたわよね。でもね、男の子は途中で止めてくれないのよ。出来る時に出来る事をするの。もしも私が男だったら、あなた今頃どうなってた? ……ううん、そんなことはどうでも良いの。もしもセックスしてたとして、あなたちゃんと後悔できた? ――できないわよね。あなたは私が本気で音楽をするようになったのを見て『ああ、これは私のおかげだ』って胸を張るような人間なのよ」  安堂は息を吸った。嗚咽を含ませるような息の吸い方が、聴いているだけで胸を締めつける。 「狂ってる。狂ってるよあんずゥ。まるで音楽の奴隷。そこまでしてやろうとする『良い演奏』ってそんなに価値があるの? ……ねえ、どうして嫌だって言わなかったの? キスなんかしなくても本気を出すべきだって、……どうして?」  どうして? 安堂の震える声が頭の中で響き続ける。どうして? どうして? ……どうして? 「もしも分からないのなら、何も考えてないんだろうね。万引きする男子中学生と同じ。目の前の欲求を我慢できないだけ。……ねえ、どうして何も考えないの? あなた、本当に――」  また安堂が息を吸った。それから溜め息のような呼気が出るまでに、いくらか時間が掛かった。 「……なんでもない。ごめんね、嫌な思いしたのはあなたなのにね」  安堂の声が少し、遠ざかったように感じた。 「約束は守るから、安心して。次からは本気でやる。サボらないし、皆にちゃんと指導するから」  また、遠ざかる。 「ごめんね。もう二度と、こんなことしない」  そのまま、消え入るように小さな声が聞こえた。  足音がして、鞄が服と擦れる音も聞こえた。足音は小さくなって、やがて玄関の扉が開く音がして、扉が閉まる音がした。  もう遅いと分かっていた。安堂が明らかに無防備な格好をしていたとも分かっていたし、制止すれば安堂はきっと止まって、謝れば話を聴いてくれることも。そうして自分のやった事に整理をつけることだってできたのかもしれない。たとえ整理が出来なくても間違っていたのだと彼女に伝えることが、安堂の求めていたことだったのかもしれない。  けれど私は動けなかった。泣く訳でもなく怒る訳でもなく、小さく丸くなることが、最善の方法だと言い聞かせるようにしていた。  いつだったか安堂は、私の事を好きな人がいると言った。私はそんなものはいらないと言ったけれど、それはもしかして安堂自身のことだったのかもしれない。そう思うと、訳が分からなくなった。ただ安堂のどうしてという声が、ずっと頭の中で響いていた。 *  気が付けば外からの光は月の光でなく、太陽の光が容赦なく差し込んでいる。まるで時間が飛んでいったかのような錯覚は、いつの間に寝ていたのだと私に示しているけれど、瞼は重くてすぐにでも二度寝できそうなくらいだ。  けれど二度寝はあまり良くない。その時間で出来る事は多いんだからと言い聞かせて、身体を起こす。そうして分かったのは喉の奥の痛みと、頭痛だ。鼻の奥の方にも何かが詰まっているような違和感がある。  風邪を引いたのだと言葉に出来るまでに、10秒ほどかかってしまった。頭の働きも悪くなっているかもしれない。明日からの練習の事を考えてると打ち上げには出ない方が良さそうだ。  ベッドの上の携帯電話は充電されていなくて、それが昨日の疲れを物語っているようだった。そういえば昨日はコンクールだったのに、遠い昔のように感じてしまう。……とにかく村田の携帯に電話を掛ける。何コール目かで「もしもし」という声。 「もしもし」と言う私の声は鼻声で、大きさも小さくて弱々しい。 「ちょっと、あんずゥ大丈夫? 酷い声よ?」という村田の言葉が、今の私の全てを物語っている。 「うん。ごめん、風邪ひいた。……打ち上げは行けなさそう」 「ありゃー、まあ昨日は大変だったもんねぇ」  その言い方に身体が強張った。安堂の舌のが口の中を舐るような感触が急に思い起こされて、汗が吹き出てゾクゾクと寒気が走る。 「なん――」 「私だってヒヤヒヤしたもん。あんずゥは音程とか人一倍敏感だから、気疲れしそうだもんね」  コンクールのことを言っているのだと分かって、思わず溜め息が漏れた。息苦しいのは呼吸が止まっていたからか、それとも早い鼓動のせいか。  「まあ仕方ないよ。たまにはゆっくり休んでね」  ごめん、と重ねて電話を切る。私の動揺は悟られなかっただろうか。 「分かる筈ない」鼻声で言い聞かせた言葉は、間違っていないはずだ。私にも分からなかった安堂の行動が、他の誰に分かるって言うんだ。