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*
私達の演奏は、こうして終わった。あとは結果を待つばかりだけど、そんな事はどうでもよかった。写真を撮るのだって早く終わればいいのにと思った。どうして皆、そんなに笑っていられるんだ。
「はーい、次はトロンボーンの人達〜! 好きなポーズで良いからね。決まったら教えてね」
やたらと愛想の良いカメラマンの声も、雲ひとつない快晴もいやに腹立たしい。はやくみんな終われば良いのに。どこでも良いから座りたい。
「いよっすぅ。お久しぶりだねぇ、あんずゥ」
そんな時に私を呼んだのは、どこかで聞いた声だった。ただその声の主には見覚えがなかった。真っ黒ですっきりとしたショートカット、そして私服には違いないけど、寒色主体のフォーマルな出で立ち。
「しばらく見ないうちにぃ、結構まぁるくなっちゃってさ。ちょっと話そぉ?」
けれど、この間延びした話し方には聞き覚えがあった。まさか、とは声に出ただろうか。
「……山下先輩?」
「そだよぉ。イメチェンしたんだけどぉ、どう? 似合う?」
「どう、と言われても……」
くるりと回る先輩からは、三年前のケバケバしさはなくなっている。私のことを丸くなったという以上に、先輩の方が別人になっていた。
「……まあ、私のことは良いかぁ。いい演奏だったじゃない。応援に来た甲斐がぁ、あるってものよ」
「……どうも」
そう、良い演奏だった。それは演奏が終わってからの拍手も物語っていた。
「金賞はぁ、まぁ、間違いないでしょうねえ。安堂ちゃんと大波ちゃん? だっけ? すっごいね」
「……そうですね」
「てっきり、トランペットはあんずゥがやるもんだと思ってたけどぉ」
「大波のほうが上手だったので」
向こうのほうでチューバの二人が写真を撮っている。なぜか正座をして、カメラマンを困らせている。これで良いんです本気なので、と安堂が大真面目に言っている。あれも当てつけだろうか。
サックスパートでは小林さんが飛びまわって喜んでいる。彼女を取り囲む後輩たちもみんな笑顔だ。当然だろう。きっと私達がし得る最高の音楽が出来たはずだ。だから皆は笑顔だ。それなのに私だ。あんなにいい音楽が出来たのに、どうして私は笑うことが出来ないんだろう。
「悔しい?」
まるであの日の再現だというように、山下先輩は訊いた。私はほとんど無意識に答えていた。
「はい」
「どうして?」
「安堂が本気を出したのに、その相手が私じゃなかったことです」
「そうねぇ、でもあの子ぉ、上手に吹いてたじゃない。誰が聴いたって、今日最高の演奏だったでしょぉ? あんずゥはそういうのが好きでしょ」
「でも、そういうのを抜きにして」
別に言わなくても分かるだろうとは思っていた。けれど私は、なぜかこの人には本気で言わないと駄目だと思った。
「私が安堂と吹きたかったんです」
「ふうん」と山下先輩は笑っていた。「最初からそれだけ素直だったら、私もやりやすかったんだけどなぁ」
そうかもしれないけれど、今ここですみませんと言えるほどの素直さは持っていない。
「ま、今日はお疲れ様ぁ。打ち上げで飲み過ぎちゃダァメよ?」
当たり前のことを言って山下先輩は帰っていった。その先には私の知らない男の人がいて、仲良さげに言葉を交わしている。
反対側ではチューバが写真を撮り終えて、パーカッションがカメラの前でポーズを決めていた。その後ろから、安堂が私を見ていた。少し疲れたような、申し訳なさそうな表情をしたかと思うと、私から視線を外した。
全パートの写真を撮り終わって、ホールに戻るころにはすべての団体が演奏を終えていた。それから何分か待たされて、結果発表があった。
金賞と言われてみんなは喜んだし、私も釣られて喜んだ。けれど、悔しさだけは拭いきれない。みんなと一緒になって喜ぶ自分がひどく白々しかった。
*
