4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

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* 「では今日からコンクールメンバーは、全国大会に向けての練習になります。昨日のオフと打ち上げからしっかり切り替えてほしいので、今日は合奏しません。個人、パート練習を中心にお願いします」  はい、というか「ウォイ!」というその返事にはやる気半分、昨日の酒半分というところだろうか。やる気に満ちているのは主に上級生で、下級生はどこかげんなりとしている顔が目立つ。昨日の打ち上げの惨状を表現しているようだ。 「あと連絡です。トランペット相浦と大波、チューバ安堂と正岡はこの後監督の部屋まで来てください」  はい、という4人の声はさっきの返事よりも締まっていたように聞こえた。私以外の3人では、大波は少し疲れたような表情で(打ち上げの悲惨さを物語っている)、チューバの2人は元気いっぱいと言うところだろうか。 「それでは練習を始めます。お願いします!」  お願いします! と全員で挨拶をして皆は思い思いに動いていく。大きく分ければパートごとに集まるグループと、一目散に楽器置き場に向かうグループ、雑談をしながらゆっくりと準備をするグループに分かれていた。監督の部屋まで行くのは私達4人と学生指揮の林だけ。この4人が行くという事は、ソロの事についてだろう。  監督の部屋は6畳ほどの広さなんだろうけど、スコアとCDがいっぱいに詰められた棚が壁を覆っていて凄く狭く見える。監督はそれらに囲まれた真っ黒いソファに座ってスコアを見ていた。 「揃いました」と林が言うと監督は「ん」とスコアを閉じた。 「大波と安堂」その声が横一列に並ぶ私達の姿勢をピンとさせた。安堂だけはリラックスしているように見える。 「関西大会のソロ、お疲れさま。まあ大変だったけど、通って良かった」 「それについてはすみませんでした」と安堂は素早く頭を下げた。「本番中に気が抜けて――」 「ちゃんと練習しないからだよ」監督は咎めているようで、少し笑っていた。「終わりよければ――」という諺が頭に浮かんだけど、私は違うと思う。 「それでなんだけど」と監督は表情を引き締めた。「ソロについてはもう一回考えます。次のホール練習――いつだったっけ……?」 「10月3日です」と打てば響くように林が答えた。 「っていうと、全国大会の2週前か。とにかくその時にオーディションやって、それで決めます。相浦は言わなくてもそうするだろうけど、最後まで頑張ってね」 「はい」 「正岡もお前、推薦で入ってきたんだから根性見せなよ」 「はい! 頑張ります! 根性見せます!」 「安堂と大波も慢心せずに頑張ってちょうだいね。それじゃ、解散」  両手を広げたのを見て「失礼します」と全員で頭を下げる。部屋を出てほうっと溜め息を吐いたのは大波だった。 「き、緊張し、しま、しました」  舞台上の度胸と日常生活とがもう少し結び付けば、大波は生きやすくなるんだろうけど。 「大波センパイ、緊張し過ぎですって! 本番に比べりゃなんてことないですって! こういうとこから頑張りましょうよ!」  一方の正岡は口調こそチャラチャラしていたけど、表情や言葉の節々から自信が溢れていた。ひょっとしたら自分が安堂という演奏者を抜いて、それを部の全員に示せるのではないかという野望を持ったのだろうか。 「まァさおか」そんな彼を見て、静かに口を開いたのは安堂だった。「たまにはパー練しよっか。楽器温もったら私のところきてちょーだいな」 「マジっすか!? パー練っすか!? 久しぶりっすね!? 雪降りそうっすね!」 「うん、これから雪が降る日がちょくちょくあるよ」 「マジっすか。頑張りますよ俺!」  チャラチャラという音が聞こえてきそうなほどに正岡は張り切っていた。ただ安堂は、静かだった。