4年目を通して:この喜びを噛み締めて。

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 安堂は、確かに変わった。次の日の練習も、その次の日も、その次の日も変わることは無く、そうしないと死んでしまうかのように練習していた。小林さんが私と入れ替わったみたいだと言っていたけれど、私だってあそこまで練習できる自信はない。  凄いと言うほかなかった。もしも努力する才能というものがあるのなら、彼女はそれにさえ恵まれていた。あれほどの実力を持ちながら、自分の至らないところを見つけて、それを解消する手段を即座に考え修正していく。レッスンに来たフルートの先生が「こんなところにいて良い子じゃないね」と呟いたのを聞いた。今まで音楽とは無縁だったであろう野球部の男が、練習に打ち込む彼女に尊敬の眼差しを送ることさえあった。  私と安堂以外の部員は皆こう思ったはずだ。「それだけのことが出来るのに、どうして今までやらなかったんだろう」と。  そしてその答えを私は知っている。「そうすれば独りになってしまうと彼女は知っているから」。  すべてを包み込むような音がキャンパス中に響いていた。こんなに優しい音が彼女を独りにさせるだなんて、皮肉も良いところだと思わずにはいられなかった。  別に安堂が独りになろうと知った事ではないけれど、いつだったか私の家で交わした約束もあった。小林さんの言葉と合わせて、その約束は私に努力する理由を与えてくれる。追い付くべき目標がずっと遠くに行ってしまったという事実はちゃんと分かったつもりだけど、それでも私は彼女に追い付きたかった。  ソロの楽譜をもう一度よく見て、ゆっくりと息を吸ってメロディを追いかけていく。オーディションの日まで、そう遠くはない。安堂の音にはまだ遠く及ばないけれど、大波との距離は少しずつ縮まってきているはずだ。 *  何をしても何もしなくても月日は流れていく。だからこそ私達は出来るだけの事をやっていかないといけない。  音程の怪しい個所を直していく。  和音のバランスを整える。  クレッシェンドのタイミングを合わせる。  連符の音価を揃える。  そして個人の技量を伸ばしていく。   「相浦先輩マジパネェっす」  ある日、正岡が私に話しかけてくる。 「安堂先輩とずっと一緒にやってるんですもんね。おれ、正直一緒にやってく自信ないっす。あんなすごい人と……いや、もちろん相浦先輩もすごいっすよ? ただ、安堂先輩はちょっと冷たいってか、冷酷ってか。最近怒ってんのか、突き放されてる感すごいんすよ。相浦先輩はそんな安堂先輩と一緒にやってきてるんすもんね。マジパネェっす」  とても真剣さの感じられない単純な口調と、羨望や尊敬や嫉妬がぐちゃぐちゃに混じった彼の表情。きっと複雑な気持ちに整理がつかなくて私に話しかけたのだろう、けれど私が思うのは「別に、」ということだけだ。 「あいつと一緒にやってるつもりなんかないよ。私の進んでいく先で、あいつがヒラヒラ踊ってるだけ。……そもそも、同じ本番に出たことだって、そんなにないし」  私の言葉を咀嚼してしばらく間を置いて、「俺は」と正岡は返した。 「そんな先輩がパネェと思いますよ。そうやって割り切るっていうか、いや、実際先輩の言う通りなんでしょうけど、でもどうしても割り切れないっていうか。……俺って安堂先輩に認めて欲しいじゃないですか。だから今回ちょっと頑張って、あわよくばソロ吹いてやる! って思ってたんですけどね。もうダメっす。あんなの見せつけられたら……。だから、安堂先輩は相浦先輩のこと大好きなんでしょうね。ほんと、どこまで言っても対等ですもん」  別に、ともう一度。 「あいつに好かれたい訳じゃない」 「だから安堂先輩、最近怒ってんのかなって思うんスよ。二人とも最近全然話さないじゃないですか」 「それは――」違う、という言葉は済んでのところで引き下がった。 『――弄ばれたっ! ……って思っても不思議じゃないかなって』 いつか聞いた小林さんの言葉が脳裏に響く。その声から逃げるみたいに「私には関係ない」と虚勢を張って、その会話は終わった。  確かに安堂は怒っているのかもしれない。とにかく安堂は私に絡んでこなくなって、無駄話もせずにケータイをダラダラいじることも無くなって、その全てを練習に注ぎ込んでいた。もし彼女が私のやりかたをそっくり真似ているのだとしたら、確かに見ていて気分の良い物じゃない。そして安堂はそのことも分かっていて、きっと私に意趣返しをしているんだろう。……こう思うのは私の自惚れになるのだろうか。  そんな事を考えるだけ時間の無駄だと分かっているのに、安堂は頭の中から離れてくれなかった。