ホテルに戻ってから、レストランを貸し切って打ち上げが行われた。学生だけじゃなくて監督や大学の職員さんもいるから、想像していたようなひどい打ち上げにはならなかったことは喜ばしいことだろう。
部長や監督や職員の皆さんのお話があって、それから談笑。2時間ほど経ってから「とにかくハメを外しすぎないように」と大学職員の人から再三の忠告を最後に解散となった。
小林さんたちは二次会をやると言ってどこかに行ってしまったけど、私はどうしてもそんな気にはなれず、部屋に戻っていった。
ベッドとテレビと、小さなテーブルがあるだけの、なんの変哲もないビジネスホテルの一室。さっきまでの打ち上げが嘘のように静かで、ベッドに転がると緊張の糸が切れたような溜息が漏れる。
その時に本番前に安堂から言われていたことを思い出して、スマホを見る。両親からのおめでとう以外には、何の連絡もない。
気が付けば私はLINEを開いて、安堂にメッセージを送っていた。
〔ちょっと話がしたいって言ってたけど、今大丈夫?〕
そうすると間もなく既読がついて、ひゅっとメッセージが出てくる。
〔いいよー! ちょっと長くなるからそのまま待機で!〕
〔直接話したいんだけど、今から部屋に行っていい?〕
既読がついてから、返事は来なかった。湧き上がるのは「自分から言いだしといて、その態度は何?」という気持ち。そして正岡と小林さんの、あの言葉。
「安堂先輩、相浦先輩のことめちゃくちゃ好きですもんね!」
いつか正岡が言った言葉を思い出し、胸に何かが刺さる。
「『弄ばれたっ!』って思っても不思議じゃないかなって」
小林さんの言葉は酷く私を無力にさせる。がっくりと身体から力が抜けて、顔を覆って隠れていたくなる。でも、そのことは謝らないといけないと顔を上げて画面を見る。
そのメッセージは、いつの間にか届いていた。
〔いいよー♪ いつでも来やがれってんだい!〕
よく分からないこの言葉遣いはひょっとして無理の表れなんじゃないかと考えてしまって、足に鎖を付けられたみたいに動きにくくなる。それでも行かないといけない。
起き上って扉を靴を履いて、ドアを開け――
「うわっ!」
そこには安堂が変な顔をして立っていて、思わず叫んでしまった。安堂はそれを見てケラケラと笑う。
「まさか来てるとは思わなかったでしょ?」
そう言いながら安堂は、ズカズカと私の部屋に入ってきた。屈託なく笑っているように見える彼女は何の遠慮もなくベッドに腰かけ、「ここに座って」とでも言うようにベッドを右手でぽんぽんと叩いている。
「――うん、思わなかった」
扉を閉めてから、安堂の隣に腰かける。彼女からは少しだけお酒の匂いがした。
「まあとにかく金賞おめでとう、そしてありがとう。祝杯しよ?」
どこに持っていたのか、チューハイの缶を二つ取り出してうち一つを私に差し出す。
「……いや、いい」
「つれないね」と安堂は缶を開けて一口飲んだ。
「お酒に任せて言ったんだって思われても嫌だから」
ふうん、と安堂はいたずらっぽく笑った。からんという音をたてて缶をテーブルに置いて、身体を少し私に寄せる。
「どんなことを言ってくれるのかな?」
「お前から言えよ。言い出しっぺはお前だろ」
「うんにゃ。あんずゥから言って」
息が少し熱い。
「……コンクールで吹いてる時さ、私、すごく悔しかった」
「ほうほう」
安堂のも、私のも。
「大波がソロ吹いて、その裏で安堂がソロ吹いてるの聴いてると、一年生の頃を思い出してさ。私に向けられてた音が、今は私に向いてないんだって思うと、悲しくて、さ」
「大波ちゃんと吹けって言ったのはあんずゥだよ?」
「そんなの誰も言ってない」
そうだっけ? と安堂は首を傾げた。
「本気で吹いてとは言ったけど、大波と吹けだなんて一言も言ってない。……私、ずっと本気の安堂と吹きたかった」
「それで浮かない顔してたわけね」
「うん……。ねえ安堂、年末の定期演奏会もきっと精霊の道を演奏するから――」
「うん」
「だから、今度は、私がきっと吹くから、それまで本気でいて。吹奏楽部も辞めないで」
