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オーディションの結果がどうなろうと、私が何を思おうと、日付は進んでいく。窓から見える景色のように。
あれから一週間、つまりコンクールまでの残りも一週間。監督は全体の表現に磨きをかける。私たち学生は音程とかアインザッツとか、そういったこまごまとした――けれどすごく大切な――要素を確認していく。ここでも安堂は音頭を取っていた。
「クラリネット、ちょっと低くない?」
「ユーフォニウム、もうちょっとはっきり出ないと遅れて聞こえるんじゃない?」
疑問形なのは波風を立てまいとしているのか。とにかく安藤が指摘したところは間違いなく彼女の言うとおりだった。私でさえ気付かなかったことを指摘する場面だってあるのだから、林の出る幕はもう無かった。
安堂は嫌われ役を買って出るとあの夜に言っていたけれど、何が嫌われ役なものか、後輩たちは彼女を見る目を変えた。孤高のはぐれ者から本気の音楽家になり、尊敬され、積極的に話しかけられるようになっていった。特に大波はソロの解釈だとか、練習に付き合ってほしいだとかと言って積極的に話しかけるようになっていた。関東大会の二の舞を踏まないよう万全に備えたいのだろう。安堂はそんな彼女の質問に一つ一つ丁寧に答えるようになっていた。
その一方で、私と話をする機会はかなり少なくなった。朝に顔を合わせれば「おはよ」くらいは言ってくれるけど、精々それくらいだ。その挨拶のたびに私の心はずきずきしてくる。小林さんの「弄んだ」という言葉がいつまでたっても心臓から離れない。
そんな気持ちでいるからか、練習中にも溜息が増えてしまった。小林さんや村田から「どうしたの?」と声を掛けられることも増えて「別に」とだけ返すことは一日一回で済まない。もう一度楽器に口をつける。この時、視界の中に安堂がいればどうしても見てしまう。個人練習中は離れれば問題ないけれど、合奏中はチューバはどうしても目に入る場所だ。どうしても集中力が続かない。
「すごく気が散ってるように見えるけど」
小林さんのその心配が、本当に面倒くさい。実際に気が散っているのだから、そっとしておくことが配慮だという思考にはならないんだろうか。それが出来ないから小林さんなのだろうけど。
本番の三日前からは、そんな煩わしい思いをすることが特に増えてきた。そんな中で私が唯一溜息を吐かず練習に没頭できたのは、二人が件のソロを練習している時だった。柔らかい二つの音が耳の中に入ってこようとすると、二人がブレスを吸ったときに、あるいは最初の和音をキャッチしたその時に、私は世界から隔離されたみたいな静寂に沈んでいく。私の脳はなぜか二人の音をシャットアウトしようとするのだ。そのことに気付いて私は、やっと一年生のあの日のようにのびのびと吹くことができた。
……という、調子を取り戻すきっかけができた日の練習終わりには、楽器を積み込んで夜行列車で青森に向かうことになっている。遅すぎたと後悔してもどうにもならない。二日前と前日は近くのホールで調整をして、いよいよ本番になる。ちょうど本番の時間に良い演奏が出来るようにコンデイションを合わせなければいけいない。電車で一泊してたからなどという言い訳は許されない。けれどチューバの二人ときたら。
「ぃよーしっ! 今日はゲーム大会だ!」
「マジっすか先輩! 俺スマブラ持ってきましたよ!」
「おお正岡! お前はいい後輩だよ! よしよししてあげるからね!」
……もう勝手にすればいい。
翌日の練習は二人とも生欠伸ばっかりだったけど、演奏は確かに狂いはなかった。二人に限ったことではなく、みんなそうだ。コンクール前に変なところで躓いていられない。むしろ変にモヤモヤを抱えているという点において、私はチューバの二人組よりもタチが悪かった。
そしてもちろん、私の調整が追い付こうと追い付くまいと、コンクールの日はやってくるのだ。
*