そんな状態のまま、私はホール練習の日を迎えることになる。 *  ホール練習は、その名の通りホールを貸し切って練習するものだ。時間は限られているし、積み込みやら原状復帰やらで練習以外に使う時間も多い。けれどそれは本番の流れを意識した練習を行えるという事でもある。  ホールには、独特の空気があると私は思う。ステージから見る座席はまるで、深い洞窟みたい。暗闇の中にある座椅子は幾何学模様みたいに並んでいて、どことなくプレッシャーを放っている。そして本番にもなれば、そこには客の目が等間隔にならんで、まるで得体のしれない動物のように見える時さえある。その雰囲気に慣れるという意味合いだけでもホール練習をやる価値はある。もちろん本番と同じホールで出来ればよかったんだけど、 「本番と同じホールで出来ればよかったんだけど青森まで行く予算がおりませんでした」  客席をバックに監督はそう言って一笑いを起こした。それから林に指揮棒を渡して客席に座った。ちょうど審査員が座るであろう場所だ。 「まずは課題曲。通しで吹いてみて」  林の指揮で、課題曲の演奏が始まる。いつもの練習場とは明らかに違う響き方。指揮の違いか、それともホールの魔物か。戸惑う奴もいれば気にしない奴もいる。自分なりに適応して吹こうとしているのは安堂と大波と、あと数名くらいだろう。  バランスのどこか悪い、気持ちの悪い演奏だ。そんな課題曲を聴き終えると監督はメガホンを取った。 「向こうのホールだと分からないけど、クラリネットはやっぱりもうちょっと大きく吹いた方が良いね。かわりにトロンボーンはメロディー以外の所は抑えて。チューバもちょっとうるさい。トランペットはもっと吹いて。あとは各自調整してね」  はい、という音がホールに響く。 「じゃあ、それを踏まえてもう一回課題曲。今度は自由曲まで続けちゃって」  もう一度、はい。  ホール練習でなされる指導はバランスの調整が殆どだ。本番と同じホールが使えるのならば座る位置を変えたりすることもあって、指揮者のひそかな腕の見せ所でもある。けれど今日の練習のメインは自由曲のソロを誰が吹くのかを決めるという事だ。その雰囲気を察したのか、あるいはただ楽しんでいるのか。監督は林が指揮棒を構えてから小さく付け加えた。 「ソロのところは後に取っておこうか」  また返事。林が指揮棒を構えて、練習が始まる。 *  結果だけ言うと、不安になるくらいホールでの調整は順調に進んでいった。というか、あくまで本番と違うホールである以上あまり口出しは出来ないのだ。ホールが変われば響き方も変わる。だからと言って何もしないよりはずっと良いのだけれど、本番で全く同じ響きになる可能性は低い。  となればこのホール練習の最大の意義は何か。言うまでもなくソロパートのオーディションだ。きっと監督は関東大会の失敗の原因は安堂がホールでの響き方を気にし過ぎた為だと考えているんだろう。だから、気休めにもなればと思ってこの場でオーディションをすることにしたのだ。きっと。 「んじゃ、ソロのオーディションやります」  一通りバランスを見終わってから、メガホンから声が響く。 「最初は相浦と正岡で」 「はい」私と正岡だけの声。林の指揮棒に合わせて息を吸い、吐く――  正岡の音は、強かった。安堂の音が私を包む音だとすれば彼の音は私を突き刺すようだ。悪い意味ではなく、私の音を捉え、高々と掲げてくれる力強い音。彼が安堂に唯一差し迫っている事があるとすれば、この強さだと私は思う。  けれど、この曲とは合わない。「大漁」と書かれた旗を振るような彼の音は、この曲とは決定的に合わない。そして何より、正岡の演奏は凡庸だ。安堂と吹いたあのロングトーン程にも、私の心は揺さぶられない。 「次、大波と安堂」  演奏を終えてもフィードバックも何もなく、監督は淡々と指示を出していく。  大波と安堂の演奏は安定感があった。当然だけど二人ともこの曲に慣れているし、なにより実力がある。関東大会のちぐはぐな演奏がまるで悪い夢だったかのように、二人の音はぴったりだった。  演奏が終わってから間を置かず監督がメガホンを取った。 「チューバは安堂」  分かり切っていたこと。改めて言われることでもなも無いという風に「はぁい」と安堂は間の抜けた返事をする。正岡が小さくため息を吐いたように見えた。 「次、相浦と吹いて」  いよいよだ。「はい」という返事に心を込めて気を引き締めてる。安堂の返事も気を引き締めているように聞こえた(これも私の自惚れだろうか?)。  林の指揮棒に合わせて、息を吸う。安堂の小さな身体も息を吸って膨らむ。  そしてぶぅん、と響くチューバの音。  安堂の音は、低くて優しい音。