嵐の前の静けさという、という諺が脳裏によぎった。 「あ、あの、さ、相浦先輩。と、と、トランペットは、どど、どうしますか……?」 「……ん。今日は個人練習にしよう。昨日は楽器吹いてないだろうし、調子戻しといて、ってみんなに伝えといてくれる?」 「あ、ははは、はい。つ、伝えときます」  走って練習室に向かう大波を見送って、その後ろを嬉しそうに歩いていく正岡を見て、監督室の前には私と安堂だけになった。  ……もやもやする。私と安堂だけ、なんてことを意識してしまう自分が嫌になるというか、それともそうさせた安堂に対して怒っているのか。 「なあ、安ど――」  言葉にしたときには安堂は、何も言わずに離れていた。……人の事を気にしている場合じゃない。今はとにかく、練習だ。   *  大波にはああ言ったけれど、一番調子を戻したかったのは結局のところ私だった。最後まで頑張らないといけない、と監督の言葉を私は自分に言い聞かせていた。私が努力することで良い音楽の追及が行われる。  楽器を出して、マウスピースを付けて、バズィングをしようとした時に、マウスピースが止まった。唇に何かを近づけることに少し抵抗があったのだ。  唇。安堂に触れられたところ。安堂に触れたところ。そう思うと、歯茎の裏がむずむずしてどうにも集中できない。それは部屋の中で軽く吹こうとした時もそうだったし、いつものテラスで腰を据えて練習しようとした時もそうだった。 「相浦さん、どうしたの? らしくないじゃん」  そんな時に声を掛けてきたのは小林さんだった。彼女の声の裏では、安堂のチューバが絶えず響いている。こんな所で話している暇があるのかと思いつつも、私は楽器を下ろしていた。 「ひょっとして安堂と入れ替わったの? なんて。……真面目な話、風邪が治りきってないんじゃない?」 「……いや、なんでもない」  適当にそう流して、この会話はおしまい。と思った時には小林さんは私の隣に座っていた。 「何かあったのなら相談に乗るよ?」  良い人なんだろうけど、面倒臭い。早くどこかに行ってくれないかなと思う一方で、今の悩みを相談できる人って、小林さんくらいしかいないんじゃないだろうかとも思う。 「小林さんは、その、」  ん? という彼女の反応は可愛らしくて、この人もきっと私の知らない世界を知っているんだろうなと思って、そうなれば言葉は、彼女に引き寄せられていた。 「き、キス、って、したことある?」 「え!? ナニ何なに何ナニなに!? コイバナ!? 相浦さんのコイバナ!?」  そして私は、相談できるのがこの人くらいだというさっきの判断と、そうさせてしまった今までの人付き合いをさっそく後悔していた。 「私のじゃない。その……イトコの」 「そういう事にしといてあげる! それで、どうしたの、なにかあったの!? キスしたの!?」  ……めんどくさい。 「……イトコが、付き合いのそれなりに長い友達……ではないけど、そいつを部屋に泊めることがあって、その、その時に、さ」 「……本当にイトコの話か」  残念そうに溜め息を吐いた小林さんは「相浦さんはそう簡単にオトコは連れ込まないもんね」と勝手に納得していた。こう思ってくれるのは私の人付き合いのおかげなのか? 「私もさすがにそういう経験はないけど、そうなるともうただのバカよね。バカ男。家に入れれば何でもオッケー♪ なんて勘違い。救いようのないバカって感じがするわ」  さすがに、という部分に興味がないわけじゃないけど、そういうことはきっとお酒の席で訊くべき事なのだろう。 「……初めて呼んだ訳じゃない見たいだけど」 「それでも勝手にキスして良い訳じゃないでしょ。犯罪よ、犯罪。強制猥褻じゃない」 「……そうだよ、ね。うん」 「その二人、何年くらい一緒にいるのよ」 「3年と少しくらいだけど、――って聞いた」 「……んー、なるほど」小林さんは少し考えてから「男の方の肩を持つ訳じゃないけど」と前置きして続けた。 「男の方は勘違いしちゃうくらいかもね。