全国大会といっても、やることは普段のコンクールとそう変わらない。ただ泊りがけの遠征である以上、朝御飯はホテルで(普通は夏の合宿で使ったようなところが多いけど、ホールの近くに手ごろな施設がなかった。)食べることになることと、ホールが知らない場所になっているというだけだ。
ということで、私としては別段変わった事はないのだけど、小林さんはその日の朝御飯からガチガチになっていた。
「……ホテルのご飯だから美味しいんだろうけど、味が全然分からない。相浦さん、どんな味がする?」
「米と鮭と味噌汁と小松菜の味だよ。本番までまだまだ時間あるんだから、リラックスしとかないと」
「そう思うから余計に緊張するんじゃない……うう、やっぱり経験がモノをいうのかしら。何かいい対処法知らない?」
「あいつがよく知ってる」
指さした先の大波は食堂の隅で、掌に「人」を書いてそれを飲み、大きく息を吸ってから息を止めて自分の唾をおでこに塗ってぴょんぴょんとジャンプをしながらラジオ体操のように手足を動かしている
「……なにやってるの?」
「人から聞いた緊張をほぐす方法を全部混ぜて実践してるらしい。高校のときはジャンプはなかった筈だけど」
「……大波ちゃんの舞台度胸はあの体操で鍛えられたの?」
「……あいつの度胸は生まれつきじゃないかな」
「じゃあいい。やっぱり自分でなんとかするわ」
「それがいいよ」
小林さんはご飯をかきこんだ後、同じく緊張している後輩に話しかけることにしたらしい。彼女の周りで硬くなっていた雰囲気が少しずつ和らいでいくように見える。大波もあれで表情が少しずつリラックスして、自分の世界にのめりこんでいくようだ。
「表情が いつにもまして 硬いのは」
そこで私が一人になったときに声をかけるのは、いつもあいつだ。
「気になることでも あるのかしらね
詠み人、安堂ちひろ」
「別に」
安藤はそっと、私の隣に座った。全然そんな気はしなかったけど、声を掛けられるなんて久しぶりで、声を掛けるのも久しぶりで、考えだすとどう反応すればいいのかよくわからなくなる。
「無いなら無いでいいんだけどさ」安堂もどこかよそよそしい感じがした。「コンクール終わったらさ、ちょっと話したいことがあるの。……いいかな?」
安堂のその頼みごとは、私にとってあまりにも唐突で、内心どぎまぎしてしまう。
「……何を?」
「終わったらって言ったでしょ。楽譜の読みすぎで日本語がわからなくなっちゃったの?」
「気になる事なら早いうちに潰しといたほうがいいだろ。演奏に支障が出たらどうする」
「私がそんなことでチャチなミスすると思う?」
「それは、お前は大丈夫だろうけど」
そこまで言って安藤は、少しバツが悪そうな顔を見せた。
「あ、そっか、あんずゥが……その、ごめんね。このあいだは、その」
「……それについては、終わった後で私からも言うから、その、ここじゃ、ちょっとアレだし……」
二人して大波みたいな喋り方になって面白くなったのか、「ぷっ」と安堂が吹き出す。彼女の顔は少し明るくなった。
「じゃあ打ち上げ終わったら話そうね! 約束だよ、酔っ払ってすっぽかしたらタダじゃおかないから!」
言うだけ言ったらスッキリしたのか、安堂は自分の席に戻っていった。それを待っていたんだろう、大波がスコアを持って彼女に駆け寄っていく。なにか話し合って、それから二人でハミングを始める。
「……ったく」
気まぐれな奴だって知っていたけど、私と約束しただけでそこまで本気になれるものなんだろうか。初めからそうしていてくれたら、私は今頃もっと楽な気持ちで……
……あれ?
*
バスに乗るまでは気のせいだと思っていた。でも違う、私の中にあったモヤモヤは、きれいさっぱりなくなっている。何かの嘘じゃないかと思ったけど、バスから降りる頃にはその疑念も晴れた。心だけじゃなく身体まで軽い。
息がすうっとお腹の底まで入っていく。唇はすべての息を無駄なく振動に代えられる。何より、楽器を吹くことに集中できる。なんでだろう。日頃から頑張っているから、いるかどうかも分からない音楽の神様が私に祝福を与えてくれたのか?