「誰が辞めるなんて言ったのよ?」また小林さんが変な事言ってた訳でもないでしょうに、と安堂は笑う。
「本気でやるのはコンクールまでって話だったからねえ、どうしよっかな。それともあんずゥがまた何かしてくれるの?」
ぴとっと、安堂の頬が肩に張り付く。リンゴのような甘い匂いがした。
「……できないけど」
「私にお願いするって、そういうことだって思わないの? またキスしてって言うかもしれないよ?」
「今度は、ちゃんと断る」
安堂は身体を寄せて、ニヤニヤして私を見上げる。引っ付く身体と絡む視線が、あつい。
「そうするのが、私のやるべきことだと思うから。見返りなしに頑張れるだろって、あの時お前に言うべきだったって――」
「あーあ」と安堂はこれ見よがしに大きく声を出して身体を起こした。
「ねえあんずゥ、私もね、ずーっと後悔してたのよ?」
「……なにを?」
「あの時あんずゥとエッチしてたらよかったって、今の今までずぅ……っと思ってた」
「……は?」とさえ言えない私をよそに、安堂はダラダラと喋り続ける。
「だってそうでしょ? お願いすれば間違いなく何でも出来るアンドしてくれるシチュエーションだったし、私の事を見てくれてなかったからそれが何? っていうか、やりようによっては私の事しか考えられなくなるようにして、もう私の言いなりカノジョになってくれる可能性だってあったし、思い返すほどムラムラしてくるし、あんずゥの声聞くだけで襲いたくなっちゃうから迂闊に声かけられないし、とにかく何でそんな絶好の機会をドブに捨てるようなことしたんだろう、ってずぅっ…………と思ってた」
「いや、それは、私が――」
「音楽の事しか考えてなくて、私の事なんか見てなかったから、なんだけどね」
安堂はそこで溜め息を吐いて、演技がかったように肩をすくめた。
「その時の私ときたら、そんな下らないことを気にしてたのね。どこを見てようが、私はあんずゥの事が大好きなのに、そんな些細な事ばっかり」
返答に困るような事をサラリというのはお酒の力なんだろうか。安堂は小さく溜め息をついて、不服そうな顔を私に向けた。
「……ねえ聞いてる?」と安堂は私の顔を覗き込んだ。お酒のせいか、少し、赤い。
「今私、あなたに、大好き、って言ったのよ?」
「……うん」
「そりゃ、私もあんずゥも女の子だし、返答には困るだろうけど、」
耳が熱くなるような、ならないような。
「あなたの気持ちを聞きたくて、私はここに来たのよ?」
安堂の言葉は、いくつも私の胸に刺さってきた。けれど、この言葉よりも深く刺さったことは無かった。まるで毒のように心臓と肺をキリキリと締め付けるのは、安堂が私を見るように、私が安堂を見ることが出来ないから。
「……ごめん」声がいつも通りなのは迷う余地がないから。「それには、応えられそうに、ない」
嫌いと言った時には痛まなかったのに、どうして好きじゃないという方が苦しくなるんだろう。いっそ初めて会った時のまま、今日のこの日を迎えられていれば良かったのに。
「……ま、そうよね。知ってたのよ、本当は」
特に傷付いたような素振りも見せず、安堂はチューハイを一口飲んだ。
「まさかとは思うけど、他に誰か好きな人とかいるの?」
「いない、けど」
安堂はまたチューハイを手に取ってそれを流し込む様にあおる。それから缶をテーブルに強く叩きつけて「はあーあ」とわざとらしく溜め息を吐いた。
「まあ、それが分かっただけでも良しとするか」
「……ごめん」
「あはは。私のほうこそゴメンだよ。半ばレイプだったし。でもまだあなたとの関係が終わった訳じゃないから、付きまとうのは付きまとうからね。あんずゥはまだ私に追い付いてないわけだし」
「……うん」
そこからの沈黙は、何かを決するために必要な時間のように思えた。安堂はチューハイを一口飲んで、それから深呼吸をして「ねえ」と切り出した。
「最後まで本気でやる代わりにね、お願いあるの」