3年も一緒にいたらイケるんじゃね? みたいな感じ。あとは逆恨みしてなきゃいいんだけど」 「逆恨みって?」 「そりゃあ、そういうねちっこいタイプに言わせれば『弄ばれたっ!』って思っても不思議じゃないかなって。その人の気質にもよるけど、3年間も自分から好きだって言い出せずにコトに及ぼうとするんだから、結構ストーカー気質なんじゃないの?」  ストーカー気質。思い返せば安堂は、ずっと私の傍にいたような気がする。勿論クラブ以外の時間や自宅や、恋人と一緒にいた時だってあったと思うけど、クラブの時はずっと、私の隣か前にいたような気がする……いや、待って。それよりも。  私、と言いそうになるのを何とか堪えて、言葉を選んだ。「弄んでたのかな。……イトコは」 「そう捉えられたのかもって話。相浦さんのイトコが何考えてたかまでは私は分からないけど、でもそう捉える男がいても別に不思議じゃないんじゃない?」  男じゃないんだけど、とは言わない方が良いと思った。「そういうものかな」 「そういうものだと思うわよ、私は。……そのイトコの子が気になって練習できてなかったの?」 「え? うん、まあ……私そういうの全然ないし、その、びっくりして」 「相浦さんってそういうの全然聞かないもんね……ねえ、相浦さんの好みのタイプってどんな人?」  あっ、めんどくさくなってきた。 「特にない。……強いていうなら、楽器の上手い人かな」 「じゃ、安堂が男だったらタイプだった?」 「それは」――言葉に詰まったのは、あの夜の光景が浮かんで来たからだ。記憶もどこか曖昧になっていて、嫌だったのかどうかさえ分からなくなってしまっている。覚えているのはただ柔らかくて、細くて、ふわふわして、熱かった事だけだ。……それでも出てきた答えは心からのものだったと思う。 「――ない」 「だよね」  というと、なんだか安堂に悪いような気がした。 「でも、あいつが男でも女でも、一緒に吹いてるときは、何だろう、よく分からないけど、悪い感じはしない」  続けて言ったのはフォローのつもりだったけど、小林さんの捉え方は違ったらしい。 「それもなんか分かっちゃうなあ」と小林さんはつまらなさそうに溜め息を吐いた。「相浦さんの音って、結構硬い感じがするってイメージがあったけど、練習とかで一緒に吹いてる時の音は、柔らかいっていうか、なんか凄く気持ちいいんだろうなって聴いてて思うのよね」 「そんなに違う?」冗談よ、と笑われることを私は期待していたのだけれど、 「全然違うわよ」真逆の答えを出して小林さんは笑った。「それにつられて安堂まで気持ちよさそうに吹いて、おまけに息ピッタリだから監督も迷うわよねって感じ。そうは思わない子もいるみたいだけど」 「……それが普通。コンクールなんだから、上手な方が吹く」 「監督が迷ってたんだから、それだけ良い演奏してたのよ? 相浦さんは」 「……そう」それは私じゃなくて、きっと安堂に向けられるべき言葉のような気もする。 「言っとくけど、お世辞じゃないからね」と小林さんは釘を刺した。「大波さんには悪いけど、私は相浦さんが吹けるのが一番いいと思う。なんか、安堂の思う通りにコトが運んじゃうのは悔しいけど、私は相浦さんと安堂がソロやるのが、一番良い音楽になると思う」  小林さんは立ち上がってにっこりと笑った。「だから、頑張って。イトコの事も心配だろうけど、ほどほどにね」  ガードの初めての本番もそうだったけれど小林さんの言葉には不思議と緊張を解くような力があった。そんな言葉を残して彼女は私の背中をぽんと叩いて習場に戻っていった。  期待されていると明確に感じたのいつ以来だろうか。もう忘れてしまうくらい昔の事だろう。それでもそれは、私が頑張る理由には充分だった。マウスピースを唇に近付ける。すこし気持ち悪いけど、頑張らなければならない。息を吸って、Bの音。それは褒められたものではなかった。まだ前歯の裏はムズムズする感触があった。