理由はどうあれ、ここにきて絶好調。タナボタか、はたまた僥倖というやつか。なんにせよ有難い。いや、さすが私の身体というべきか。付け焼刃で努力したどこぞの安堂と違って、本番にむかう緊張感が、元の調子を取り戻したんだろう、たぶん。
リハで監督に「相浦、ちょっと音でかいよ」と言われるくらいには、音の通りが良い。おかげでだいぶ楽な感覚で吹ける。
その喜びに気を取られている間にも、リハーサルは終わっている。私ったら、周りのことを何も気にせずに吹いていた。最後に皆になにかアドバイスくらいはしようと思ってたのに。
「先輩、なにかありませんでしたか? 私のソロ、聞いてて大丈夫ですか?」
大波は完全に仕上がっていて、ばっちり本番モードだ。ここにきて安堂ではなく、何も聞いていなかった私に聞きに来るというのが、彼女の間の悪さというか。
「別に、私の感想とかじゃなくてさ」何も聞いてなかった、とはさすがに言えない。言える奴がもしいるのなら、そいつは大波のこの目を見ていないだけだ。
「お前が今までやって来たとおりに吹けばいいんだよ。それを信じれば、絶対に良いものになる。そうすれば絶対に、結果もついてくる」
いかにも何も考えてない奴が、いつでも吐けるような言葉だけど、大波の背中を押すには十分だったらしい。
「はい……! 私、頑張ります!」
その言葉を待っていてくれたかのように、進行係の人が叫ぶ。
「時間です。舞台袖に移動します」
緊張が走るような気がした。それを見計らったかのように、監督がつぶやく。
「それじゃ、頑張りましょうね」
はい、といういつもの返事は緊張を昂ぶりに変える。いよいよコンクールが始まるのだと、その短い言葉が私達に伝えた。
*
舞台袖は静かに、前の団体を聞く。薄暗い中で聞く音楽というのは、視覚情報がないからだろうか、いつもよりも良いように聞こえる。私達の前の団体は地元東北の強豪、西城大学吹奏楽部。木管楽器主体の自由曲は、明らかに強みを生かした選曲だ。金管の2人がウリの私達とは方向性は異なる。
もちろんこの期に及んで、そこを弱みに思うことはない。演奏が終わった後の大きく聞こえる拍手も気のせいだ。そうでなければ地元ゆえに保護者やOBがたくさん来ているんだろう。
「終わりました。虎山大学の皆さん、どうぞ」
舞台袖の扉が開かれる。木管楽器から舞台へと入っていく。ここからは私たちのステージ。要するに、前の団体なんか関係ない。私達は私達のできることをやるだけ。
「相浦さん、金賞取ろうね」小林さんは私の横を通るときに小さくつぶやいて舞台に入っていく。
「いよいよだねぇ」と私の背中を叩いたのは安堂だった。「私の本気、見せてあげるからさ。良い音楽にしよう」
そう言って安藤は握りこぶしを私に見せた。
「……なに?」
「グータッチだよ、ほら、あんずゥも」
急かされるままに安堂の真似をすると、こつんと私のそのこぶしを安堂は殴った。そういえば、何かのCMで見たことがあるような、ないような。
「ほら、やることやったら行った行った!」
これをすることによって何が変わるのかはよくわからないけど、とりあえず安堂は本気なんだろうから、決して悪いことにはならないはずだ。
舞台の上はまだ暗く、椅子や譜面台の位置くらいしかわからない。けれどみんなの目は、さっきの大波のように鋭く、本気だということは分かった。
皆が座ってから、監督が指揮台にのぼる。それから照明が明るくなって、視界が透き通る。2階席まで一杯に入った客。
「プログラム、11番。関東代表、虎山大学吹奏楽部」
司会と、いつもと変わらない監督の表情、みんなから感じる落ち着いた空気。
「課題曲3番、自由曲、精霊の道」
そして、安堂。
監督が指揮棒を構えて、私達も楽器を構える。何度もやったこの動きが、私を深い、音楽の海の底に誘う。
指揮棒を振り上げて、私達が息を吸う。その息は深い海の中に潜る前のように。
*
いつもの通り、課題曲は終わっていた。監督は関東大会でやったみたいに、客から見えないようにグーサインをしていた。それを見て私は譜面をめくる。