そう言い聞かせて、覚束ない足取りで流し台まで行って、水を飲む。  口の中の感触を、全部お腹の中に流し込んでしまいたかった。そうしなければ安堂の瞳が視界いっぱいに映るような気もして、背筋に鳥肌が走る。あのまま、もし安堂が私を止めなかったらどうなっていたんだろう。その疑問も、水と一緒に全部お腹の中に。  そのままベッドに戻って布団に入って、目をつぶる。そう言えば今何時なんだろう。昨日の私は何時くらいに寝たんだろう。というか、あれは何時くらいの出来事だったんだろう。飲み込んだ感触や疑問が、別の姿に形を変えて現れてくるみたいだ。  ……安堂は、そういうああいうことをするのに抵抗はないのかな。やっぱり慣れてるのかな。慣れてる慣れてないの問題なんだろうか。というか私も女なのにあれでよかったんだろうか。いやどっちも女でもいいのか? でも前付き合ってたのは男みたいな言い方だったし、というか、改めて振り返っても犯罪だし、警察に言った方が良いのか? でも安堂がもしも逮捕なんかされたら、コンクールが―― 『あなたは音楽の為なら何だってするの』  安堂の囁きが聞こえて、耳のくすぐったさと共に身体が熱くなった。全身に彼女の重みを感じて、視界いっぱいが眩しくなる。手が伸びて、のしかかっている安堂を掴む――落ち着いて目を開ければ、そこに映っているのは天井だけだ。安堂がここにいる筈はないのに、安堂の息遣いも、その匂いも感じる。 「……熱のせいだから」  大丈夫だと自分に言い聞かせて、もう一度目をつぶる。幻だけど嘘じゃないよと安堂の声が聞こえる。……幻聴まで聞こえる。 『ううん。別に楽しい事があるの。楽器吹くよりも、皆といるよりも、あんずゥが一緒にいるのが楽しいの』  幻聴の安堂はそう言った。忘れもしない、ガードの最初の本番の帰り、電車の中で私に言った吹奏楽部を続ける理由。あの時私は、安堂にそれが本当かどうかの確認をしただろうか。疲れていて特に突き詰めなかったのかもしれない。 『……本気よ?』と安堂が言った。それはきっと、昨日の安堂の声。『私、あなたの事が大好き』  ……たったそれだけの事で、ここまでやるだろうか。したくもない練習を、信じもしない音楽を、私以外の誰にも心を許さずに4年も耐えられるのだろうか。……なあ安堂、お前、どうして。 『待ってるから』  その言葉はあの日のロングトーンと共に。下手くそで、どうしようもなかった私の音を安堂が包み込んで導いていく。それは幸せで、その時の私にはとても贅沢な時間だった。  ――なあ安堂、私なんか待たなくても、お前の事を見てくれる人だっている筈なんだ。私なんかじゃなくて、もっと才能あふれる人が世界にはいるのに、どうして私を待ってるんだ。からかってる訳じゃないんだよな。どうして、どうして私なんだ?  私はその答えを持っていないからだろうか、幻聴の安堂は何も答えなかった。その答えを私は待っていたのかもしれない。けれど幻聴の安堂はいつまで経っても何も答えなかった。 *  次に目が覚めた時には、身体は憑物がとれたように楽になっていた。時計は8時を指しているから、打ち上げでは今頃お酒が回って暴れ回っているころだろうか。……私もご飯食べなきゃ。確か昨日のカレーが残っていたはずだ。  冷蔵庫を開けると、昨日のカレー鍋だけが入っていた。それには紙が貼ってあって、如何にもという感じの丸みを帯びた字が書かれていた。 『・沸騰するまで火にかけて温める事! (レンジはダメよ♪)  ・そのまま1分以上温め続ける事! (ちゃんと殺菌よ♪)  ・焦げないようにかき混ぜる事! (食中毒に気を付けるのよ♪)   愛を込めて ちひろより』  ……めんどくさい。と思う私の事を分かって、安堂はこの書置きを残したんだろう。  しかも「愛」の所だけ赤ペンで書かれてあった。いつもなら鼻で笑ってゴミ箱に放り込んでいるんだろうけど、ひょっとして安堂は今までもずっと直球で私に気持ちを伝えていたんだろうか。初めて会った時の私ならただの考えなしだと決めつけられただろう。でも安堂は、ああ見えて繊細だし、ひょっとしてこういう事を書くのも凄く抵抗があったんじゃないだろうか。もしそうだったとして、そんな人間が無理矢理き、キスなんてしてくるだろうか。  色々な考えが交錯して、ぶつかって消えて行った。そして最後に残ったのは、私はあいつの事を何も分かってないという事だった。
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