「……なに」少し身構えて、安堂から距離を置くと、彼女は笑った。
「大したことじゃないのよ。ただね、私に追い付くまでの間、私の事は下の名前で呼んで。ちひろ、って。そうしたら、私に追い付くまでは本気でやってあげるから」
「……なんで」
「まあ、恋人気分って奴よ」
へへへと笑う彼女は、また私をからかっているように見えるけど、このまま下の名前で呼ぶことはまた彼女を弄ぶことにならないか、すこし心配だ。
「機会があればそうする――っていうか、そんなの抜きにして本気出せよ。お前」
「うっわ、真面目な返答しちゃったよこの人。これだから素面は面白くないのよね、ちょっとは飲みなさいよ」
安堂はもう一つの缶を私の前において、ちびちびとチューハイを口にしている。答えをあやふやにしても安堂は何も言わなかった。きっと安堂は、まだ私が何か口にするべきことがあると知っているから。
「……あのさ」
「なあに?」
「私、人を好きになるとか、そういうのはよく分からないけど、でも、お前の音は好きだよ」
「……私よりあんずゥに相応しい人なんか、きっと世界には沢山いるのよ。そんなの知ってるでしょう」
安堂は寂しそうにそう呟いた。
「私はね、確かに才能があって、クレバーでキュートでポップでスマートよ。でも何かを成し遂げるような人間じゃないの。今日まで本気でやって来て、確かに良い演奏できたけど、正直そこまで感動しなかった。ああ、やっと終わったんだな、ってだけ」
そこで彼女は大きな溜め息を吐き、意を決したような表情で私を見つめた。
「……だから私じゃ続けられない。今までの練習の中で、私はあなたほどには喜びを感じられない。私じゃあなたの隣にはいられないのよ。……何かを成し遂げるような人間っていうのはあんずゥみたいに凄い情熱があって、私みたいなやる気のない人を引っ張っていける人。その情熱がどこから来たのかなんて関係なく、ね。私の言ってる事、分かる? あなたはきっと、私なんかで満足しちゃダメなのよ。私に追い付いて、きっと追い越して、もっとすごい世界で――」
「そう言うのじゃなくて、」
らしくない言葉なんて聞きたくない。――そういうのじゃなくて、私は、
「私は、お前の音が好きだ。上手いとか下手とか、才能とか人格とか、そういうのを全部ひっくるめても、お前にしか出せないチューバの音が、私は好きだ」
「……そう」
安堂は、そう微笑んで視線をそらした。
「あなたみたいに、突然吹けなくなるかもよ?」
「お前ならすぐに戻れるよ。私がここまで来れたんだから」
「……そうかな」
「そうだよ、信じてるから」
「……そう」
彼女は目を腕で拭ってからチューハイをぐいっと飲んだ。寂しそうに、それでも嬉しそうに息を吐いて、空き缶をテーブルにそっと置いた。そしてまた大きくため息を吐いて、意地の悪そうな笑顔を私に見せた。
「悪女だなあ。人の事フッた直後に、そんな事普通言わないよ」
「……でも、ほんとのことだよ」
「あぁ~、悪女を好きになってしまったぁ~。私が好きになる奴はロクデナシばっかりだぁ~」
そう嘆きながらも安堂は笑っていた。私はどういう表情をすればいいのかわからなかったけど、気付けば彼女につられて笑っていた。
手は自然と、安堂の持ってきたお酒に伸びていた。プルタブを引いて「ぷしゅ」という音が涼しかった。少しだけ口に含んだお酒は私にはちょっと苦くて、でも甘くて、喉の奥を流れ落ちていく。
「イケる口だね! お姉さん!」
「うるさいな。ちょっとだけだよ」
*
それからどんな話をしたとか、何をしたとか、私の記憶からは綺麗になくなっている。それでも、その年の最後に吹いた「精霊の道」を聴くと、この時の事を鮮明に思い出すことが出来る。まるですぐそこに彼女がいるみたいに。
だからこれは四年目の思い出。というか、五年経った今でもこうして思い出せるんだから、これはきっと私の一番の思い出だ。
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