何も思うことはない、ということは上手くいったんだろう。大丈夫、自由曲だって上手にやれる。そう思って再び楽器を構える。
指揮とともに始まるフルートとクラリネットの静かな主題。関東大会の時よりも、ずっと良い。
ゆっくりと静かに、サックスが加わる。ホルンがオブリガードを奏でていく。チューバが下に回り込み、トランペットが主題を奏でる。
最初の盛り上がりが終わると、ゆっくりと音楽は小さくなっていく。トランペットが抜けて、ホルンの音が消えて、チューバがいなくなる。フルートとクラリネットが残って、二人のソロへとつなげていく。
ふと、関西大会のことを思い出してドキリとした。視線は自ずと安堂に向いた。
遠くに見える安堂の横顔。私には見せたことのないような真摯な顔。ゆっくりと息を吸って、小さな身体が空気でいっぱいに満たされていく。
そして、静かな二人の音。柔らかく、暖かい。それなのに客席には驚きが生まれるのが分かる。どこの大学にもいない、二人の天才。和音が移る。離れたりと寄り添った二人の音は、お互いを包み込むようにホールにいっぱいに広がっていく。
――ふと、初夏の匂いがした。
青い空と少しじっとりとした空気。いつものテラスで、私に向かう安堂。陽射しを反射して輝く安堂の歯。今ホールに響いている音はあの時の――一年生の時の、あのロングトーンの音。
私に向けられた音。私を挫いた音。私を立ち直らせた音。私に期待をかけた音。私が超えたかった音。そして私が、憧れた音。
けれどその音は、私に向けられたものじゃない。それだけが、あの時とは違っていた。
ぐらりと世界が揺れた。まるでホールがひっくり返って、天井に落ちていくような錯覚があって、色んな感情が、ピアノをぶっ叩いた音みたいに吹き上がった。
――そういうことかよ。
声には出なかった。演奏中に声を出してしまうほど、私は愚かじゃなかった。
ただ、この音を知ってるのは私だけの筈だったのに。私はこの音に憧れてここまで来たはずなのに。彼女と吹いているのは、なんで私じゃないんだろう。
両目の奥が熱くなるのを感じた。トランペットを握る手が震えるのに、指はソロに合わせて動いていた。奥歯が持ち上がるのを堪えてがちがちと音を立てるのに、呼吸だけは大波に合わせてソロを奏でていた。私は愚かな奴じゃないと何度言い聞かせても力を抜けば声をあげてしまいそう。
なんで私じゃないんだ。
一年生のあの日、吹けなくなったあの日から、私は少しも諦めていなかっただろうか。ガードの練習をしていたあの時、それを言い訳にしてトランペットの練習の手を抜いていないと言いきれただろうか。演奏旅行のあの年、曲を吹く事に夢中で基礎練習をサボっていなかっただろうか。今日この時に至るまで大波には敵わないと、諦めていなかったと言い切れるだろうか。本気を出した安堂に、距離を置く一人になってはいなかっただろうか。
あいつに追いつくということは、そういうことでは無かったのか。それを片時も忘れなかったと胸を張れるだろうか。もしも忘れずにいたら、今あいつと吹いているのは私だっただろうか。その時にこそ、あいつの言う「楽しさ」だとか「喜び」というものが分かるのだろうか。だとすればこの4年間、私は一体なにをやっていたんだ?
温かい感触が目からこぼれ、頬を伝った。
ソロが終わりを迎えようとしている。村田が楽器を構え、私もそうしていた。その時には不思議と身体から余計な力は消えていた。熱くなった両目から涙は引いていった。長く楽器を吹きすぎたのかもしれない。
――なあ安堂。お前はあの夜に私の事を音楽の奴隷だって言ったよね。楽器を構えるだけでこんなになるんだから、実際その通りかもしれない。でもそうじゃなければ、お前と一緒にこんな所に来れなかったんだよ。こんな気持ちになることも、きっとなかったんだよ。
指揮棒が大きく振り上げられる。あらゆる奏でられた曲が決して巻き戻されないように、今の私には進むことしかできない。その事に今まで何の疑問もなかったから、それがどれだけ惨い事かも分からなかった。
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