陽の光のように暖かく、じんわりと広がっていきこのホールを満たす。その音の芯になっているのが、私の音。  安堂は大波と吹いている時と、明らかに音色を変えていた。柔らかい大波の音と、芯のある私の音。そのどちらにもぴったりと合わせることが出来る。入部した時から合わせるのは特に上手だったけど、その技術に更に磨きをかけている。 「私知ってるよ」と頭の中の安堂が言う。「あんずゥはこういう吹き方がしたいんだよね」と彼女は言っている。その実力を誇示して、それでいて私に心地よく吹かせることができる。  ――じゃあ私は?   私は安堂の吹き方を知っているだろうか? あいつはどんな風に吹きたい? 安堂の求める音楽ってどんなもの――  少し、テンポが遅れた。  指揮をする林が表情を変えた。正岡もぴくりと身体を動かした。小林さんもきっと驚いたと思う。ううん、彼女だけでなく、誰しもが。けれど「やってしまった」とは思わなかった。 「お前もこう吹きたいんだろ」と私は思っていた。そしてそれはその通りだった。安堂も私に沿うように遅らせていた。  ――私達の演奏は、ぴったりとくっついたままだ。もちろん林が早くなったわけじゃない。私が、ううん、私達二人が、ここは少し引っ張ったほうがいいんじゃないかと思って、そういう演奏を選択したのだ。この期に及んで何を馬鹿なことを、仮にもオーディションの場において、勝手な事をするなんて。  柔らかい安堂の音が途切れる。私の音も途切れる。ソロパートの終わりから、ホールを満たすのは私達の音から沈黙に変わった。それでもまだ隅の方には、トランペットとチューバの振動が残っているんじゃないかと私は思った。私達の演奏が、こんなに簡単に終わる筈はなく、どこかに響きが残っているような気がした。  そんな中で監督は何をいうか暫く考えているように見えた。 「……息が合うのは結構だけど、そこで引っ張るのは変だよ」  監督の第一声は分かり切っていたことだ。それでも私は、そうしなければならなかった。安堂の音楽に、本気に応えたいと思った。 「さぁて、どうしたもんかね」  監督は楽しそうに言って、立ち上がった。予め指示されていたのだろう、林が私以外のパートリーダーを監督の控え室に集めた。それ以外のメンバーは休憩。短ければ10分、場合によってはそれ以上になると言い残して、その場は解散になった。 * 「なんか私まで緊張してきちゃった」  楽屋の隣に置かれた自動販売機の前で小林さんは息を荒げて私に言った。 「結構よかったんじゃない? 聞いてる分には大波さんと殆ど互角な感じ。引っ張ったのも、安堂と息が合うアピールできて好印象だと思うよ。この休憩も結構長引くんじゃないかな。きっとケンケンガクガクの話し合いだよ」  反論するのも面倒臭いから、適当に「ありがとう」とだけ言っておく。小林さんという人は、楽観的というか、人をいたぶって楽しむ趣味があるのか、バカなのかそれともただ優しいだけなのか。私には分からない。 「でも、そんなに長引かないと思う。すぐ決まると思うよ、きっと」 「なんで?」  もしも本気で訊いてるのなら優しいんじゃなくてただのバカということになる。  理由はさっきあんたが言ったじゃないか。私と大波が互角な印象。それならどちらを任せるか。思い出作りに上級生にソロを吹かせる? まさか。同じ実力なら、次に見られるのは実績と信頼感だ。 「休憩終わりでーす! 全員ホールに集合でーす!」  遠くで林が叫んでいる。飲んでいたジュースの最後の一口を流し込んで、私達は舞台に向かう。  実績と信頼。前に本番でソロを吹いたのは大波。そしてオーディションの場で、決められた通りに監督の音楽を遂行したのも大波。それだけが答え。互角である以上、私は大波には勝っていない。  全員が舞台の上に集まって、それから監督がゆっくりと歩いて、今度は指揮台の上に乗る。監督が次に何を言うか、私には分かっていた。けれど監督が指揮棒を持って、何かを言う為に息を吸ったその時まで、少しも期待していなかった訳じゃない。 「ソロは安堂と大波」 *  その言葉がでるまでは、正岡みたいに「ひょっとしたら私だって」と思っていた。けれどそうはならなかった。コンクールまでの日にちは、あと1週間ほど。より良い音楽の追及のためには大波は当然の選択だ。それはもちろん分かっていた。悔しくなんかない。悔しくなんかない。  自分にそう言い聞かせているのだと気付いたのは、帰りのバスの中でだった。悔しくなんかない、と何度思ったかもう分からない。どうしてそんな事を思う必要があるのか、こっちも私にはまるで分からなかった。
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