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スマートホンから流れていた「精霊の道」が終わった。最後の定期演奏会で吹いたこの時のソロは、確かに私と彼女で吹いたのだけど、その時の記憶は例によって全く残っていない。とにかくその後の打ち上げで、監督をはじめとした講師の先生方から沢山褒めてもらったのを覚えている。
この曲を聴くたびに、時間の速さというものを思い知らされる。もう5年経ったのかと痛感するのも今年で何回目だろうか。
大学を卒業して就職もしてからというもの、めっきりとトランペットを吹く機会は減ってしまった。あの時は毎日吹いていてもまるで疲れなかったのに、今では仕事が休みの日でも疲労を感じて、どうにも気乗りしない日だってある。にも拘わらず今日みたいに父の楽団からの縁で、ちょっとしたパーティーで演奏させてもらえる機会を頂いたりして、大学時代の私であれば「音楽への冒涜だ!」なんて怒っていたかもしれない。腹が立たなくなったのは人間が丸くなったのか、それとも甘くなったのか。
そんな事を考えながら、トランペットのメンテナンスを行なっていく。ピストンを抜いて、オイルで線を引くように塗っていく。抜いたピストンをもう一度トランペットに差して、くるくると回してオイルを全体になじませる。
……ころん、と言う音がした。指に引っかけていたオイルの蓋が床に落ちてしまったのだ。大学時代であれば、本当に考えられない事だ。一人でいるからつい昔の色々な事を思い出していたからだろうか。または、あいつは今どこで何をしているんだろうというような無駄なことを考えてしまうからかも。
こんこんと楽屋の扉がノックされる。どうぞと答えると、進行係の男性が申し訳なさそうに腰を低くして入ってくる。
「あの、相浦さま。そろそろリハーサルの時間なんですが……」
ちらと時計みると確かにそうだ。「そろそろ」というには時間はかなり差し迫っている。
「……まだ来ていらっしゃらないのなら、後回しにも出来ますが……」
いっそ怒鳴ってもらった方が気が楽なのだけど、彼はあくまで低姿勢だった。それ以上の低姿勢を私が表現できればいいのだけど。
「……すみません、それでお願いしてもよろしいでしょうか」
「かしこまりました。それでは今から30分間次のピアノの方がリハーサルしますので、その次に――」
その時に「ばあん」と無遠慮に楽屋の扉が開けられた。
「あんずゥいる!? 道に迷ってね! ほんとにごめんね! 後で何でも奢るから!」
入ってくるなり彼女は背中のソフトケースを下ろしチューバと楽譜を担ぎ上げる。
「おまっ……どこでなにしてた!?」
ずっと考えていたからか、訊いても仕方ない事が怒鳴り声となって現れる。進行係の人は何があったのか分からずぽかんとしている。
「すみません、見ての通り今来ましたので、これからリハーサル向かいます」
「え、あ、という事はこちらが、安堂ちひろさん?」
「そうです安堂ちひろです! リハ会場はどこですか?」
「こっちだ馬鹿垂れ! だから一緒に出ようって言っただろ!」
「仕事の用事だって何回も言ったでしょ! 出来るなら一緒に出てたわよ!」
バタバタしながら言い合っていると、大学時代に戻ったようで、笑っちゃいけないのに笑ってしまいそうになって、堪えるのに必死だった。
*
舞台袖の向こうで行われているのは立食パーティーだ。かなりお高くとまったレストランでの演奏をしてみないかと言われて、ふたつ返事で了承したのだけど、あまりいい環境ではなさそうだ。というのも、父の所属する楽団の本社(というのか出資者というのか)の新年会らしいけど、あまり音楽には感心は向けられていないらしく、がやがやと談笑する音が嫌でも耳につく。
そんな環境だからか、どうにも緊張感が湧かず私語を挟んでしまう。
「本番に遅刻とか、お前本当に何考えてるんだよ、ほんとに」
「もう、本番前にまで遅刻の事言わないで」
「もう、はこっちのセリフだ」
舞台袖で愚痴を言い合っていると、私達の前の演奏が始まった。ピアノ独奏。まだ高校生くらいだろうか、キリッとした顔立ちで青いドレスが良く似合う女の子だった。落ち着いていて貫禄はあるが、その実力はどうか。
「ちょっとミスタッチが多いけど」と思わず声が漏れる。「うまいね」
「本当にね。高校生でしょ? 世界には凄い人がいるなあ。知らない曲だけど、凄いなあ」
「ラ・カンパネラだよ、リストの。知らない?」
「初めて聞いた。凄いね」と彼女は繰り返した。自分には関係のない世界だと言わんばかりの軽さだったけど、演奏をじっくりと聞いているようだった。
未熟ながらも情熱的なその演奏をこんな近くで聞けるというのは幸運なようでいて、もったいないような気もする。でも、
「まあ、パーティーのBGMだから仕方ないけどさ、あんまり聞いてる人いないね」
「まあ、ちょっと堅苦しい題材だし仕方ないだろ」
うーん、と見るからに納得いってなさそうな態度。確かに言わんとすることは分かる。
「あんずゥ、私達の演奏は聴いてもらえるかな」
「聴いてもらえるように最善を尽くすだけだろ」
「そっか、結局そうなるよね」
演奏が終わって、拍手が響く。ぱらぱらという拍手の中で、一人大きく手を叩いている男性がいた。彼女のお父さんだろうか。何となく、微笑ましいものを見せてもらった。緩んだ頬を引き締めれば、いよいよ私たちの番だ。
「ありがとうございました。続いての演奏はトランペットとチューバのデュオグループ『ANdANte.』のお二人です。曲目は……」
司会者が言っても、会場はざわざわとしたまま。けれど、今の私たちにはそんな事どうだって良いのかもしれない。
「ちひろ」そう呼ぶと、彼女は振り返って微笑んだ。「頑張ろうな」
「もちろん」
本番前のルーティンであるグータッチを交わして、ちひろは舞台に歩いていく。私はその背中に続いていく。その小さい背中は人の寝込みを襲ったり、腹いせに後輩を苛めたり、本番で手を抜いたり遅刻をしたりするどうしようもない奴だ。けれどそれに追い付くまでに、どれくらいの時間が掛かるのか、今はまだ見当もつかない。
舞台に上がって最後のチューニングをする。私の音と、ちひろの柔らかくて暖かい音。二つの音が寄り添うように近付いて、心地良い音を響かせる。遠すぎず近過ぎない、ちょうど良い所で音を止める。それからもう一度目を合わせて、二人で息を吸えば、もう曲が始まる。
*
今までの人生も、これからのことも。
嫉妬も尊敬も、信頼も愛情も、何もかもどうだって良いから、今はただ2人で同じ曲を吹く、この喜びを噛み締めて。
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