それでも私は吹かなきゃいけないと言い聞かせて、もう一度息を吸った。 *  暫く吹いていると遠くから聞き慣れない音が聞こえて来た。低く、柔らかい。けれど明らかに質の異なる二本の音、金管楽器のロングトーン。  ――チューバだ。聞き慣れないのはあいつらが練習をしないから、だけじゃない。いつもなら一本の音に調和しているチューバの音が、今日のロングトーンでは二本に聞こえる。上手い方が安堂だということはすぐに理解できた。  その差は、歴然としていた。中学生に聞かせても分かるだろう。どちらが上手で、どちらが下手なのか。  いつかの合宿の時のように、私は引き寄せられていた。気が付けばチューバのパート練習を見つめていた。  正岡だって、決して下手ではない。彼が推薦で入部できたのは実力は勿論、今年度で卒業する安堂の後釜に据えられるべき人材だと評価されたからだ。監督の部屋を出た後の自信に満ちたあの表情は、たくさんの称賛を受けてきたからこそできる表情で、実際にそれをすることが許されるくらいの実力を持っていた。あるいは絶対的な実力を持つ安堂を押しのけて、ソロを自分の物にできるかもしれないと空想に浸ったのかもしれない。  ただ今の安堂の前で、そうすべきではなかった。絶対的と目されるからには絶対的だという裏付けがあったのだ。  要するに安堂は今の今まで手を抜いていたのだ。今までのコンクールも、どの演奏会も、地域からの依頼も、私とのロングトーンでさえ。 「もう一回、ちゃんと吹いて」  いやに真面目なその口調こそが、これは見せしめなのだと暗に示していた。そしてそのロングトーンは続けられた。魔女が磔られて焼かれたように、正岡の自尊心をじりじりと、跡形もなく焼き尽くすために、あまりにも無情に。  全国でも指折りの実力を持つ先輩が後輩に指導しているという点において言えば、事情を知らない人が聞けば微笑ましいかもしれない。けれどこれは正岡にとって恐らく、侮辱以外の何物でもなかった。 『今まで私と同じくらい吹けてると思ってた? 残念(ざァんねん)! 私が合わせてあげてた(・・・・)だけ・でし・た♪』  口にしないだけで安堂は、きっとこう思っているだろう。そしてその言葉をもっとも端的に伝えるのが、ロングトーンという基礎練習だった。  ブレス、タンギング、音色、音の安定感、音程、処理にいたるまで至るところを針で刺すように、その技術の差を見せつけていった。そしてその時には見ているのは私だけではなかった。外で練習していた多くの部員が二人を、見せしめに焼かれる正岡を見つめていた。 「音程合わそうって力まなくていいから」と安堂はパート練習の最後に正岡に言った。「変に力むと余計合わなくなっちゃうからね。正岡は綺麗な音してるんだから、自信持ったらいいよ」  最後のその一言で、正岡の心の何かが折れた音が聞こえた気がした。休憩しよっか、という安堂の声は彼に聞こえていたかどうか。彼女を見つめる正岡の目には、今までになかった絶望と尊敬の色があった。  きっと宗教を信じる人は、こういう気持ちなんじゃないだろうか。自分ではきっと届かないものを信じて、届かないものの凄さを見て、「素晴らしい」と自分を感動させたがっているんじゃないか。  その届かないものが神様ならいいのかもしれない。けれどそいつは神でもなんでもない、ただの安堂なのだ。ただの安堂は楽器を置いて、私の方へと歩いてきた。休憩というからには、またジュースを買いに行くのかもしれない。その時に目が合った彼女は小さく微笑んで、すれ違いざまに囁いた。 「練習覗いてたの? えっちなんだ」  その声は冷やりとして心に刺さって、私が何か言う時間を与えなかった。彼女の後姿にはいくらか余裕があるように見えたけど、振り返って見た正岡はがっくりとうなだれている。この休憩が彼の為に与えられたことは誰が見ても明らかだった。
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